1つ前の記事「高校英語:正確さ優先からの転換」に対するご意見をメールでいただき、その方へメールで返信した内容を、記事としてお伝えしようと思います(以下原文のまま)。

*************

私のブログ記事のもとになったものは次のページです。

http://www.jiji.com/jc/zc?k=200909/2009090600086

・・・

日本のテストは、減点方式がかなり徹底されているのがとても気になります。

すでにブログで読まれたかもしれませんが、マラウイの英語テストで、次のようなものがありました。

「あなたはおじさんから自転車を借りました。マーケットで買物をしているときに、その自転車が盗まれてしまいました。盗まれた状況と、どのように償うのかをふくめておじさんへ宛てた詫びの手紙(英文)を書きなさい」

このような採点しにくいテストは、日本では絶対にしないことが、私はとても残念です。こういう問題を解くことをやらなくなるからです。

残念ながら、ヒトは、評価のされ方次第で、研鑽するものがどんどんかわってくると思います。

学校の選抜や、会社などの評価の中身が、実は人の質を決定していいるように思えてならないのです。

それくらい、人の選抜や評価は重大だと思います。大統領や総理大臣の選出は大きなニュースですし、試合やコンテストのランキングはとてもとても重大です。

開成中学校の国語の問題を読めば、開成中学校の国語はこのような問題を解ける人を求めている、というのがわかります。(これも東大と連動していますが・・・)

また、自転車のわび状を書かせる問題を出すのであれば、そのようなものができる人を国は求めているのがわかりますし、生徒たちははげむようになると思います。

出題者(主に大学のことですが)は、明確な差をつけることだけを目的にして問題を作っているように、私は思うのです。

これだけ影響力が大きい選抜のための問題ですので、求める人物像が感じられるようなテストを出してほしいと思います。

・・・

以前ブログで書いたかも知れませんが、フランスの大学は卒業要件として、社会(たとえば会社)から卒業OKを得ないと卒業できないようになっていると聞きました。(3カ月程度社会で実習してからOKを得て卒業になります)

私自身、フランスの大学院生を数カ月預かり(研究所の助手)ました。彼がアメリカのドクターコースへ行くときに推薦状を書いてあげました。

このフランス式のやり方は、すごくいい考え方だと思います。本来、大学が独占したい権力を社会に委ねているのです。(就職活動はどんどんさせたとしても、きっと日本ではやらないでしょう)

社会が求める人材を育成したかどうかの判断を社会に求めているのです。

責任放棄という人もいるでしょう。でも、私は英断だと思います。

社会がどんな人を求めているか・・・

問題を見つけ、そのことを周囲とシェアし、協力して問題解決に当たれることではないでしょうか?

調査も思考も伝達も協力もできないとなりません。

合ってる、間違っている、だけで選抜していると、いずれ、ほしい人が採れない、育てたい人を育てられないことになるのではないかと心配して意見を述べているつもりです。

***

自民党総裁選。

私達へアピールしていたことは「世代交代」「派閥解消」。

内輪の問題を外にアピールしています。また、選ばれた方の意見「1つだけお伝えしたいこと。それは、みんなでやろうぜ」にも唖然・・・。

取り残されているさまは、哀れにも感じられました。

ヒトによる評価と選抜の問題はいたるところにあるので、重大さの度合いは、非常に高いと思います。

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文部科学省が教員向けの説明資料で、英会話では流れを大切にした指導を行い、生徒の積極性を損なわないよう求めていることが今月6日(2009年9月6日)わかりました。

手短に言うと、これまでの高校英語では文法やスペルの正確さを重視しすぎていていたのを、今後は多少の誤りがあっても、目くじらを立てずに流れを重視したものとする、というもののようです。

とてもいい方向づけだと思いますが、ある意味当然な話です。

言葉は伝達する手段であり、コミュニケーションが円滑に行われることが目的であるにもかかわらず、スペルを違ったとか、文法に合っていない、ということで減点することに注力し、それで学力を評価してきたのです。

逆に、自然でなめらかに話せることなどについては、これまで全く評価を行ってきませんでした(ゼロ点です)。

合っているか、間違っているかでのみ、教師も、生徒も必死になって取り組んできたわけです。

だから、ガタンゴトン英語(なめらかでない日本人の英語のこと)から抜け出なかったのです。

今回、文部科学省が方針を変更する、という話ですが、そもそも、「正確さ重視をせよ」とこれまで指示を出してきたのかどうなのかも定かではありません。

大学入試や高校在学中のテストが、そのようなものだけを評価する仕組み、内容だったからにこのようになってきた、のではないでしょうか?

これを改善するのは、文部科学省の通達だけではむずかしいと思います。

少なくとも、「ちゃんと『流れ』を評価するように」と指示しないことには、現場は何も変更しないでしょう。大学入試は何も変わらないでしょう。高校の教室での授業も、そして試験も変わらないでしょう。

これまで通り、評価しやすいものだけ評価するからです。

どう理解し、どう伝えられるか・・・。

要は、伝達の内容と質が問われていることだけは確かですが、どうそれを評価するか。

高校も、大学も真剣に考え、取り組んでいただきたいと思います。

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ききまね英語の第2作「400マスター」をリリースします。

この商品は、初めて英語を学ぶお子様でも、ききまね英語式に、自然な感覚でDVD学習できるように考慮して制作したものです。

ですから、基本的に大人の方は不要だと思いますが、たとえば、学生時代にちゃんと英語を学べなかった戦中派の方とか、本当に一から学びたい方、あるいは、学び始めたけれどもつまずいてしまった中学生のお子様など、利用する価値はあると思います。

20スキットで400の単語と表現(あいさつや文法説明なども含む)を学べるようになっています。

追って、ポイントなどをこのブログでもお知らせしたいのですが、リンクを結びましたので、下のリンクをクリックすると出来立ての案内ページへジャンプします。

ききまね英語400マスターの案内ページ

親として、あるいは教師として教育にたずさわると、子供からエネルギーをもらえる、と言うものの、大量にエネルギーを消費してしまいます。

放っておくと集中しなかったり、遊びがちなのを、どうやって意欲的に取り組ませるか、悩んでしまいます。

そこで、陥りやすい甘い誘惑は・・・。

「遊んででばかりいると・・・ですよ」「こんど・・・だったら承知しませんよ」といった脅しを行うか、「・・・はできましたか」「おさらいはしましたか」と、確認を行うことはよくあることではないでしょうか?

あるいは、「今度のテストでは何点取りますか」など公約を求めることもあることでしょう。それを達成したらご褒美をあたえるかどうか、など、さまざまな手立てを講じることがあるかも知れません。

知らず知らずのうちに、脅しや管理手法を使います。受験勉強など、管理できなければ、成功はむずかしいものもあることは確かです。

このように、まず、発言内容を点検してみると、学習者との関わり方がしだいに見えてくるものです。

脅しや管理が教育の基本だとは誰しも思わないことでしょうが、では、どうすればいいのでしょうか? 

・・・

私は子供のころからピアノを学びました。

当時、男の子でピアノを習っているのも少なかったのですが、音楽を聴くことも、音楽を表現することも、とても楽しめることができ、機会を与えてくれた親を感謝しています。

中学生のころ、ピアノのリサイタルに参加しました。

演奏後、その有名なピアニストは、ピアノの学び方、教え方についてのお話をしてくださり、Q&Aの時間まで作ってくださいました。そこで、

「あなたの一番いい音を聞かせて」

と、そのピアニストは、初めてピアノを弾く子供(幼児)に求めるのだ、というお話をいただきました。

なんと、幼児でも、鍵盤に向かって、すてきな音を作ろうと一生懸命になるのだそうです。

私は、この方法が一番いい教育法だと思います。

ネガティブな発言もなければ、特段管理を強化しているのでも、ご褒美を約束しているのでもありません(もちろん、「ズバリ子供に成果を求めている」のは確かですが・・・)。

音と接する接し方を導く(センスも磨く)この方法は、「おさらいをしましたか」式の管理教育とまったく違うのがおわかりいただけるでしょうか?

実はこれは、目標指向(ゴールオリエンティド)の取り組みにも通じるものです。ビジネスでも、家庭でも、パブリックでも、プライベートでも役立つ方法なのです。

「学ぶ」ときには、学んだら得られるだろう状態についての感覚をしっかりと意識して持ちながら、学ぶべきだと考えています。

私たちは脅しや管理の力で、小さな大切な「センス」と「意欲」を決してつぶしてはなりません。

初めてピアノを弾く幼児でも、「いい音聞かせて」と求めれば、実はセンスを活性化して(音感を研ぎ澄まし)、意欲的に応えてくれる(一生懸命取り組む)という事実は、すばらしいことだと思いませんか?

