スピード社の水着を触ってみました
2008 年 11 月 28 日
昨日、北京オリンピック競泳日本代表監督の上野広治さんの講演会に参加しました。
新宿法人会が主催の研修会だったのですが、「水泳ニッポン復活の戦略」というテーマでお話しいただきました。
上野さんは、メダルゼロで終わったアトランタオリンピックの後、ヘッドコーチに就任し、「チーム力」「オープンマインド」を掲げ、プロの選手たちに「ニッポン」という所属をしっかり認識させながら、コーチたちの温かいサポートと人間関係をうまく組み合わせて、いい成果を得ることに成功しました。
スピード社の新型水着「レーザー・レーサー」の出現により、世界新記録が続出する事態となりましたが、コマーシャリズムやスポンサー、そして組織委員会などさまざまな力関係の中、新型水着を採用して、大きな問題もなく舵取りをされました。
講演の場が法人会なので、「いかに目標に向かってマインドをそろえられるか」「成果を出せるか」「ピークを本番に持ってこれるか」「プレッシャーなどのストレスとどう対処するか」などが中心テーマでした。
当然ながら、皆で力を合わせて参加し、競うわけですから、共通の目的なり目標をしっかり定め、共有することが大切になってきます。エピソードを含め、いろいろなお話をしていただき、有意義な時を過ごすことができました。
例の「レーザー・レーサー」も実際に持ってきていただき、会場内を回して、参加者全員が触れてみることができました。
やはり女性の参加者には生地などが特に興味がある様子です。
「硬い」という話もありましたし、肌に馴染むような素材ではないとも思いましたが、手に触れているこの無機的な素材の水着で次々と世界新記録が生み出されたことが、とても不思議に思えました。
1着7万円もすること、着るのに30分もかかることがあること、サイズはS,M,Lの3通りしかないことなどを教えていただきましたが、体にぴったりと装着するため、競技の前にプールに入って調整せざるを得なかったそうです。
実は、試合前に水の中に体を漬けることで体温が下がってしまうため、いい記録を出すという点ではマイナスの要因となったそうです。しかし、そのデメリットもはねのけて続々と記録が打ち立てられました。
どんなにいいものも、デメリットがあること、それを両方とも取り入れていかなければならないことがわかりました。
上野さんは高校の先生でもあります。なんと、アマチュア監督が、プロ選手たちを上手に束ね、いい成果を出してこられたのです。すばらしいですね。
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中庸について
2008 年 11 月 27 日
孔子が「論語」で述べている重要な考えが「中庸」です。これは、儒教の柱とされる「仁義礼智信」と並ぶ概念ではないでしょうか。
実は、この「中庸」が、分かったようでちゃんと分かっていないことが多いと思います。
カウントしたわけではありませんが、「論語」の中で「中庸」について述べている箇所が非常にたくさんあります。その中で3つほどご紹介します。
まず1つ目です。
「過ぎたるは及ばざるがごとし」です。「やりすぎと不足のどっちが良いか」と聞かれたときの孔子の回答です。そこで、両者とも中庸でないという点でダメだとの評価を得ています。きっとそうでしょう。すんなりわかる例です。
次の2番目のものは、はじめはよく分からなかったものです。
「良いことを思いついたとき、すぐにすべきかどうか」と尋ねられたとき、孔子は、人によって異なる答えをします。
Aさんには「あなたには父兄がいらっしゃるのに、尋ねずに行動すべきでない」と答え、Bさんには「すぐにやりなさい」と答えます。
「え? 不統一じゃないか!」と思いませんか?
実は、これが中庸だったのです!
思考が浅くすぐに行動に移すAさんには父兄に相談することを、また思慮が深く、いつも他を気遣っているBさんには迷わず行動することを勧めているのです。
私たちはとかく絶対的な答えを求めますが、短絡的な行動となっていることがあるようなのです。判断、行動する前に、一歩立ち止まって、状況や立場、関係、などをちゃんと考える、判断する、その上で行動すべきなのでしょう。ですから「中庸」は実は難しいのです。
現代社会は高度に工業生産や情報伝達が進んだ時代です。ここで、ちゃんと状況や立場、関係などを考えて判断し、行動することから逃げていないでしょうか?
たしかに、ズバ、ズバと言う人の言葉が(短期的には)強く感じます。最近は有言実行の風潮があります。しかし、発言が配慮を欠如していたり、妥当でないと後でわかったときは、言葉の価値が地に落ちてしまいます。
さて、3番目の例です。
これも、それを読んだとき、すぐには意味、意義がぴんと来なかったものです。
世の中が安定している時には、正しい意見は大きい声を出して伝えてよいが、世の中が混乱している時には、正しい意見であれ自嘲しなければならない、というものです(意訳しています)。
これも、ある意味、「中庸」の概念に基づくものだと考えていいと思います。よってたかって混乱を大きくしてはならないという意図だと思われます。
さて、意見を述べる場面だけでなく、コマーシャルの表現を伝える場面でも、この「中庸」はとても重要です。しかしながら、私たちはつい「効果」を重視して、このことを忘れがちです。
しかし、対立するもの、対比するものとの比較や、状況や場面についての判断はとても大切ですし、「中庸」を心がけることによって「品格」が作りだされていくことを私たちは実は体験的に知っていないでしょうか。
発言する前に頭の中で「中庸」と言ってみる
行動する前に頭の中で「中庸」と言ってみる
表現をリリースする前に「中庸」と言ってみる
このようにして、最低限の品格は確保したいものです。
現代の社会状況(犯罪など)にしても、経済、政治の閉塞状況の原因にも「中庸」の欠如があるように私は感じています。
短絡的な思考、短絡的な行動、成果や効果という1尺度だけに基づく宣伝や経済活動は、短期的に効果はあっても、実は長期的にはマイナス資産をため込むことになっているのではないでしょうか。そしてそれが突然破裂する!
