マラウイの英語の試験問題

2008 年 10 月 17 日

イギリスの植民地だった、アフリカのマラウイ共和国(独立は1964年)の公用語は英語です。小学校(プライマリースクール)1年生から英語を学んでいます。小学校は8年生まであって、9年生がセカンダリースクール1年生です。もちろん、かなり厳しいテストで振るわれて進学してきます。セカンダリースクールは4年制ですので、合計12年課程の後、大学受験ができます。日本の6+3+3制度と合計の数では合いますね。

セカンダリースクールの2年生から3年生になる時に、国家試験(Junior Certificate of Education)があって、そこでいったん振るわれます。日本でいえば高校1年生から2年生に進学するときにあるテストのようなものです。そのときの英語のテストの問題を見て驚きました。と申しましょうか、深く感心しました。

あなた(=生徒のこと)は、おじさんから自転車を借りたと想像してください。そして、その自転車を使って町の市場へ出かけました。自転車から離れて、しばらくして戻ってみると、借りていた自転車が見当たりません。おそらく盗まれたのでしょう。これからが問題です。おじさんへあてて、どのような状況で自転車をなくしたのか、どう償うのかについて伝える手紙を書きなさい

このような問題だったと思います。日本では大学入試ですら出そうにない実用的な問題です。もちろん、公用語が英語で、小学校1年生から英語を学んでいる国だから、むずかしい問題が出ている、と言いたいのではありません。

英語の力を試すのに、単語の知識を試したり、文法の知識を試すのではないのです。英語が使えるかどうかを調べているのです。もちろん、英語以外の知識や能力が試されている面もあります。また、評価がむずかいしからいい設問ではない、と日本では排除される可能性が高い問題です。

皆さんはいかが考えられますか?

自転車=bicycleのスペルが書けるかどうかが一番の問題ではないのです。仮に「bicikle」と書いてあっても伝わるのであれば重大な問題ではありません。おじさんに「よしわかった」と思ってもらえるかどうかが、コミュニケーションツールである英語の試験問題なのです(英語の試験時間は、丸一日くらいあったと思います)。

4択問題だけで選抜する日本の大学共通の試験など、とても恥ずかしいと私は思っています。日本では1日か2日ですべての教科のテストを行います。もちろん1次試験の一部としてマークシート方式の問題をすることはありえます。なんと、私が教えたマラウイですら二十数年前に、知識を確認するためにマークシートのテストを行っていました。でも、日本ではそれで大学へ進学できたりするのです。

マラウイの大学進学の試験は、なんと1か月かけて行います。物理化学のテストは、マークシート、一般のペーパーテスト、そして実験まで合わせて9時間です。これは Malawi Certificate of Education といって、イギリスの試験制度(General Certificate of Education)がほとんどそのまま導入されたために、レベルはもちろん多少劣るものの、しっかりした評価・選抜の制度となっています。

何が大変か。もちろん、生徒も大変ですが、当然、その採点が大変になります。教職員が年度末の休みの期間(7月から8月にかけての10日間くらい)、マラウイ大学に泊まり込みで試験採点をするのです。採点基準はあらかじめ作られています。しかし、採点者が納得いくまで、さまざまな回答への配点についてとことん議論します。出題者が試験採点を行う部屋の真ん中にいて、配点で悩んだ場合、その人に集中して配点決定するようになっています。それを2度、行います。つまり、別の採点者が再度採点をチェックした上で、高い得点を与えた方に決定されるのです。

1980年代に、イギリスの経済的な低迷を「英国病」と呼び、割合順調なアメリカや急速に伸びてきた日本などと比較されていました。「ジャパンアズナンバーワン」などの著作も世界で売れた時代です。そのころ、イギリス経済の低迷の理由を、レベルが高すぎる教育にある、と説明する話を聞きました。私はそうかも知れない、とも考えました。

教育に徹底的に力をかけた結果、非常に優秀な人材が大学(アカデミックな世界)から出てこないことが、大卒を大量生産する日本と比較されていました。確かに東大出を頂点とする日本の役人・サラリーマン養成機関では、ものごとを深く考えるためではなく、一定水準の知識をもった組織が必要だったと思いたくなるばかりの、試験制度や採点・評価制度のように感じてしまいます。

教育において、知識を与えることと妥当な評価をすることはもちろん無視できません。しかし、考えさせること、解決のために努力する方策を求めることこそが一番大切なのではないでしょうか。そのため、大学入試でむずかしいエッセイの問題を4択問題で解くことはできても、わび状すら書くことができないのです。

会話ができないのは、「話す機会がなかったから」と、英会話学校などがはやっています。しかし、国際社会で通用する人を作るのは、小学校、中学校からすでにスタートしています。私たちは「点数で評価しなければならない」ことを悩むより、評点をつけなくても、さまざまな話をしてあげること(子供はお話が大好きです)だけでも、大きな学習効果があると思います。また、解くために、調べたり、聞いたりすることも大切な学習です。仮に問題が解決できなくても、どのように取り組むか、段取りをどう進めるか、どう問題を共有するか、一連のアクションをどう発表するか、これらすべてが評価対象なのではないでしょうか。

私の場合、だいたい

  • Excellent(秀/クラスで一人もないことも)
  • Very good(優)
  • Good(良)
  • Satisfactory(可)
  • Poor(不可)

のような採点を行っていました。特別なことはありません。もちろん、素点を出したうえで、丁寧に評価を書いてあげました。必要によりコメントをつけて。この、先生からもらった評価は、子どもたちの宝物です。学期末に帰省して親に見せることが、学んでいること、成長していることを親に伝えることができる、彼らの親孝行なのです。そしてこれは、親も、子どもも、教師も、地域も喜ぶことができるものなのです。

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2 Responses to “マラウイの英語の試験問題”

  1. SALTY-SALTY Says:

    日本の教育制度では、自分で考えて行動できるかどうかのテストはなかなか難しそうですね。まず、どう評価するのかが問題ですね。「これが模範解答です。」というような解答のないテストは、評価する側の人格も試されるんですよね。
    日本の小・中・高校で、そんな出題ができ、評価ができる教師はどれほどいるでしょうか?
    また、その出題に答えられる子どもはどのぐらいいるでしょうか?

  2. admin Says:

    そうですね。子供を評価しようとするのではなく、子供がどう反応しているのかを観察すべきだと思うのです。涙を流して話を聞くことも、目を輝かして話を聞くこともあるでしょう。何を感じ、何を得ているのかをキャッチすることが一番大事なわけで、それを教師が次の教育に活かしていくことが一番大切なことだと思います。
    いっしょに涙を流すのもすばらしい体験ですし、教師からコメントを出さずとも、自分で評価できるようになることが本来の教育だと思います。特に、コメントしようとすると道徳など、非常に難しいものになってしまいますが、他人の悲しみをわかること、他人の苦しみをわかること、喜びをわかること、それだけで十分だと思います。コメントしなくても教師が教育の場を作ることはできると思います。
    子供といっしょにいてあげるだけでも、立派な教育ではないでしょうか。

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