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この標題の新聞記事(朝日新聞・7/15夕刊)が書かれているのが目に留まりましたが、日本の今の話だとは最初は思いませんでした。

なんでも、息子への手紙の下書きを鉛筆でするのに消しゴムがほしくて、近くのスーパーで万引きした70歳の女に対して岐阜地方裁判所が出した判決が、懲役2年の実刑というものだったようです。

逮捕された後、「二度と悪いことはしない」とスーパーの店長、検察官、弁護士あてに手紙を書いていて、反省の気持ちを表していたようです。でも、このような判決となりました。

常習累犯窃盗罪(つまり、同様の犯罪を繰り返したことに対する重い罪)が適用されたようですが、消しゴム1個(98円)を盗んだことで、2年の実刑は、誰が考えてもバランス感覚を欠いた判決だと言えないでしょうか。

菅谷さんの釈放を契機に、裁判の誤りや裁判所の検察寄りのこれまでの判断などを知ることができました。

日本では、検察が裁判に持ち込んだ99%が有罪になっているそうです。

この数字からすると、ひょっとして、ミャンマーやその他の民主的でないと思われている国々以上に、日本は国際的には「検察の意見素通り」の国家なのかもしれません。

本当に司法が機能しているのだろうか、と不安に感じました。

日本は民主主義国家になったように思われていますが、政治の問題だけでなく、司法についても、形骸化、硬直化していないだろうか、と考えさせられました。

私たちは日常生活を送りながら、社会生活を行っています。

そして「不正義」や「不平等」といったものを感じると、心が反応を起こします。

腹が立ちます。怒りを覚えます。変えたいと思います。

しかし、一般に、日本人は日本社会への適応する力が非常に強く、その反応を抑えてしまうようになっていないでしょうか? すなわち非常に我慢強く環境に適応する、ということです。

たとえば、鼻水が出たら、すぐに薬を飲んでその反応を抑えるように、感じても、その反応を抑え、議論をせず、改善することもせず、時折、「・・・が悪いのではない、悪いのは社会だ」(某コマーシャル)というような、怒りの対象を薄めるような生き方をしていないでしょうか?

平和な国になったわけですから、平和的に意見をしっかりと出したり、議論したり、検討したり、手分けして改善したりすべきではないかと私は考えます。怒らなくても、喧嘩をしなくてもいいので、改善すべきだし、改善するための問題点を整理して、議論して、段取りをつけていくべきではないか、と考えるのです。

もちろん、先日の選挙のように、じっと黙っていても、淡々と野党へ投票するようなことも起こってきているので、変わってきたのかもしれません。

今回の記事「消しゴム万引懲役2年実刑判決」について、単にバランスを欠いた判決があったということだけを言いたいのではありません。せっかく市民が参加する裁判を行う時代に入るわけです。市民が社会に意見を言い、社会の仕組みを考え、社会を変えていくステップ、仕組み作りを考える時代にしたいものです。

300万人以上の死者を出し、領土・財産を失い、国土を焦土と化し、戦争終結すら政府の手で行えず、国際的な信用も国家の名誉も失った先の戦争について、国家としてとくに国民に対して総括をせず謝罪も行わないことを思い出すと、私自身、不正義や不平等、バランス感覚の欠如などについて言う言葉すら失いそうになってしまうことも事実なのですが。

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教育にたずさわる方から、「国語力・英語力」というのタイトルのメールをいただきました。

そのメールの中で英語に限らず、日本語についても、学力の低下の実態と問題点のご指摘をいただきました。

半分冗談でしょうが、「日本語についてもききまね教材が必要かも」、というほどの国語力低下を嘆かれていました。

このお話とも関連して、少し持論をブログの記事としてお伝えしたいと思います。

ききまね英語という教材を開発して販売を行っていますが、その意味・意義として2つあるのではないか、と考えています。

1つは、お母さんから絵本を読んでもらうような、自然に言葉を学ぶ方式を採用し、日本語抜き、英文字抜きの方式にすることで、自然に音声として学びつつ、自然に話せるきっかけづくりをやろうという、メソッド(やりかた)とコンテンツを提供していることです。これはデジタルの技術の進展の恩恵を受けています。

もう1つは、いろんな事象の説明ができるように、「英語」という枠を広げる、ということです。

単純に言うと、「四則演算を英語で読めるようにすらせず、難しい随筆や時事問題の大学入試を行っている現状」に対する改善提案です。

小学校1年の算数くらい、日本の大学生には読めてほしい、という願いです。

そうでないと、かりに英文は類推しながら、辞書を引きながら読めても、また、Webであらかた調べたり、ダウンロードすることはできても、きっちりとスピーチしたり、手紙を書いたり、交渉したり、研究発表したり、という情報発信の伝達スキルが不足し、力が劣ってしまうからなのです。

私自身、日本の英語教育を受けて、大学を卒業していながら、「四角形」という単語の英訳(rectangle)すら知らずに物理・数学を教える教師としてアフリカに派遣されました。

うそのような話ですが、まさにこのギャップ、アンバランスに苦しんだ当人なのです。算数や理科にかかわる基礎の基礎の英語欠落が身にしみました。中学、高校で教えておいてほしかったと思いました。

将来、世界で活躍する若者たちには、同じ経験をしてほしくないのです。

私は、このアンバランスは英語教育の大きな問題だと思っていますが、そう考えられない方もいらっしゃるでしょう。

英語は英語、理科は理科、数学は数学と。でも、垣根が高すぎないでしょうか? 同時に教える必要はないと思いますが、数年程度離してでも学べたらと思います。

問題を発見したり、課題を見つけた時、それを広く知らしめて(アピールして)、「いっしょに解決しよう」と声を上げることは日本では行われにくいことです。広く知られたことであっても、通常、サイレントマリティー(沈黙している大勢)となっていることが多いのではないでしょうか(がまんしていることが多いと思います)。

日本には厳然と調和を尊ぶ文化があります。また、日本人はいい意味で、怒るべきシーンでも結構平静で、極端に走らず、甘んじて受け入れます。いわば寛容と中庸?の精神があり、激昂したりしません。これは世界的にはかなり特異であり、私はある意味、すばらしいことだと思っています。

しかし、逆に言うと、問題が発生しても、きっちりと、とことん突き詰めて考えたり、解決していく意欲を保持したり、進める点で、歴然と(一神教系・肉食系・動物家畜文化系といったリーダーシップ重視の)西欧と差を生じているのではないかと感じてしまいます。

決して、西欧文化が優越している、と言いたいのではありませんし、日本の良さを実感しています。しかし、論理的に話すことや、このような話をすると通常、うさんくさく思われたり、対応されるのが普通です(もちろん、興味がない場合も多いでしょうが・・・)。

西欧でも、もちろん、キリスト教が強すぎた中世の時代には、科学も芸術も主体性・創造性の点で抑圧を受けていた(自主性が抑えられていた)ようですが、ルネッサンスの開花や科学技術の発展をみればわかるように、潜在的には「知」や「美」や「理」などへの強い欲求が中世の時代にも厳然とあったため、急激に文化・文明が開化したのではないかと思います。

私たち日本人にも「美」の感性や「調和」についての深い文化があります。ジェームス・カーカップ氏のご意見「Quality of Life」もあります。そしてそれは、これまで作ってきたものを壊さず、維持する力として働いています。この基本がヒトの社会として絶対的に必要だと思いますし、何とか、終わらない紛争を続ける地域・民族の人々にも伝えたいと思います。

日本は、単に地理的に島国だったから長く国が続いているのではなく、「美」「調和」そして「我慢」と「適応」の文化も、長く国を栄えさせてきた理由なのではないでしょうか。

このような日本的な良さを維持しつつ、西欧的な合理性、そしてリーダーシップも活かせる、いわば「ハイブリッド」な方式が受け入れられていけばいいな、といつも私は考えています。

日本人がこれまで、さまざまなものを世界から取り込んできたように、ハイブリッド化が進められないものだろうか、と。

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2 + 3 = 5 は英語で?

2009 年 7 月 2 日

2 + 3 = 5

これは小学校低学年の算数です。

もし、「英語でどう読むか」と聞かれたら、日本人の大多数、おそらく100%近くの方は

Two plus three equal five.