男性(ばかりではありません)が短絡的に暴力に走ったり、
女性(ばかりではありません)が運命や占いに走るのは、
思考や判断することから逃げていることです。
ぜひ「中庸!」と心に言える余裕を持ちたいものです。
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ダグラス・バウマンのホームページ
2008 年 11 月 26 日
Webデザイナーとしてとても有名な方をご紹介します。
ダグラス・バウマン(Douglas Bowman)という方です。
彼のホームページは、上品で、力強くて、とても繊細です。
このホームページをとても気に入っているので、変更されないか心配しています。
もちろん、変更される場合には、さらに面白く斬新なページになるでしょうけど・・・。
このサイト内の閲覧ページごとに、背景のデザインも変わりますよ。
私はその中でも、彼自身についての紹介ページ:
の色合いが大好きです(かっこいい青年です)。
彼は、単にきれいなデザインのサイトを作ることだけでなく、新しいWeb(xhtmlとcssという記述方法)を率先して実践したことで有名です。
ゆっくり彼のサイトをご覧ください。
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論語は社会のFAQです
2008 年 11 月 25 日
この三連休の間、解説書ではありますが「論語」についての本を読み始めました。
「うーん」と言ってしまうような話がたくさんで、とても興味深いです。「本当に二千数百年前の話だろうか?」と思ってしまうほど新鮮な言葉に驚かされます。感銘を受けた話のいくつかをご紹介してみたいと思います。
孔子が死後の世界のことを尋ねられたとき、「現存社会ですらよく分かっていないのに」と、論ずることすら避けます。彼は死後の世界、神秘主義などを極力排除します。あくまで現実世界で社会が秩序を保ち、発展していくために人が人とどう接すればいいのかを「仁」「礼」「徳」といった言葉で具体的に説明します。
孔子が「聖人」と言われたときにも、「とてもとても」とその意見を受け入れません。どうしてかと言うと、「聖人」や「君子」「大臣(非常にすぐれた臣下)」などの定義を行っているのは彼自身であり、自分はそれに当たらないと明確に述べているのです。
「友の遠方より来る、また楽しからずや」と、感覚的感情的にわかりにやすく伝えていることや、「40歳=不惑」「50歳=天命を知る」などの話も、「40歳はどうあるべきだ」と教条的に教える話ではなく、「私自身はこうだった」と感想を述べているさまを読むにつけ、自身の立ち位置を明確に知り、自身の行為による効果を明確に測りながらデンタツしていることを、私はすばらしく思います。
自らを「神」だ「王」だ「皇帝」だと権力を集中させ、権威を高めてきた人や、死後の世界や神秘性などを伝えて「(知らない、分からないことを)信じること」こそが大切な行為だと求める宗教者とは全く立場が異なっています。
とかく、人間は自身が不完全なため、完全なもの、あるいは未知なる強力な力を求めがちです。たとえば、孔子も完全な人だと考えたり崇めたりしがちですが、そのこと自体、彼から否定されるでしょう。彼の関心はそのようなことではなく、どうしたら平和に明るく暮らしていけるか、人と人はどのような関係を保てばいいのかについて、まさに草の根の伝道をしながら、為政者の求めがあればそれに応えていくという態度を貫いていますし、いい家庭を作ることもいい国家を作ることと同じだと言い切っています(人と人との関係だからです)。
論語は、主に弟子たちの疑問に対する回答の書です。FAQ(Frequently Asked Questions=よくある質問)といってもいいのですが、弟子たちもズケズケと質問し、見事に回答している様子がとても興味深く、とても楽しく読める書籍です。決して古臭いものでも、権威主義のものでもありません。不安定な時代だからこそ、読んでみてはいかがでしょうか。
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オブジェクト指向とマッシュアップ
2008 年 11 月 21 日
ソフトウェア工学の中では「オブジェクト指向」という方式や「マッシュアップ」という技術はとても役立つ便利なテクノロジーとなっていて、私たちは皆、その恩恵にあずかっています。
個々の意味合いは違いますが、単純に言えば「共有化テクノロジー」と名前を付けられるのではないでしょうか。
皆さんが今、この記事を読んでいるときに、ブラウザを通して読んでいます。ブラウザはインターネット経由で情報を入手したり、画面に表示したりします。
ブラウザを開発した人は、何を利用して作ったのでしょうか?
そう、部品です。
むずかしい言い方をすると、あらかじめ機能が分かっている部品(これをクラスから生成されたオブジェクトと呼ぶ)を組み合わせて作ったのです。
例えば、「ウインドウ」クラスだとか「アイコン」クラスだとか、いっぱいあるわけですが、作ったものも、クラス化することで、再利用・共有化できます。機能の大部分を継承しながら別の機能を追加して、新たに子供のクラスを作ることができます(ちなみにクラスとは雛型のことで、実際に仕事をするオブジェクトを生成できるものだ、と考えていただいていいと思います)。
マッシュアップ(グーグルマップやこのブログに付けている検索エンジンも)という、他のソフトウェアを組み合わせる技術も現在、活発に使われています。
私たちは、生まれたときから「現代」に生きていることができるのは、過去の遺産があるからです。そしてその遺産は新しい遺産にすることができるのです。
オブジェクト指向がソフトウェア工学の世界にはやり始めたとき(90年代初頭)、ちょうどソフトウェアの研究開発をする研究所にいました。学生時代に量子力学を学んだときと同じくらい軽いショックを受けてしまいました。
もちろん、モジュール化のようなはやりもありましたが、中身を見せない(プライベートな)部分と、外部にデータや機能(振る舞いとも呼ばれています)を明示し提供する(パブリックな)部分の両方があって、上手に利用すると、見事に、周囲とコラボレーションできることを知り、うなりました。
プログラミング言語で言うと、C++(シープラスプラス)とか、Java(ジャバ)といったものが代表的です。
このようなオブジェクト指向のプログラミング言語やマッシュアップ手法などにより、非常に少ない労力で大きい成果が得られるようになっていますし、この流れはさらに加速する勢いです。
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指揮者が振っているのは一拍先です
2008 年 11 月 20 日
オーケストラの演奏などで、指揮者と演奏が合っていないように見えることはありませんか?