と読むと思います。

東大に合格したばかりの人たちに聞いてみても、その比率はほとんど同じではないでしょうか。

でも、残念ながら答えは違います。

equal ではなく equals (動詞の三人称単数現在形)であれば正解です。しかし一般には「=」は「is equal to」と読みます。つまり、

Two plus three is equal to five.

が正解です。

どうしてこのような簡単なことができないのでしょうか?

教えられていないからです。そしてテストの設問にないからです。どうして設問しないのでしょうか? 算数だから?

このように、日本の英語教育では、どんなに難しい文章や、時事問題や、シェークスピアなどを英語で学んでいたとしても、小学校低学年の算数を英語で正しく読めない、という現実が存在しています。

日本の英語教育は読み書き中心、丸暗記中心であり、「英語を話せない」という問題が指摘されていますが、(論理記述などに必須な)基礎を学ばせず時事や文学などに傾斜している問題に気づきます。さらにまた、(入試などで)より基礎的な問題を設定して選抜を行おうという考え方が欠如している問題が浮かび上がってきます(難問で選抜しようとする方式です)。

もし、「それは算数であって英語ではない。英語教師は算数や理科を教える必要はない」という意見の方がいたとしたら、私にはもっとショックです。そうであれば英語という狭義の「教科」の設定をやめにしたらいいのではないか、とすら考えてしまいます。

いくつか類似の表現です。

等しくないは is not equal to です。
等価は is equivalent to です。
相似は is similar to です。
合同は is congruent to です。
平行は is parallel to です。

すべて be + 形容詞 + to という構造をしています。覚えるのはすごく簡単です。

3 m は three meter(メーター)ではなく three meters(ミーターズ)です。これも、日本の大学生に解かせたらどうなるでしょうか?

本来このようなことを学ぶべき中学校では、学ぶタイミングを失い、私たちは高校へ入学します。

正三角形は equilateral triangle です。
四角形は rectangle です。
直角は right angle です。

このような基礎的な言葉は、大学入試には出ません。出しません。しかし、日本の大学生の何パーセントの人が知っているでしょうか? 知る必要がない言葉でしょうか?

もし、このような単語を知らずに日本では大学へ進学できるということを、たとえばドイツ人に話したら、びっくりすることでしょう。信じてもらえないかも知れません。

知らなくていいのでしょうか? 学ばなくていいのでしょうか? では、どうしてこのような状態を放置するのでしょうか?

もし、文部科学省の方々は、このような状況であることの問題に気づいていないとしたら、もっと恐ろしいことです。気づかずして改善はできないからです。

私は入試問題の内容や試験の仕方が変われば、抜本的に改革できると考えています。言い換えると、入試でしっかりと(このように基礎的なことを理解した人を)選抜できないから、教育のひずみを直せないのだと考えています(高校で教える教師も学ぶ生徒も、ある意味、大学入試の制約がいっしょにかかっていて、大学入試問題から変革すべきだと思います)。

確かに英語はコミュニケーションの手段であり、情報を収集する手段でもあります。しかし、単にコミュニケーションあるいは伝達の手段というだけではなく、物事(論理や科学)を学んだり、認識したり、思考するための標準的なツールです。

英語を使って事象や概念を定義したり、説明できるということは、英語を使ってきちんとコミュニケーションできることにつながります。また、世界をまたにかけて学ぶことができたり、異なる人種や意見の人たちと協調できたり、交渉できたり、ビジネスできたりすることが可能になります。

したがって、英語という言葉を思考や論理を組み立てる道具としてく位置づけようとすると、「2 + 3 = 5」を正しく英語で話せないということは、非常に重大な問題と言わざるを得ないわけです。

小学校の英語授業が必須になり(2011年)、高校の英語の授業は原則英語で行われることになります(2013年)。

ネットで英語関連のニーズを調べると、とかくTOEICなどの選択問題テストでいかに高得点を取るかということや、「英語耳」とか「聞き流し」などがはやっています。点を取ることと楽をして受動的な能力を高めることが一般の関心事になっています。

しかし、国際的にまたがって能動的、主体的な行動をしようとすると(たとえば、スピーチする、論文を発表する、説得する、調停や和解を進めようとすると)、論理にかかわるような基礎的な(英語)表現は完全に使いこなせないと、非常に困ることになるのです。

私はそのような人材を日本から輩出するべきだし、そのために英語を学ぶべきだと思います。

ぜひ、今後、きっちりと基礎的な学力をつけるようにしたいものだと思いませんか?

少なくとも日本の大学生は「2 + 3 = 5」を英語で正しく読めるようになってほしいと。

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ネイティブ無視の和製英語

2009 年 6 月 26 日

ちまたには英語表現が氾濫しています。

ネイティブ信仰とは正反対に、ネイティブの英語感覚を全く無視する和製英語もたくさんあります。

標識や案内文などで、必要に迫られて英語化しているものもありますが、商品名やキャッチコピーなどの場合、日本語だけの表現より意味合いを深めたいため、または新しい感覚(雰囲気)を入れたいので英語にすることもあるでしょう。

残念ながら日本人が日本人的感覚で作った英語の場合、英語として変だったり、不自然だったり、意味を勘違いすることがあります。

言葉というものは生き物なので、新しい言葉は最初は「変」でも、次第に市民権を得ていくこともありますので、いちがいに、和製英語だからダメというつもりもありません。でも、どういうふうに「変」に思われるのかを知らないことも多いのではないか、と思いますので、いくつか最近感じたものをあげてみたいと思います。

三菱自動車の「Drive@Earth」。

宮崎あおいさんが「ドライブ・アット・アース」と「日本語式」に発音するコマーシャルを作り、全面展開している「英語」のキャッチコピーです。

このコマーシャルを見ただけでは何を伝えたいのか、さっぱりわかりませんでしたが、三菱自動車のホームページに解説があってそれを読んでようやく理解できました(かけがいのない地球から離れず、地球ドメインで走り続ける、というような取り組み姿勢を表しているようです。その意味では「at」は正解だと思います・・・)。

無冠詞で「earth」というと、地球ではなく「土」や「地面」という意味になります。

ですから、地球と言いたいのであれば、この標語を読むときには「the earth」としたほうがいいでしょう。

ただし、その場合でも、前置詞は「at」ではなく「on」になるのが自然だと考えます。

つまり「(to) drive on the earth」という表現がもっとも自然で一般的な英語だと思います。

しかし、三菱自動車の意図としては、メールアドレスの「@」にかけて、「earth というドメインで走る」という表現にしたかったようです。

でも、「drive at earth」というと「地を走る」という意味にはなっても「地球を走る」という意味には遠いと思います。

このように日本人でも意味がすぐにわからない、英語ネイティブにもわかりにくい標語を作り、膨大な費用をかけて広告していくというのには疑問符ですが、(言葉には多少の不自然さも斬新さを生むこともあるので)ある意味、頭が下がります。

この程度のキャッチコピーと実際の言葉とのギャップは許容範囲ではあると思われますので、単にチンプンカンの和製英語とは言い切れませんし、「地球ドメイン」という取り組み姿勢いをPRしたい、という気持ちがあるので、否定できませんが、残念ながらシンプルな表現でありながら、日本人にも、ネイティブにもわかりずらいコピーなのではないでしょうか。

次は、パナソニックの「ビエラ」。

実は私自身このビエラ携帯を使っているのですが、小雪さんがテレビのコマーシャルに出てきて、

「ヒューマン・ビエラ」「きれい!」

というものです(でした)。

何が変なのか、ほとんどの日本人は気にされないと思います。

「ヒューマン」

という言葉を聞いたとき、私自身ドキッとしました。

「知能を持った『人』である『ビエラ』」と、つまり「ヒューマノイドのビエラ」と言ったように感じてしまいます。「これ、ヒト?」という驚きです。

パナソニックはきっと「人にやさしい」「人が使うことを十分考えた」という意図で「ヒューマン」という英語を使っていることだと思いますが、おそらく英語にはそのような語義はなく「人の」という意味になってしまいます。

どうして日本人は「ヒューマン」という言葉がそのような意味合いを付加してしまうのか不明ですが、「ニューマニズム」という言葉の存在もあるのではないか、と思います。

昔、某化粧品メーカーが

「For Beautiful Human Life」

という(ネイティブに読ませる)コピーを大々的に広め、ネイティブの間では不可思議、ナンセンスな広告とされたものも思い出されますが、ここでも「Human」という言葉が出てきています。この中の「Human Life」とう表現がナンセンス(意味不明)なのです。「For Beautiful Life」で十分なのになぜ「Human Life」にしたのかが英語ネイティブには意味不明なのです。

パナソニックはビエラの宣伝で最初は「ヒューマン」を出し、一時ひっこめましたが、その後、また「ヒューマン」を出してみたりしています。

こんどはカタカナで「ヒューマン」ですから、「英語ではない」という主張もあるでしょう。日本人にはある程度意味を伝えますが、ネイティブには思わぬ意味を伝える(誤解させる)可能性がある表現です。

このような和製英語に対する日本人の感性を利用した広告は、非常に変ですのでやめたほうがいいと思いますが、ひょっとして和製英語起源の「human」の語義が英語辞典に追加されることがあるかも知れません。

このようなキャッチコピーについては、正しさより語感が重要なので、和製英語であっても仕方ない、あるいは意味があることがありますが、キャッチコピーでない、たとえば案内文などの場合は、和製英語ではまずいと思います。

電車に乗っていると、掲示している英文で不自然だったり誤っている表現のオンパレードです(乗る機会は少ないのですが、都営地下鉄の英語表現は割と良いように思います)。なぜこのようなことになるか、と言うと、ネイティブまたは英語が堪能な人のチェックをスキップしているからでしょう。

去年の記事にもありますが、約1年ほど前、JR東日本の電車の電子パネルへの掲示に「現在時刻」の英訳として「Now Time」と出ていて、その誤りに気付いて訂正をお願いしましたが、なんと直るのに8カ月もかかりました。

(Current Time, Present Time, Time Now はOKですが、Now Time はダメです)

このように、ネイティブ信仰をしながら、ネイティブ無視もするのが日本の特徴ではないでしょうか。

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ネイティブ信仰について

2009 年 6 月 1 日

ベータラボは「ききまね英語」という英語教材を作っています。

ききまね英語のホームページ

ききまね英語Blog

専門のホームページやブログもあるので、詳細はそちらを見ていただきたいのですが、熟考伝達でも伝えたいと思ったことを述べてみたいと思います。

自然でなめらかに話すようになりたい、と考えた場合、どうされますか?

「英語漬けにしたほうがいい」というのは、誰もがすぐに気づく解決法です。

私も、青年海外協力隊に参加してアフリカ・マラウイ共和国へ赴任する前の3カ月ほどは、「日本語禁止」の英語授業を受けていましたし、これはとても効果的だと思いました。

先生が離れたすきに、同期の仲間同士日本語で小声で話していると先生に気づかれ「Pardon?」と言われて、制止を受けました。風呂場でも、背中を流しながら隣の仲間と英語で話していました。

英語で話さなければならない、という状況こそが、英語で話すようになる一番の近道であることは、確かに体験できました。

学校英語では、最近ヒアリングテストと称して聴覚テストのような音声だけ聴いて答えるようなテストを実施していますが、基本的にはペーパーテストで習熟度を測りながら、英語設問(クイズ)に定められた時間に答える力を養成しています。

大学の入試問題をみても、書面で尋ねた設問をいかに早く正確に選択できるか、だけが評価の対象となっています。

私は、非常に大きな労力、時間、コストをかけてきていながら、コミュニケーション能力を高めるようになっていないこと、それを計測することをほとんど放棄した入試となっていることを非常に残念に思います。

文部科学省の学習指導要領のトップにある「外国の文化に親しみ、コミュニケーション能力を高める」という目標を達するための対策がなされず、ほとんど計測も、評価もせずに戦後英語教育を進めてきているのではないか、と残念に思っています。

ほとんどの方が「その通り」と思っても、「では、どうしたらいいか?」については、以下のような方策くらいが思いつくものだったのではないでしょうか?

A.海外渡航して(ネイティブによる)英語漬けをする

B.(ネイティブによる)授業で自然な英語を学ぶ

C.(ネイティブが話す)自然な英語を大量に聞き流す

これらはすべて「英語漬け」と「ネイティブ」が必須のものとなっています。すべて有効な方法ですし、とりわけAはすばらしい効果があることは確かです。

しかし、日本人から自然な英語を学べないのでしょうか?

日本は明治維新後、多くのことを諸外国、とりわけ欧州から学びました。政府はミッションを送り、数か月、数年滞在させ、学ばせ、帰国してからも、多くの情報伝達を行いました。

同じように、かなり自然に話せるようになりさえすれば、ネイティブからでなくても伝えられるもの、学べるものがあるのではないかと思いますが、いかがでしょうか。

(このネイティブ信仰は日本の防衛状況と似たものがありますが、その話に入ると深く、複雑になるのでここではやめます)

海外に行ったことがない、非常に優秀な翻訳者を私は知っています。翻訳に関しては、文字がメインですので、渡航経験はある意味、まったく不要でしょう。

ネイティブであろうとなかろうと当然、自然でなめらかな英語を話せるようになるには、日々、自然に話し続けることが大切です。

しかし、教育現場では、残念ながら、英語の先生ご自身が、(文法的・語法的な)誤りを冒すことを恐れて、あるいは自然さより正確さを求めるあまり、英語をあまり話さなかったり、テストに出ないものは排除したりしてきていたとしたら、とても残念です。

そのような状況が続いたため、ネイティブ信仰が確立されてきたとも言えるのではないでしょうか?

テレビを見ればわかるように、数十年前では考えられない状況になってきています。

日本へ来て、ぺらぺら日本語を話す外国人がどれほど増えてきたのでしょうか。もちろん、テレビに出ている人たちだけではありません。

同じように、英語を学び、どれだけぺらぺら英語を話す日本人が増えてきたのでしょうか?

さて、2013年に英語での高校英語授業が開始です。

私自身、これは文部科学省の英断だと思っています。

いやがおうにも教室で話さなければならないわけですから、自然に話せるようになるステップとなる可能性大です。

この、とても大切なステップへと進まなければなりませんが、どうするかはほとんど現場任せになってるのだと思います。

さてさて、そのときも「さあ、ネイティブの発音を聞きましょう」などと、ネイティブ信仰は保持されたままなのでしょうか?

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恐れていた時が来ました。

全く抗体を持たず、感染力の高い新型インフルエンザが急速に広まっています。

今のところ、弱毒性であり、致死率が低いので、パニックを起こしていないのではないかと思いますが、神戸や大阪はきっと大変なことだと思います。

東京も、すぐにやってくるだろうと思っていたときに、昨夜のニュース。

またまた、高校生。

もし、はしかのように、二度とかからないのであれば、弱毒性のうちに、感染しておいたほうがいいのかもしれません。簡易ワクチンとして。

でも、こればかりはわからないのがむずかしいところでしょう。

個人的には、マスク、手洗い、うがい以外には、プロポリスや乳酸菌といったものもいいのではないか、と考えています。

今後、マスクは必須のアイテムになるでしょうが、マスクの下にプロポリスの液を噴霧しておいたり、マクロファージなどの活性を高める乳酸菌をしっかりとって、体内の免疫系に「しっかり守るように」指令を出しておきたいと思います。

どうか、新型インフルエンザは蔓延しませんように。

かりに、広まったとしても、逆に次回以降の免疫になりますように。

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規則と中庸(2)

2009 年 4 月 17 日

日本人または日本の優れたところの一つとして、「議論はほとんどしなくとも(明文化しなくても)、秩序立てた行動を行うこと」があげられると思います。

「優れた」とすると、一部の方からお叱りをいただきそうなのですが、あえてこのように申し上げたいと思います。

駅の階段が真ん中に仕切りがあって、仮に下から見上げて左が上り、右が下り、のように決めてあったとします。 人が多くないときは、ほとんど守られていないような駅でも、いったんラッシュの時間帯になるとかなりの割合で守られるようになるのです。

ラッシュ時間帯を利用するのはいい人たちで、それ以外は悪い人、というわけでもありません。 守るべき時と守らなくていい時とをわきまえている、ということです。

さらに人の数が増えてきて、到着した電車からどっと人が降りてきて、そのため、階段の下りの人の数が大幅に増えた場合どうなるのでしょうか。

そう、1列程度はみ出てくるのです。その微妙な調整といったら「すばらしい!」「計算しつくされたようだ」とまでほめたくなります。 このはみ出しのおかげで、階段が人をさばく人数が増えるのです。つまり、効率アップを人間システムが実施しているわけです。