もちろん、演奏者が指揮に合わせるので、演奏が指揮に合っていないというのが適切なのかも知れませんが。
しかし、そうではないのです。合っていないのが合っているのです!
なぜなら、今の演奏ではなく、一拍先の指揮をしているからです。
一拍先が強くなるのであれば、今、強く振っているはずです。また、一拍先が弱くなるのであれば、今、弱く振っています。速度が速くなるときは、演奏より速く振っているでしょうし、また、速度が遅くなるときは、演奏より遅く振っているでしょう。
このように、リーダーたるものは、皆に合わせるのでなく、次はどうなるのかを示さなければなりません。
ご存じのとおり、邦楽では指揮者はいません。誰もが、場の雰囲気やこれまでの流れを察知して、自主的に演奏を続けていかなければなりません(環境適応型)。
それに対して、牛を追う少年(カウボーイ)は、方向を変えるときなどは、牛に対して、一拍前に知らせなければなりません(リーダーシップ型)。
私は大学1年生の後半(12月)に混声合唱団の副指揮者になりました。高校時代から音楽部で指揮をしてましたし、本を読んだりしてはいたのですが、この際、ちゃんと指揮法を学ばなければと思い、岡田昌大教授(中原中也の組曲などを作曲されています)に指揮の仕方について教えを請いに研究室へ行きました。
先生は「何よりも予備拍で振ること」とご指導くださいました。
同時並行に2つのことをするのはつらいものがあります。同時通訳の人が聞きながら、理解しながら、話しています。ちょうどこれに似たものです。
合唱の指揮の場合、左手でアルトを引きながらソプラノの旋律を歌いつつ、別のパートの出だしの1泊前に「テノール!」というような練習もします(これを順番に変えて行ったりするんです)。
確かにむずかしいのですが、よくよく考えたら、私たちは、日常的に見ながら話したり、聞きながら手を動かしたりしているのです。できないのではなく、慣れていないといったほうがいいかも知れません。
予備拍の振り方を学んでからというもの、オーケストラの演奏を見て、だんだんすっきりとわかるようになりました。
何事もまずは理解、そして慣れなのではないでしょうか。
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高級感を出すには色数を少なくする
2008 年 11 月 17 日
デザインの話です。
チラシとかホームページなどを作っていて、あれも伝えたい、これも伝えたいなどと欲張っていくと、ごちゃごちゃしてきてしまいます。そんなときは、ばっさり!
極力、無くてもいいものは切り捨てます。また、色も統合していき、色数を少なくします。すると、高級な雰囲気が漂うのが不思議なものです。
もちろん、真っ白、真っ黒だと何も伝えられないので、いくつかの色や形は使わざるを得ないですし、効果的に表現することになります。
たとえば、来月早々にもリリース予定のマニュアルの表紙です(先走ってすこしお見せします)。
表紙1と表紙2とは、色数が違うだけです。まずは、上の部分が黒いか赤いかの違いがあります。もちろん、この赤い色を使わないようにすると、色数が1つ減ったことになります。色数が減ったものの方が実は高級な雰囲気になるのです。実はもう1つだけ、色を変えているところをお気づきでしょうか?
表紙1の表題は「betalabo」と同じ色にしているのです。そうです。表紙2の表題の色は少し明るい黄色です。したがって表紙1は表紙2と比べて色数は2つ少なくなっているのです。
もっと高級感を出すには?
そう、もっと写真を少なくして空間を大きくします。
ただし、高級感を出すことだけが目的ではないので、賑やかな雰囲気を出さなければならないこともありますし、サイトなど賑わっている雰囲気を出すために、あえて色数を増やすこともあります(子供っぽくするには色彩を鮮やかにし、形を増やすのも手法の1つです)。
色の調整は料理でいえば、味の調整です。パソコンでデザインするときは、料理と違って、塩加減が強すぎても味を整えられるのでとても便利ですね。
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名札にMrなどを付けるか付けないか
2008 年 11 月 14 日
会議やパーティなどで名札を付けることがあります。
フォーマルな会話などでは、ちゃんと「Sir(サー)」を間に入れて話した方がいいことも、現代でもあるでしょう。
言葉は場面が重要です。KYにならないように気をつけなければなりません。
私がマラウイにいたときの大統領の名前は、
His Excellency, The Life President of Malawi, Dr H. Kamuzu Banda
でした。
閣下(His Excellency)マラウイ国終身大統領(The Life President of Malawi)医学博士(Dr)が前に付くわけです。
大使、大臣級以上には「HE」(His Excellency=閣下)を付けることもあります。不思議とアメリカの大統領は簡単に「Mr President」とミスターが付くのです。これも面白い。女王陛下はHer Majestyです。
たとえばシンポジウムなどで、大学の先生などをお呼びしたとき、「・・・大学教授~先生」などと表記するのが丁寧です。単純に「~先生」ということもあるでしょう。したがって、一般向けの会議・集会などの場合はMrなどを付けることもあると思います。
でも、不思議なことに、アカデミックな場面ではこのような呼称がすべて消えます。「教授」とか「助教授」「準教授」すらはずすのが慣例です。名札にも「Dr」「Mr」などはは付けません。
たとえば、某大学の学生が(年次大会などの)学会を出して発表するような場合、所属はその大学であり、教授や学長とも同じ表記となります。教授などの職位は、組織内の問題なので「対外的には不要」と位置づけているのです。たとえば電気メーカーの研究員が論文を出した場合、アカデミックな世界ではあくまで、そのメーカー名は出しますが、所長とか部長とかの肩書は不要です(もちろん、経歴などに書くことはあるでしょうが、研究や論文とは無関係という考え方)。
発表の後、座長(司会)から「ご質問、コメントはありませんか?」という場面で、学生であっても教授であっても「~大学の・・・と申します。・・・につきまして」のような質問をすることになります(全く平等なのです!)。これは国際的な場面でも全く同じです。
テレビ局の新人アナウンサーが、「新人の・・・です」のような発言をしたりしますが、このように、
新人だから少々間違っても許してね、かわいがってね
という甘えの表現をしたりしますが、これは(いい意味で若いものにやさしい)日本独自の文化の表れであり、アカデミックな世界とは別世界ではないでしょうか。
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ウーマンリブ(女性の地位向上を目指す運動)の影響で、マン(man)と呼ばずパースン(person)と呼んだり、ミセス(Mrs)と呼ばずにミズ(Ms)と呼ぶような動きがあると思っていましたし、それはそれで正しいのでしょうが、たとえば、MrsとMsとの違いはそれほど単純でないようなのです。
Ms(ミズ)の場合、Miss(ミス:未婚者)とMrs(ミセス)とを区分せず、Mr(ミスター)と性的に対象となる言葉だと思っていました。
不思議なことに、たとえばヨーロッパの国際会議などの申込フォームを見ると、たいてい、「Mr」「Mrs」「Ms」の3つがあります。これが不思議でした。アメリカでもそういう場合も多いと思います。「Mrs」でも「Ms」でも選べるようになっているのです。不思議と「Miss」は見たことがありません。
どうやら、従来からの呼称「Mrs」を使いたい方のために残しているようなのです。これもひとつのempathy(エンパシー:共感)かも知れません。
1983年に英国イングランド地方のアカデミックな古都・ケンブリッジで、身内の結婚式がありました。
当然、式や披露宴などがあり、知人をお呼びします。ご案内のカードを作るときに、伝統的なMrsの使い方を意味を知りました。
なんと、夫の名前の前につけるのです。たとえば、「John White」さんだったら、奥様が「Mary」だろうと「Jane」だろうと、「Mrs John White」(John Whiteさんの奥様)という称号なのです。もちろん、アメリカ式では「Mrs Mary White」とか「Mrs Jane White」ともできますが、英国の伝統的な表現だと、女性の名前の前にMrsをつけた場合、未亡人に対する呼称になってしまうそうなのです。
したがって正式には「Mr & Mrs John White」になるわけです(米国式はピリオドをつけますが、英国式はピリオドなしです)。
つまり、正式には「Mrs」を使うと女性の名前が消えてしまうのです!びっくり。
もちろん、日本の場合でも、家系図なんかを見ていると「女」しかなかったりします。もちろん、実際には名前はあったでしょう。でも、対外的に名前を出さないのです(さらしたくないため?)。
単純に地位が低いからとは言えないでしょう。女性の名前を外に出さない習慣があったとも言えるかもしれませんが、このようなことを知ると、MrsとMsの違いが明確にわかってくるのではないでしょうか。
Mrsは夫に依存した呼び方ですが、Msは個人として独立した呼び方なのです。
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日本の軽快な文化の魅力
2008 年 11 月 12 日
ブログの内容がかなり硬派に偏ってしまっていますが、実は、私は日本の軽快な大衆文化が大好きです。
確かに国土が狭いこともあり、居住空間は一般に狭いため、なかなか居心地のいい環境を整えるのはコストがかかりますが、「衣」や「食」に関しては、明らかに世界トップクラスでしょう。