もちろん、マナーの悪いところもあるでしょうが、それは、一般に、往来量が少ないところが多いのではないでしょうか。

もちろん、このような議論もある程度ざっくりとしたものであって、決して日本人が非常にマナーがいい、と言えるものでもなく、単に環境適応している、と言ってたほうがいいかも知れません。

ちょうど、「エジプトはナイルの賜物」といったように、日本のこのようなマナーは、「ラッシュアワーの賜物」である可能性も大なのです。

規則を徹底して書きつくさなくても、人間が運用するときに、判断することはこのようにできます。

駅での人の移動は、道路交通法の適用は受けないかも知れませんが、たとえば、公道の場合、同じような問題が起こることがあります。公道では、 赤信号で渡ることは明らかに道路交通法違反です。でも、明らかに左右を見てもまったく車がなく、わたる距離が狭く、渡れるような場合に信号無視することもあるでしょう(無視しないとある流れがオーバーフローしそうなときは特に問題です)。

でも、これも程度問題で、自分の都合でスイスイ信号無視をされたら、運転する人には迷惑このうえないものですが、このあたりの微妙な調整力が求められるのではないか、と考えます。

ただ、むずかしいのは、それを子供に見られたときの説明です。 「どうして、あのおじさん、赤で渡っているの?」 と聞かれて 「あの人は悪い人です。ひかれるかもしれないから、絶対真似したらだめですよ」 と言うこともあるのではないでしょうか?

(大阪弁で)「場合によりけりや、だいじょうぶそうやったら渡ってええんや。でも気をつけや」 という場合もあるかも知れません。

「気をつけや」 と言い渡せない子供に、このように言うのはちょっと問題なのです。 きっと、警察が聞かれたら「絶対だめです」と答えることでしょう。

でも、私たちの世界はこの程度の幅を持って運営されているのが実際のところで、ややファジーなところがあるのが実情でしょう。

いつも私が通る、新宿の細い道。 わずか4~5メートルあります。

ほとんど、そこを横切る車はなくて、左右を確認しながら赤でも渡る人が大多数です。 でも、実際には、よく見ていないと、10分の1くらいの確率で、渡る車がやってきます。 ですから、実際には注意していないとあぶない場所です。

そしてそこは、実は新宿警察署の斜め前ということもあり、警察が見ていることもあるのです。

そのときは、ほとんどの人はちゃんと止まっています。 これもまたすごい。日本人の適応力の高さを感じるシーンです。

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規則と中庸

2009 年 4 月 14 日

私が高校生だったころ、地域にいらっしゃった警官のお話です。

全国トップの検挙数を上げ、何度も表彰されていた、有名な方でした。

ただ、その検挙の仕方が特徴的、といいましょうか、特別でした。

草の茂みにひそみ、ヘルメットをしていないバイクを運転する高校生に職務質問をしたり、雨で満員になったバスを止めて、到着時間が遅くなることを心配する乗客をよそに、道路交通法違反の容疑で乗客数を「1・2・3」と数えていました。

このようなことを知り、初めて、定員以上の乗客を乗せるのは実は道路交通法違反であるのだ、と学びました。

その警部は、本人のご兄弟までも摘発されたことも言い伝えられていました。

検挙数で表彰する仕組みでは、当然、この警部のように「摘発」「検挙」をすることに集中する人が高いランクを得ることになります。

誰もが「やり過ぎ」だと感じるでしょう。

でも、そのやり過ぎを上司や警察という組織、あるいは社会全体がコントロールできないことを、悩むべき問題だと思うのです。

法律など規則には、明示されていない目的や精神がありますが、それらを考慮せず、「文言どおり」適用すると不都合や不便が生じる場合がほとんどです。

警察でも、消費者センターでも、非常に多くのクレームや情報が集まってきます。

通常、過去の判例などと照らして違法性が高いかどうか、被害がどの程度か、影響がどの程度大きいかなどを動的に判断しながら動いているようです。

もちろん、「何で取り締まってくれないのだ」と思うシーンに遭遇することもありますが、通常、影響や効果を考慮しながら、平等の原則や法律を合わせて考慮して、当局は動いている、あるいは動かそうとしている、と考えることができるでしょう。

孔子の言行を記した「論語」を読むと、今から2500年前という大昔に、規則だけで社会をコントロールしようとする考えを批判されています。

当時すでに、自然を尊ぶ「道教」の思想も、また、規則で社会をコントロールする思想もあり、それらについて、さまざまな場面で考えを述べています。

孔子の発言から「厳密な適用をしようとすると極論となったり、しっかりと考えておかなければならない『中庸』を意識しないようになることが問題だ」と指摘しているように読み取れます。

周末期のこの混乱の時代に、どうしたら平和を保ち、社会を発展できるか、について問い続けた孔子は、「仁」や「孝」など、伝えれば理解できる、感じることができる、人を思う「心」を中心に考えること、人との接し方「礼」を大切に考えて行動することを伝えています。

さてさて、この警部に「やり過ぎ」と伝えることはできます。

でも、全国トップの検挙率という名誉ある表彰を与えながら、「やり過ぎ」をたしなめることは案外むずかしいものです。

あなたは、そのような方に、何と伝えますか?

そもそも何も伝えませんか?

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都下水道局の制服につけるワッペンをデザインの規定に不適合であるために作り直し、無駄に3400万円かかった、というニュースが伝えられています。

一様に「無駄な支出」の批判の声があがっていて、石原都知事も「けしからん」と発言されています。

いずれにしても、今回の件については、デザインの規定の方が優先され、税金3400万円が余分に支出されたわけです。

いろいろな対処法が考えられたと思います。

1.作り直さずにデザイン規定に反したワッペンを使う

2.ワッペンを入れない制服を使う

3.弁償させて作り直す(新たな支出を補う)

4.弁償させずに作り直す(余分な支出をする)

といった方法がありえたのでしょうが、「ワッペンは付けたい。無駄な支出でもおとがめがない」から4が採用された、というわけです。

3400万円の無駄支出があっても、責任者二人への訓告という注意程度で済むわけです。

使い込みだったら牢屋行きでしょうが、間違いだから注意で済みました。

でも、納税者にとってみれは、不注意でも、過失でも、意図的な犯罪でも、負担は同額です。

おそらく、このような無駄な支出は氷山の一角でしょうし、無駄な建造物や組織など、無駄遣いの疑いのあるものはいくつもあるのではないかと思ってしまいます。

実は、制服の胸に着ける、とても立派とはいえないワッペンに、単価・何千円ものコストをかけることも問題なのですが、そのことには今回は焦点が当たっていません。

非常に気になるのは「無駄な支出」をさせない、あるいは監視する、あるいは罰する、あるいは償わさせる規則がない、ということです(無論、会計検査院といった仕組みも、不正防止などの面である程度機能しています)。

どうしてでしょうか?

まず、無駄かどうかの評価がむずかしいことがあげられるでしょう。

つぎに、無駄だとわかっても、それを決裁者や担当者に弁償させることは、金額的にも困難だと考えるからです。

そのようにすると、誰も政治家や役人になりたがらないからでしょう。

しかし、政策や予算執行をいくら失敗しても、いいのでしょうか。

世論は残念ながら、その場限りの突風のようなもので、過ぎれば穏やかになる、あるいは忘れてくれます。

世論は残念ながら、感情的な「けしからん」中心であり、「いい仕組みにせよ」という具体的な改善要求は突きつけません。ですから、「無駄遣い予算執行への罰金規定を定めよ」などとは言わないのです。

社会保険庁の問題でも、ボーナスが出なかった程度しかパニッシュメントはありません。

そもそも、日本国憲法ですら、「健全な財政を行うこと」を国権の責務である、と規定していないのです。

私は常々、国権(司法・立法・行政)に対して唯一優越する存在である憲法が、国権の責務を明確に規定していないことが、法治国家日本の最大の問題だと考えています。

確かに平和主義をうたった、いい憲法ですが、変えてはならない、絶対のものでしょうか?