たとえば、テレビなどで料理番組がさかんに放映されます。タレントたちが食べ歩いたり、大食いの競争があったりと、きっとピューリタンやイスラム教徒には信じられないくらい、欲を刺激する放送を流し続けます。大麻問題が大きく報じられていますが、何の何の、日本では、テレビで平気でお酒を飲むのです! また、電車の中でビールを飲んでも逮捕されません。「食」に関して言えば、中国人やフランス人、イタリア人も食がとても好きですし高い食文化がありますが、基本的には「食」は個人なり家族、せいぜい友人までの範囲の交流イベントだと考えられますが、日本では、タレントなどの芸能人を中心にして、テレビ自体が全国民共通の食卓のようになっています。
おそらくほとんどの家庭で、ラーメンやチャーハン、餃子などの中華料理を食べ、焼き肉やチヂミ、冷麺などの韓国料理を食べ、カレーなどのインド料理を食べ、スパゲティーやなどのイタリアンを食べ、場合によってはフレンチを食べ、そろそろ胃がつかれたので和食にする、そんな食生活をしていないでしょうか? 調べたことはないのですが、日本人の食生活はものすごいバリエーションです。
「『食』は本来母親から与えられるものなので『衣』よりも保守的です。着るものは割合簡単に外の文化から与えられたものに移行してしまいますが、『食』はなかなか変わらないものです」と民族学博物館の助教授の先生から教えていただきましたが、どうやら日本民族はかなり特殊な民族であるようです。『食』も『美容』も『ダイエット』も『音楽』も何でもOK、のような日本人はどうしてなったのでしょうか? また、この柔軟性はどこから来ているのでしょうか? (もちろん、経済的な余裕あってのことですが)
ツンク・プロデュースのモー娘に限らず、かなりの割合で、(成人女性ではなく少女として)カワイイ系の女の子たちが幅を利かせています。男性だけでなく女性もそのファッションや身のこなし方、文化を気にしています。私は、番組や出演者・出演内容を見ながら「まさにお遊戯だな」と内心思いながら、こんなことを昼間からあるいはゴールデンタイムに流し、多くの視聴者を集めるこの国のメディアについて、文化についてつくづく考えてしまいます。
そう、政治や宗教、紛争や経済などの問題なんか全く無関係な竜宮城なのです。国自体が大人になることを拒否した「モラトリアム」のようにも見えますが、このようなものも、ひとつの大きな社会文化を形成しているのです。
前のブログにも書きましたが、決して最近の日本の特徴だと言うのは間違っている気が以前からしています。
マッカーサー元帥が日本へ来て「日本人12歳説」を話しました(これについては、ここでは述べません)。
また、北海道大学を離れるとき、クラーク博士は「少年よ、大志を抱け」と言ったという話があります。小さいことを考えているのではなく、大きな夢を描け、と教えてくれたと思っている人が大多数です。しかし、実際には、クラーク博士は、日本と日本の青年を嘆いてこのような発言をしたのです。
日本の将来を作っていく青年たちが、自分を慕って追いかけてきます。
口々に「先生ー、本当に帰ってしまうのですか?帰らないでー」と。
「Boys!」
そして「Be ambitious!」と。きっと内心「なんてこった!めそめそと。これじゃ将来が思いやられたものだ! しっかりせよ」と考えて、続けて「野心を持ちなさい!」と述べたのです。ひょっとして「Boys」ではなく「Boy!」(あらまあ、なんてこった)だったのでは、とされ思われます。これは、日本文化ではありえるシーンです。
礼節があって、まじめで、優秀で、いつでも周囲と協調することができて、おちゃめで、純粋。少なくとも、アクを持たず、つい合いやすいスタンスを持つというのが、これまでの日本の美徳ではないでしょうか。都会はだいぶ変わってきましたが、基本的には外からのお客様にはとてもやさしく、寛大です。リーダーシップをとるのは苦手ですが、何か皆でやろう、ということになったら、あれよあれよという間に分担を始めます。これはすごい!
一億総中流と言われた時代から経済的にはだいぶ様相が変わってきました。皆と同じことをやるだけでは、なかなかうまくいかないような時代になってきたと思います。しかし、経済、そして国外のグローバル化の時代になってきていますが、日本独自の軽快文化、カワイイ文化、群れて情報を共有する文化は、職人気質、助け合い文化とともに、今後とも繁栄を続けてほしいと思います。
それは、いい面、あるいは楽な面(たとえば、私のような硬派な思考、推論、検討、試行をしなくても、適応力があれば生きていけること)もあります。また、無用な対立は生みにくい風土も完備しています。なによりも、宗教対立やイデオロギー、宗派対立、貧困や性的虐待などで苦しんできた地域、国々と比較すれば、天国のような世界なのです。もちろ、日本文化が完全だとは言いません。しかし、この大衆文化の中に、将来の平和と繁栄の基礎がいくつもあるようと私は感じています。
日本を離れたくない、といった某アジア出身の人がいます。別のアジア国の出身者で、オーストラリアの大学で学んだ若者と先日会ったのですが、この活き活きとした日本文化の洗礼を受け、うれしいショックを受けたと言っていました。関西の落語やお笑い文化にも、ノーベル平和賞を与えてもいいのではと思うことがあります。マンガだけでなく、日本のお笑いにも深いものがあると思います。
この日本の繁栄が続くよう、ちょうど子供が家の中で楽しく遊んでいられるように、経済や防衛、外交といったものは外でしっかりとが守り確立しなければならないことは言うまでもありません。
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冬山登山と学生運動・入信
2008 年 11 月 11 日
子供のころ、まだ学生運動が盛んで、デモ隊と警察との衝突などのニュースなどがよく報じられていました。また、冬山に登山した学生たちのパーティが遭難したニュースもよくありました。
テレビだけでなく、新聞などにも不安そうにみている親(たち)の様子をみて、子ども心ながら、僕らが大きくなって大学に行くようになっても、登山部に入って冬山に登ったり、学生運動したり、あるいは特定の宗教に入信すれば、きっと親の心配を増やすことになるのだな、ということに気付いていました。
日本では、子供との接し方を段階的に高めていくことがあまりできていないと思います。ある意味、ずっと子供扱いしていて、そして突然、自立、というような形態になってしまいます。いえ、なかなか自立できない、させららないため、二十歳過ぎても、三十歳をすぎても子供扱いしていることもよく見受けます。したがって、離れたときにどう自立してやってくれるのか、不安なわけです。
クラブだとか、組織の中で、どのように人間関係を保ったり、人格形成に役立てたりすべきなのか、ということが、実は親自身、自分が気付かないまま自分も成長してきたようなもので、どのように段階的に接したらいいかわからないまま、あるとき、大学進学などで、突然離れた生活を送るようになります。
体は大きくなっても、社会的、対人的、あるいは精神的に成長途上の段階では、信頼する人からの求めに簡単に応じたりしてしまうのではないかということが、心配の種でしょう。しかし、これは自立するまでに、少しずつ育て、また、成長を確認していくべきものだと思います。
ものごとを論理的に、理詰めで考える習慣は、数学や理科だけでなく、実は対人的なことにも、芸術的なものにも生かされてきいます。日本語は決して非論理的、というわけではないと思うのですがが、直感的、感覚的な表現をよし、とする風土があり、逆に、論理的な展開を避ける風潮があります。一言で言って何なの? とか、絵で書けばどうなる? とか、ストーンとわかることが求められます。実は、これは非常に難しい芸当であることが多いいのです。
日本語だったら、
大人「ぼく、何になりたい?」
子供「野球の選手」
大人「どんな選手?」
子供「イチロー!」
大人「そう。じゃ、がんばらなきゃね」
といった程度の会話で済むものを、根掘り葉掘り聞いたり、確かめたりすることは、ある意味、日本文化的にはKYとなります。しかし、きっと、アメリカの親子の会話だったら、2倍程度以上にはなるような気がします。
大人「すごい、じゃ、楽させてくれる?」「どうして、サッカー選手じゃないの?」「ピッチャーと野手だったら野手の方がいいの?」「どんな練習でトップ選手まで上り詰めていくか、プラン持ってるの?」
もちろん、人によりますが・・・。
日本の学校や塾の教育だと、黒板を見ていたり、問題を見ていたりの時間が長すぎて、(忙しいためでしょうけれども)大人と考えや言葉の掛け合い、論理を作ったり検証したりすることがあまりないのではないか、と残念に思えます。特に、中学、高校と上に進むにつれ、先生の話を聞く、黒板を見る、教科書や問題を見て解く、というのが「学習」のようになっています。日本の場合、英語で話すときたいてい英語を見ていないでしょうか。これでは、見ないと発音できないような反射をつけていて、なかなか話せません。
もし、英語が母国語の先生がいて、
「Don’t look at your textbook. Look at me.」
(教科書は見ないで。私を見て)
と言われたらどうでしょう。ドキッとしますよね。日本人の先生でもかまいません。先生もこれができるようでないと、真の英語力(ヒアリングやスピーキング)をつけられないと思います。先生も、間違っては嫌だから教科書に首っ引き、生徒ももちろんでは、なかなか話す力、聞く力、コミュニケーションする力、人を説得する力を醸成できません。
「Tell me your opinion.」
(あなたの意見を教えてください)
このような話になったとき、パタと日本人は話せなくなってしまいます。別に雄弁を金と考えない国民性だから、じゃないのです。本当に個人的な意見を求めることを、あまりやってきていないのです。
私が自宅で使った英語の教材は、紙芝居のようなものでした。絵を見て場面が想像できます。テープの言葉を聞いて、後を付けたり、単語を置き換えたりする練習をしたので、大学のLLでも、アフリカの現地でもあまり、話すこと、聞くことには苦しまなかったように思います。
考える力は話すことによっても強化されていきます。ノーベル賞学者たちの思考実験といい、じっくりと考え、本質を探り、意見・論理を作り上げていくことの価値を、再認識したいと思います。
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田母神・前航空幕僚長発言と政府見解
2008 年 11 月 10 日
米国が裁く形で東京裁判が行われ、何度か、日本政府が対外的な謝罪を行ってきましたが、日本人によってきっちりと総括ができていないという問題について、改めて思い知らされた出来事でした。はずかしくて、(近隣の国々に)なんと言っていいか言葉が出てきません。もし、中国人や韓国人の友人が田母神さんにいたら、このような話をすることなどできないだろうに、と思いました。しかられた子供が、駄々をこねて、「ぼくがわるいんじゃない」と言っているようにも感じます。あるいは、「いいたいことを言えたからきもちいい」と言っているようにも。彼が航空幕僚長だったのです。
もちろん、「日本軍の侵略は濡れ衣」発言について、ある意味彼自身の資質(品格と見識)の問題と任免責任は問われるべきでしょうが、本質的には「思想・信条の自由」のため、大きな問題になりようがありません。もちろん、教師になったり、公務員になるには日本国憲法を学び、その精神と内容を身につけていないと本来、公務員になれないようになっていますし、公務員は憲法を守らなければならない、とされています。
明らかに、憲法の精神に多少違反している可能性がありますが、残念なことに、現在の日本国憲法には、日本の侵略性については記述がほとんどなされていません。野党のいつくかの党は9条の改正をストップしたいために護憲の立場をとっていますが、過去の総括が憲法も十分になされていないことは、誰も言及しません(もちろん、憲法の中身としては、暗黙の前提=侵略するにいたった経緯=を間接的に説明し、それゆえに平和の大切さを主張していますが、直接的な説明や総括は外しています)。
このように、日本の侵略、もとい進行は正しかったと信じている人が航空自衛隊のトップに君臨していたわけです。しかし、私は何よりも戦後63年間、しっかりした国会決議も政府見解も出されてきていないことに、非常に落胆してしまします。なんと、95年の村山首相の談話が政府見解の根拠となっているのです。自民党はこれまで、まともな政府見解は出してきていないのでしょうか?「不幸な歴史があった」といった程度の意見しか対外的に言えてないのでしょうか? そしてそれで十分だと思ってきたのでしょうか。