でも、そのような発言をすることは、タブーなのです。

発言すること自体で「改憲論者=軍国主義者」とみなす方が多くいらっしゃいますが、私は平和主義者ですし、きっちりと国の枠組みを定めるべきだと考えているのです。

この憲法では、国民の権利を認めつつ国民の義務を明確に規定する一方、国権の機能(サービス)の大枠は定義しながら国権の責務の規定と基本的な目標設定を、何ら行っていないのです。

もし、私が憲法のドラフトをスケッチするとしたら、以下のようになると思います(天皇についての規定は除く)。

(明確化)【前文】 歴史的な位置づけ(国民、諸外国への明確な侘びと反省を含む)と今後の方向性の明示

(新)【目的】 国家・国民の発展を維持する

(新)【国権の責務と機能(安全)】 国民の生命財産を守る=外交・防衛・防災・環境のガイドライン

(新)【国権の責務と機能(財務)】 適切に予算立て、予算の執行、結果の評価を行い、健全な財政の維持をすること

(明確化)【国権の責務と機能(その他のサービス)】 平等かつ有益なサービスを提供する

【司法の責務と機能】

【立法の責務と機能】

【行政の責務と機能】

たとえば、福祉は、国民の生命・生活を守るために国家の機能であり、実は責務でもあるわけです。

環境対策をすることは、単に世論や世界的な要請ではなく、国権の責務として扱う対象であるわけです。防衛も防災も国民の生命財産と守るという観点から同一のレベルの話です(防災・消防も防衛も同等に扱っている国々はかなり多いです)。

このような機能を適切に提供することが、国権の責務であり、無駄な支出、あるいは無駄な支出により適切な支出ができていないとしたら、それは国権としてあるまじきことだと思いますが、いかがでしょうか?

ですから、「詳細は法律で定める」と記述するにしても、憲法のレベルで、しっかりと上記のような機能と責務ならびに守られない場合に対処するためのガイドラインを示すべきだと思います。

それがないから、無駄支出はなくならないし、改善するための法律も定められないのです。

ですから、「赤字がどれほど増えていっても赤字を改善する方策が立てられないことは重大な問題であり、これは憲法違反である」と言えるような憲法、法体系を定めるべきだと私は思います。

変えないことも一つの方法でしょう。

でも、問題を見つけること、解決のための方策を熟慮検討すること、伝達して問題意識を共有すること、協力して改善努力をすることは、労力がかかりますがとても大切なことではないでしょうか?

残念ながら、思考停止、あるいは思考をさける風潮が広く存在しますし、それは社会的なタブーとも無縁ではないでしょう。

さてさて、大赤字をさらに増やす15兆円の補正予算。いったい、誰が責任を持つのでしょうか?

誰も責任を持たないこと、何からも規定されないこと、そして「考えよう、改善しよう」という改善要求世論が出てこない現状を、私は残念に思います。

ひょっとして「これは国権の、完全なまでの自由」だったら驚きですよね。

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Yes/Noの文化的背景

2009 年 4 月 7 日

「Noと言える日本」という本が、ずいぶん前に話題になりました。

普段あまり意識していない「日本」「日本人」の特性のようなものを伝えられたような気がしました。

もちろん、「No」と答えにくい国民性に焦点が当たっていたのですが、私はそれは当然の思いやりだと思っています。

自分の個人的な意見であれ、相手が伝えてきたり求めてきているものに対して「No」とは言いにくいものだし、言っては悪いと考えるのは当然のことだと私は思います。

なぜかと言うと、「No」という答えを言わなくていいように、言葉を選び相手に同意を得るような問いかけやお願いをするのが私たち日本人の文化だからです。

同様な文化的な状況は世界各国を調べたわけではないのですが、多くの国であると思っています。

私が二年間過ごしたアフリカ、マラウイでも、そのあたりは日本と全く同じでした。

普通、相手が「No」と言わなくていいように尋ねるのがマナーです。

だから、わからなければYesといっておけば間違いありません。

マラウイ北部の言語(チトゥンブーカ)では、Yes は「エー」。No は「イヤイー」と言います。

響きが日本語に似ていて、気持ちまで伝わる感じがすると思います。

少し脱線して、チトゥンブーカの言葉をご紹介します。

水はミシ(ひょっとしてマジだったかも知れません)。

トウガラシはピリピリ

たくさんはチョメーネ

ちょっとはパチョーコ

ちょっとずつはパチョコパチョーコ

語感が日本語に似ていたのは本当に不思議でした。

トウガラシはいっぱいかけないで、というのに

ピリピリ・チョメーネ・イヤイー

と言えばいいのです。

コカコーラありますか、を

コカコーラ・アリコ?

のようにしゃべっていたのを聞いて、日本語しゃべったと思ってドキっとしたのを覚えています。もちろん、現地語です。

私はほとんど英語を使った生活だったのですが、たとえば、タンザニアへ行った協力隊隊員たちは、(英語以上に)スワヒリ語をペラペラ話せるようになっていました。

脱線を戻しまして、「Yes」と「No」の件。

問題は、Noと言える精神的な強さを持っているかどうかなのではなく、 話している言語の文化的背景がどうか、をちゃんと考えていればいいのではないかと思うのです。

No と言っても問題ない文化的な背景がある言語の場合、平気で No と言えばいいのです。

でも、そうではない場合、相手の意図を考慮しなければコミュニケーションをうまく取れないことになってしまいます。

「日本人よ、No と言えるようになろう!」

というのは文化や文脈を無視したスローガンです。

「No と言って良いか悪いかどうか、言語や文化、状況で判断しよう!」

が本来の考え方ではないでしょうか。

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桜・桜・桜

2009 年 4 月 5 日

東京も桜がほぼ満開になりました。

自宅近くの桜並木です。

とてもきれいです。

桜の木1

桜の木2

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求める人物像

2009 年 4 月 4 日

時代や社会が求める人物像はさまざまですし、変化もしていきます。

儒教的な見方、仏教的な見方、キリスト教やイスラム教的な見方などいろいろあることは確かです。でも、本質的に、個人なり社会の平安や幸福、あるいは発展に寄与する「ヒト」なり「仕組み」が求められているのではないでしょうか。

個人のリーダーシップを重要視するか、しないかで別れるのも確かです。

欧米、一神教的な世界ではリーダーシップが必要不可欠、絶対なものです。

それに対して、東洋的な世界(多神教あるいは無宗教)世界では、リーダーシップより和、あるいは適応などが重要になります。

とはいえ、時代の変革期には、日本でもリーダーシップを発揮した人たちが名を残し、業績を残し、尊敬を集めたことも事実です。

宮沢賢治の詩を思い出してみましょう。

・・・

雨にも負けず
風にも負けず
雪にも夏の暑さにも負けぬ
丈夫なからだをもち
慾はなく
決して怒らず
いつも静かに笑っている
一日に玄米四合と
味噌と少しの野菜を食べ
あらゆることを
自分を勘定に入れずに
よく見聞きし分かり
そして忘れず
野原の松の林の陰の
小さな萱ぶきの小屋にいて
東に病気の子供あれば
行って看病してやり
西に疲れた母あれば
行ってその稲の束を負い
南に死にそうな人あれば
行ってこわがらなくてもいいといい
北に喧嘩や訴訟があれば
つまらないからやめろといい
日照りの時は涙を流し
寒さの夏はおろおろ歩き
みんなにでくのぼーと呼ばれ
褒められもせず
苦にもされず
そういうものに
わたしは
なりたい

・・・

日本人にはしみじみとくる、本当にいい詩です。

背景に仏教的な思想があることも私たちに親しめる理由があるのだと思います。

ところが、現代は状況が変わってきました。

しみじみと想い、和をもって協調的に行動する時代から、知識を求められる時代へと入り、さらに先へと進んでいるように思われます。

私が考える人物像を1つのパラグラフで申し上げると、以下のような表現になります。

単に知識を持っているだけでなく、現状を把握して課題を見つけ、その解決のために方策を調べて熟慮検討し、知識や考えを共有しながら、問題を分担して解決していくことを進める人物、あるいは協調的に推進できる人物

もちろん、自分が大切にする「心」を否定する必要もありませんが、非リーダーシップ型社会(これまでの日本)の欠点は、上記のような人材を評価し、選抜する基準も、仕組みも、そして努力もない、ということが挙げられます。

ただし、私的な企業では、社員に対してこのような人材かどうかを評価する流れになってきていることは、多くの方がご存知でしょう。

でも、社員を採用する場合には、せいぜい、面接を行う程度です。その中で、やる気能力、そして周囲との協調性について主観的な評価を行います。

日本は効率重視の世界なので、悠長に人を選ぶこともやりません。やりませんが、 働いてもらいながら、実は選抜をおこなっているのが実情でないでしょうか。

はずれることも多々ありますが、やらないよりはやった方がいいので、どこも面接くらいは行います。

本来、容姿などに影響を受けやすいので、平等の観点で望ましいものではないのでしょうが、知識偏重になりがちなペーパーテストの欠点を補うために使われるわけです。

「人」が「人」を評価したり、選抜するというものが、私たちの社会では最も重要なことがらです。これについては、以前別の記事で書いたので述べませんが、ちゃんとした選抜基準ができ、ちゃんとした選考が行われるならば、意味のない選考や勉強もしなくてすむことは確かでしょうし、いい社会を建設するより具体的なステップを進めていくことができます。

なぜ、こんなお話をするかと申し上げますと、たとえば、いい公務員を採用しようとして(現在、民間とは違ってペーパーテストだけで選抜していることが多いのではないかと思いますが)、 人が人の何を見て、何を評価したらいいか、について真剣に考えて変革していかないとならない時代になってきていると思うからです。

天下りの問題がいろいろと議論されています。

でも、どのように適性を判断して公務員を選抜するべきか、などの議論を全くせず、「民間と違って天下りできるのはけしからん」だけで決定するようなことがおかしいと思うのです。

どのように選抜し、どのように評価し、どのように待遇を与えたか、一連のものを考えるべきではないでしょうか?

一時、文部省(日本の教育)が、問題点や対策をしっかり検討せずに「ゆとり教育」という方向へ走ったことがありますが、たとえば、もし東大の入試が「人格重視」に変わったとしたらどうなるでしょう。

「人格を磨く道場」とかはやるかも知れません。

マナー教室がはやるかも知れません。

ひょっとして、論語がもっと読まれるようになるかも知れません。

入試は大きく変わりますので、社会は大きく変わります。

実は、私たちの世界の問題は選抜の問題ではないかと、最近よく考えるようになりました。

どうしてかといいますと、この重大な選抜を、多くの人が「目標」にして毎日を送っているからなのです。選抜や試合にエネルギーを費やし、勝つことを誇りに思い、強いストレスをかけているからです(イチロー選手の潰瘍の話をニュースで聞きましたが、本当にかわいそうです。社会も本人もどれほどのストレスをかけたことか) 。

たとえば四択問題で選抜するから、四択問題で高得点を取る方法に熱中し、技を磨きことになります。つまり、最適解を求めるのです。そして、それで成功する人や組織が幅を利かせることになるのです。

たとえば、東大入試が「人格評価第一優先とする」としたらどうでしょうか?

「え、どのように人格を評価するの?」

と尋ねるでしょう。むずかしいのはわかっています。だからこそ、考えてみる価値がありませんか?

これまで、どうやったらいいか、考えていないことが問題なのです。だから解決へ進まないのです。

そのままにしておくと、出題側は、採点しやすく差をつけやすい問題しか出しません。

安定的な評点を付けられるものしか採用しません。

大切だと分かっていても、たとえば不平等が生まれる可能性がある場合、そのやり方は採用されませんから、点数評価だけの世界へと邁進するのです。

単に知識を持っているだけでなく、現状を把握して課題を見つけ、その解決のために方策を調べて熟慮検討し、知識や考えを共有しながら、問題を分担して解決していくことを進める人物、あるいは協調的に推進できる人物

という人物を採用しよう、と仮に考えたとします。そうであれば、それなりの選抜方法ができてきます。

・課題発見力
・調査力
・解決力
・伝達力
・協調的な進行管理力

それ知っている、という方もいるでしょう。最近は、会社はこのような力を社員に対して求めることが最近増えてきました。でも、残念ながら、入社試験段階では皆無でしょう。

そうそう、1つたまたま思い出しました。私が青年海外協力隊に志願した時の問題は「あなたが、遭遇した最大の困難を記述せよ、それをどう克服したかも記せ」でした。

こんな問題は上の目的に近いことは確かです。

私は、大学入試こそ、このような能力や努力を求め、評価する仕組みができないものかと思います。もちろん、公務員の採用も昇進にも。

その影響力たるもの、あまりに大きいからです。

もし、これらの力を求め、そして評価する仕組みさえあったなら、きっと起こらなかっただろう思う、社会保険庁の置き去り事件など、数限りなくあります。

食品偽装であれ、「社会的な問題」を解くカギは、社会が求める人材をどう定義するかにかかっていると思うのですが、いかがでしょうか?

とにかく、問題が起ころうと、起こりそうであろうと、それを予見し、対応し、伝達し、段取りし、皆と解決していく人材が一番必要なのではないのでしょうか?

現代の問題を解決するための1つの考え方です。

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ききまね英語B1の全画像

2009 年 4 月 3 日

リリース記事

以前からお知らせしています、「ききまね英語 B1(Basic Course Volume 1)」の全スキットが確定し、使われている画像を公開しました(「全」といいながら、8割程度です。一部、発売時のバージョンで使われないことも考えられます。ご了承ください)。

1. People

2. Actions

3. Vehicles & Facilities

4. Small Items

5. Stationary

6. Naure & Landscape

7. Shapes, Colors, and Numbers

8. Animals

9. Others

10. Food & Vegetables

詳細は、専門サイト(ききまね英語Blog)へお訪ねください。

広告という実験

2009 年 4 月 2 日

広告とはメッセージを市場に届けることで変化や反応を得るものです。

テレビや新聞、Web、あるいはメールといったものは、広告の媒体として発信者と市場との中間に位置します。

単純化すると、ある一つの広告でどれだけアクセスがあったとか、会員申込や資料請求があったか、あるいはどれだけ売り上げたか、という計測できる数値と、元手の費用、届けられた市場の大きさとの比較で「広告」の評価を行います。

ここでむずかしいのが、市場の反応を計測するのと、媒体の力を計測するのと、広告物(メッセージ)の内容を計測するのと同時に行われることです。

つまり、いっしょくたになってしまうので、注意が必要です。

同じメディアであっても、届けられる時間帯によって反応が違うこともありますし、同じ商品についての広告でも、広告内容で反応が全くと言ってよいほど変わってきます。

市場の層も、性別や年齢だけでなく、趣味・嗜好により大きく性質が変わってきますので、多少のグループ分けをしながら(これをセグメント化といいます)、あるグループに対していい反応が出ることを想定して、広告を流し、その結果を評価します。

さて、20世紀の初頭に行ったラザフォードの実験というものがあります。

これは、薄い金箔に放射線の一種であるアルファ線を照射して、その結果を分析する、というものでした。

アルファ線とは陽子が2個、中性子が2個のプラスに電荷を帯びた粒子であるので、同じくプラスの電気を持つ原子核とは反発します。

さて、この実験の結果はどうだったのでしょうか。

ほとんどのアルファ線はそのまま通過しました。

しかし、一部は散乱し、まれに、正反対に打ち返えされるものも出てきました。

この散乱結果から、実は原子核のサイズを計測することができたのです。

ミクロの世界は見ることができないほど小さいのですが、反応されうる物(粒子や光線)を投げつけ、その反応を調べることで、見えないものがどうなっているか確かめることができたのです。

ミクロだけでなく、マクロも同じように実験で調べることができます。

広告はまさに、マクロに対して投げる光線のようなものです。

ほとんど無反応かも知れませんが、ごく一部帰ってきた反応の中に、市場の強いニーズや期待などが混ざっていることがあるのです。

私たちは20世紀の科学者と同様、しっかりとこのリアクション(反応や変化)をキャッチし、見えないものに代わって教えてくれるものを得なければならないでしょう。

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BWFジャパンとPX2について

2009 年 4 月 1 日

心理学者であり、トレイナーとして名高い(長年アメリカ水泳チームのトレーナーでいらっしゃいます)ルー・タイス氏とドクター苫米地氏のセミナーに参加したお話をしました。

ルー・タイス氏はBetter World Foundation (BWF) という組織を立ち上げ、

・戦争と差別のない世界の実現

・地球上のすべての人たちが、それぞれの夢に向かって生き生きと暮らせる世界の実現

というビジョンをもって活動をされています。

また、この組織はThe Path to Extreme Success2 (PX2) という教育プログラムを開始し、普及事業を行っています。

心理学であり、認知心理学であり、啓発プログラムであるものが、教育的、社会的なプログラムとなり、また、世界の平和のためにムーブメントとしていることにとても興味を持たせていただきました。

先日のセミナーも実は、教師たち向けのものでした。

かつては宗教や、国家といった権威をもつものだけが行ってきた、いわばミッションのようなものを非営利の財団活動として行われています。

なるほど、と思われたところも非常に多いので、このトピックについても、折りがあればお伝えしようと思います。

ドクター苫米地は、経営的には独立していますが、このムーブメントの日本代表をつとめられています。

先日、ご紹介した「完璧なまでに自由」もこの活動の基本的な位置づけなのです。

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東京もようやく温かくなってきました。

桜は開花して数日たちますが、なかなか満開になりそうにありません。

さて、去年の暮れにブログでご紹介した新宿中央公園の花壇の花たちはちゃんと越冬し、うれしそうに春を迎えています。

私に食べ物をおねだりしていた野良猫も、ずいぶん大きくなっていました。

新宿中央公園の花壇の花A

新宿中央公園の花壇の花B

私たち人間も、氷河期のような経済を早く越冬したいものです。

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筑波の科学万博で展示されたトマトの話をご存じでしょうか?