誤った判断と行動により、国内外に甚大な被害と精神的な苦痛を与えたことは、亡くなった方はもちろん、耐えて生活してきた方々へまずお詫び申し上げるべきものだと私は思っています。それは決して、日本を傷つけるものではありません。これを行わないことが、日本の恥をずっとさらしてきていることなのです。愛する日本の立場を回復するためにも、外部から求めに応じるのではなく、自主的に明確に表明すべきだと思います。
「米国の言いなりだ。大企業優先政治は変えなければいけない」と主張する野党も、米国から与えられた日本国憲法を守る党の立場に現在なり、米軍依存の安全保障についても沈黙状態です。戦前から戦中にかけて、政治的、経済的な問題の解決のために、軍事に依存し、不幸な歴史を押し進め、日本国民と諸国民に多大の苦労と犠牲を与え、自力で解決できない状態で終戦をむかえたことを、さまざまな立場で総括できていないのです。
憲法は唯一、国権(司法、立法、行政)を制限できるものです。憲法では歴史認識を明確にうたうことができます。そして、諸国民との協和をはかりながら、国民と国家の永続的な発展のため(これが目的)に、国民の委託を受けて、国権が職務を行うことを明確に定義すべきでしょう。不戦の誓いとともに、国民の生命財産を守るという約束もされなければなりません。安定した財政を保ち、平等かつ迅速な行政サービスの実施も、憲法の規定としてすべきものだと考えます(なぜ、国民の義務は規定し、国権の責務を明確に規定できなかったのでしょうか? チェックの時間が不足したためでしょうか?)。
憲法改正反対の方々は、きっと改悪は危険だから守るべきだ、とおっしゃっていると思いますが、本来、何が規定されるべきで、何が現在問題なのか、考えることをストップしています。いい憲法なので変えてはならない、と主張します。米国による一国占領、サンフランシスコ講和、日本国憲法、米軍駐留、これらをありのまま、あたえられたものをありがたく、いただく日本の文化は、単にトラブルを避ける、棲み分け文化なのかも知れません。でも、これは思考停止です。
おそらく、田母神さんの発言はドイツでは憲法違反になり、公職追放でしょう。でも、ちゃんと総括し、規定を作っていない日本の憲法では野放しです。これまで、終戦から60年以上を経過して、日本国民を代表して先の戦争を総括した国会決議はあるのでしょうか? 村山首相の個人的な談話以外に自民党の政権としての政府見解はないのでしょうか? 何ができていて、何ができていないのか、本来は何をしなければならないのか、残念ながら日本のメディアも、ほとんど的確な指摘はできていないように思います。
憲法での規定がすぐにできないのなら、明快な国会決議または政府見解を出していただきたいものです。それこそが、田母神さんの希望でもある、日本という国そして国旗にも誇りをもてるようになるステップだと思います。「濡れ衣」発言はもちろん、逆行です。反対の立場に立てないと主張したようなものです。オバマ氏のempathyの逆さまです。このような発言により、海外で「また、日本の高い地位の公務員がこんな発言をしたよ」と言われたくありません。ぜひ、道徳教育で、独善的、排他的、自己中心的な考えに対して、柔軟な思考を与える教育を施せるようにしたいものです。
さあ、60年以上経過しました。そろそろ、次のステップへ行きましょう。
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オバマ勝利演説分析:youとI
2008 年 11 月 7 日
オバマ氏の演説の特徴は、「you (your)」と「we (our)」だと思います。
これまで、Yes, we can. (私たちはできる)とか、Our movement is real.(この改革は成功する)など、皆の意識が集中するところで、必ず「we」「our」をもってきて、「私たち」が希望や成果を得ることを伝える、あるいは問題を共有します。
また、今回の演説では、とくに、「you」と「I」に注目してみます。
最初に「you」が出てきたのは、以下の箇所です。
tonight is your answer.(今日があなたの答えです)
実はこの前に、アメリカの民主主義について述べていますので、アメリカの民主主義と「あなた」とをつないでいます。
さて、「I」はどのように出てくるでしょうか。
A little bit earlier this evening, I received an extraordinarily gracious call from Senator McCain….
つい今しがた、マケイン上院議員からとても丁重な電話を頂きました。マケイン議員はこの選挙戦で、長い期間懸命に戦ってきました。そして彼は、愛する国のため(私たち陣営よりも)ずっと長い間、懸命に戦ってこられました。彼は米国のために、私たちの大半が想像すらできないほどの犠牲を耐え忍んできました。この勇敢で私心のないリーダーの献身のおかげで、私たちはより良い暮らしを享受しているのです。
そう、謝辞です。この長いパラグラフで「I」はたった1箇所のみ。続いて3箇所です。
I congratulate him, I congratulate Governor Palin for all that they’ve achieved. And I look forward to working with them to renew this nation’s promise in the months ahead.
私は、マケイン氏、そしてペイリン知事が成し遂げられてきたことについて、お祝い申し上げたいと思います。私は、これから何カ月か先、この国を刷新するため彼らといっしょに働くことを楽しみにしています。
このように、「I」を謝辞のためにたっぷり使います。ものすごい謙遜です。しかしこの謙遜が、アメリカ人の心を動かしているのです。
謝辞の後、「you」の登場です。
But above all, I will never forget who this victory truly belongs to. It belongs to you. It belongs to you.
しかし、何にもまして、この勝利が本当は誰のものか、私は決して忘れません。あなたがたのものなのです。そう、あなたがたのものなのです。
そして、後で再度伝えます。
This is your victory.