水耕栽培で、たった1株のトマトから1万2000個の果実を実らせた話です。

どのようにしてそんなすごいことができたのでしょうか?

それは、徹底してトマトの立場になり、何が成長、そして果実を実らせることを阻害しているかを探し出して、それを排除することで得られた成功なのです。

「しっかり土に根を張って」と私たちがいつも言うように、自然界では「太陽」と並び「土」こそが一番大切なもののように言われます。土は植物を育てる必須の要素だと思われています。

しかし、決してそうではないそうなのです。

実は、多くのバクテリアを含む土こそが、植物の成長を制約する一番の要因であることが分かったそうです。

植物たちは日々、土の中のバクテリアと戦い、疲れ果てているそうなのです。

だから、水耕栽培にし、たゆまず栄養溶液が流れる中でトマトをスクスク育てたら、たった1株から1万2000個の果実を実らせることに成功したのです。

この話をして下さったのは、私が勤めていた研究所群(複数の研究所の集まり)の中の1つの会社の社長でした。

「私の仕事は、皆さん(研究員)のじゃまをしないこと、のびのびと成果を出せる環境を整えることです」

と社長は言い切られました。

このように、命令や制約などを全く排した、いわば「完璧なまでに自由」の中であれば、とてつもない成長が可能だそうです。

社長の言葉を聞いて、うれしく思いましたが、もちろん、それをプレッシャーに感じる方もいるでしょう。

「完璧なまでに自由」とは、実は難しいものです。

(実は、苫米地英人氏らが財団を作り、進めている運動の思想は、この「完璧なまでに自由」の考えです)

もちろん、成長することを待てなかったり、一定量の成果を約束させたいがため、通常、私たちの社会では、(最低限保証や罰則などの)制約をかけますし、少なくとも精神的なストレスをかけていきます。

よく、「自由と義務は表裏だ」などと言います。

ところが、「完璧なまでに自由」な世界では、決して義務を課さないのです。それでは自由にはなりません。「自由との引き換え」といったケチな話では決してありません。

もちろん、結果をありのままに受け入れることは必要なことでありますが、「義務」を与えられているわけではありません!

普通、「そんなことできるのだろうか?」と思われるでしょう。

「最低限の成果の保証はないと」と言われるでしょう。

自分が会社の社長をしていても、自分に対してゴールを定め、最低限の想定をし、それをいつも考慮しながら事業展開するのが普通ではないでしょうか。

テレビや新聞など、マスコミ報道を見ていると、どのように感じられますか?

今回のWBCと北京五輪。同じ日本の野球に対するものです。

結果が違うから? ですか。

そんなに結果が大切ですか?

人には結果を求め、自分の結果にストレスをいだく社会を皆で営々と作っていると思いませんか?

大人しいはずの日本人。中国人や韓国人も同様ではありますが、すごく順位を大切にします。気にします。

英語教材を販売しようとマーケットを調べてみるとどれほど、「TOIC」「英検」・・・などを銘打ったものが多いのに驚かされます(TOICの得点など)。

ランキングが大好きです。勝つか負けるかをすごく気にします。(それはいいとしても)それをプレッシャーにします。

・・・いつも不思議なのはインド人です。どうもオリンピックも金メダルもまったく興味がない様子。すごく私はこの国民性が気になります・・・

さて、昨日の浅田真央ちゃんの試合の結果。

私は若い女の子に対してあまりにも酷なプレッシャーを与えていると思います。

私たちはマスコミを武器にして、アスリートたちに称賛か批難を与えます。天国か地獄を与えます。

浅田真央ちゃんが3位以内に入れない演技は大々的に「失敗」とされます。ブログを炎上させることを非難するメディア、一般紙も、社会から、よってたかって「どうして」「なぜ」と一斉にプレッシャーをかけます。

名誉毀損は罪になりますが、集団暴行に近い、このようにストレスをかけることはなんら問題ないことだと思われますか?

社会からだけでなく、本人からも相当なストレスをかけていることでしょう。

このような状態が一番生き物を伸び伸びと成長させない要因となります。

ストレスとは、アレルギーのように、自分自身が体内に向けて放つ毒素です。

体も、精神も疲れ、若さを次第に失うことになるでしょう。

そうでなくとも、年とともに、ウキウキするような気持ちやチャンスは少なくなり、逆に、いやなことなどが増えてくるものです。

決して、自分に対して追い詰めるようなことはやってはならないでしょう。

もちろん、他人に対してもマナーとして失敗したアスリートたちにプレッシャーをかけたりしないようにしたいものです。

伸びる芽を皆でむしり取っているようなものですから。

・・・私も若いころは、このストレスは「肥やし」だと思っていましたが、最近、考えが変わってきました。経験は必要だし役に立ちますが、何度もある必要はなく、そのストレスは自分自身を弱らせ、老化させ、酸化させる要因だと思うようになりました・・・

完全な自由など難しいことはわかっています。

でも、だからこそ、考えてみるべき、問うてみるべきことではないでしょうか。

最低限、もう少し社会のマナーは改善したいと思うのですが、いかがでしょうか?

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ドクター苫米地(左)と私

「英語は逆から学べ!」「『1日10分』で脳が生まれ変わる」などの啓発系ビジネス書籍を売りまくり今注目を集める脳機能学者・計算言語学者のドクター苫米地こと苫米地英人博士、ルー・タイスさんらのセミナーが本日都内で開催されました。

私が提唱している「ききまね英語」も、ドクター苫米地の考えと共通するところが非常に多いことや、以前の記事でも書きましたが、実は、入れ違いではありますが、同じ研究所(株式会社ATR自動翻訳電話研究所)にいたこともあり、ぜひ、彼のセオリーも直接聞き、会ってお話したいと今日のセミナーに飛び込むことにしました。

(恐れ入りますが、このセミナーの内容は非常に壮大なので、ここでの説明は省かせていただきます)

セミナー終了後、お会いしてお話できました(写真左が苫米地英人氏、右が私・側嶋康博)。私たちは生まれた年も同じ、共通の職場に勤務しただけでなく、実は共通の友人もいたこともわかり、とてもうれしかったです。

そこで、同時通訳までスラスラこなす彼に、釈迦に説法は承知の上で、「ききまね英語」の無料お試しをプレゼントしました。

簡単な説明をして、お渡しすると、第一声「あ、いいね」と。

また、追ってコメントをいただく予定ですが、取り急ぎ、このブログで状況をご報告いたしました。

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言葉の構文と意味

2009 年 3 月 27 日

(1) 私は明日彼と会う約束をした。

という文と

(2) 私は昨日彼と会う約束をした。

という文は言葉の並びは全く同じ。違いは「明日」という語が2番目の文では「昨日」になっていることです。

私たち日本人には、(1)では「会うのは明日の予定」であり、(2)では「約束をしたのは昨日」だということが間髪を入れずわかります。

どうして、そのような解釈がすぐにできるのでしょうか。

おそらく、(1)では「明日」と「した」とでは意味的な整合性が取れないので、この解釈は除外しているのでしょう。でも、(2)では「昨日」と「した」とは構文的にも意味的にも整合性が取れるので、「約束をしたのは昨日」という解釈をするのだと考えられます。

語句の並びが同じでも、構文(構造)が異なっている例です。

ところで、日本語と英語はある意味、正反対の言語です。

人類がアフリカで誕生したとして、西のはずれのヒトの言葉(英語)と東のはずれのヒトの言葉(日本語)です。

日本語は原則、重要な言葉が文末に置かれます。

英語は主語の次に来る語が一番大切な語である動詞です。

俳句や和歌など、コンパクトな表現にギュっと圧縮可能な不思議な言語の日本語。

それに対して、主語と動詞を言ってしまったら、単語の説明や節をぞくぞくと付加していける、いわば永遠の世界へ広げられる言語の英語。

極をなす両言語同士で翻訳できることの方が不思議なのではないでしょうか。

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