これは、皆さんの勝利なのです。
単なる謙遜の域を超えています。演説がうまいから勝った、失敗に嫌気がさして国民は変革を求めた、と説明する以上のものがあることがお分かりいただけたでしょうか。なぜ、何時間も投票のために列をつくり、オバマ勝利の新聞を買い集めるのか? 歴史が動いている実感をともに感じているのです。 もちろん、共感(empathy)こそが解決の鍵だとオバマ氏が一番わかっています。そして、演説でも共感づくりを実行しているのです。
しっかりと彼の演説を分析して、また、いくつかレポートしたいと思います。
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例えば二つの家族がいっしょに食事などで会話をしているとき、自分たち日本人は、子どものことを「My son」とか「My daughter」(My child(ren))とうっかり言ってしまいます。でも、間違った表現であることが多いです。
正解は
Our son
Our daughter
Our child
Our children
なんです。
(スターウォーズの映画の中で「My son!」と呼ぶシーンをふと思い出してしましたが、これはこれで強い響きがある!)
自分一人の子供ではありません。もちろんここで、もう片方のパートナーを思いやる必要もあります。日本語、日本人、日本社会はとても相手に配慮した温かい思いやりのある文化、マナーを持っていますが、英語を話すときに、英語にはそのようなものはないかのように考えがちですし、また、無配慮で話してしまいがちです。欧米文化を牧畜文化と呼びましたが、このような動物的な絆についての考えが、少なくとも私たち植物・農耕文化と異なり明確にあるように思われます。
私たちには必ず、父と母がいます。他界していても、別居していても存在してます。私たちはハイブリッドとして誕生し、ハイブリッドの子孫だけがを残せるようになっています。これはとても重要なことではないでしょうか? よく考えてみると、時の流れの中で、自分という存在が、調和・融合・共有・共感などを必要とする世界の真ん中に位置しているのが感じられないでしょうか。
子供のことを「My」ではなく「Our」と呼ぶことは、マナーであり、思いやりであり、そして未来への希望と託すことだと考えたいと思います。
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オバマ伝道の勝利
2008 年 11 月 6 日
シカゴで昨日(11月5日)、アメリカ大統領選挙を勝利したバラク・オバマ氏の演説がありました。一言で言うと「Yes, we can.」演説です。ここではまた最初に、「人民の人民による・・・」のリンカーンの演説も持ち出して、アメリカの民主主義こそが(富や繁栄ではなく)私たちの宝だと述べました。
アメリカだけでなく、この感動は世界に伝搬されました。題名に「伝道」としたのは、私にはどうしても1国の政治家を超えた「思想の伝道」に感じてしまうからです。何という思想かと申しますと「empathy」(共感)とNHKは昨夜のニュースで伝えていました。また、調べていくと、2006年3月6日付のUSA TODAYでは「crossover appeal」(垣根を超えたアピール)という説明がありました。
これまでのタブーに果敢に挑戦します。オバマ氏のスピーチの中に「キリスト教、イスラム教、ユダヤ教の壁を打ち破りましょう」というものまであります。ジョン・レノンの「イマジン」にも共通するものです。
Imagine there’s no Heaven(天国がない、ということを想像してごらん)
It’s easy if you try(やってみたらできるでしょう)
No Hell below us(私たちの下に地獄もないことも)
Above us only sky(頭上にあるのは「空」です)
Imagine all the people(そう、人は皆)
Living for today…(今という時のためにいきている、ってこと)
Imagine there’s no countries(国がない、ということを想像してごらん)
It isn’t hard to do(できないことはないでしょう?)
Nothing to kill or die for(殺したり死んだりする目的はないということ)
And no religion too(そして、宗教がない、ということも)
Imagine all the people(そう、人は皆)
Living life in peace(平和に生活を送っていることを想像してごらん)
You may say I’m a dreamer(夢を見てるのかって?)
But I’m not the only one(でも、僕一人じゃないよ)
I hope someday you’ll join us(いつかいっしょに進まない?)
And the world will be as one(そして世界もひとつになるんだ)
Imagine no possessions(所有がない、ということを想像してごらん)
I wonder if you can(どう、むずかしい?)
No need for greed or hunger(欲ばったり、飢えの心配もない)
A brotherhood of man(人が皆仲間だということ)
Imagine all the people(そう、人は皆)
Sharing all the world(世界を共有していることを想像してごらん)
You may say I’m a dreamer(夢を見てるのかって?)
But I’m not the only one(でも、僕一人じゃないよ)
I hope someday you’ll join us(いつかいっしょに進まない?)
And the world will live as one(そして世界もひとつになるんだ)
(和訳は今日やってみました)
この詩をしっかりと聞いたときのショック。欧米にはキリスト教という揺るがない宗教があり、「所有」の概念が確立している、いわば完全な牧畜文化に対して正面切ってこんな詩をつけた曲を演奏するなんて、ありえないと思いました。歴史と伝統に反旗を翻すことになるので、このような意識が広がることなど単なる「理想」のひとつに思えていました。
オバマ氏のシカゴ演説では、決して「民主党の勝利」とは言いませんでした。これもまた彼の演説の特徴です。empathy(共感)を大切にするため、得意がることは決して行いません。
少し、冷静に彼の演説を分析してみましょう。
●YOU
通常の彼の演説のとおり、話を聞いている「あなた」にフォーカスを当てます。
「あなたの勝利です」と述べ、決して「自分が勝った」「民主党が勝った」のように言いません。この堂々とした態度に対して、選挙戦の終盤にマケイン陣営が行ったネガティブ・キャンペーンがまさに格好悪く見えてきます。謙虚であることを日本人だけの美徳と思っている人がいますが、世界に通用する価値観でもあります。オバマ氏の勝利演説も非常に謙虚であり、これが全米だけでなく世界へ共感を伝搬していきます。
●身内への謝辞と負けた側への言葉
不支持者の存在を認めた上で、支持をしてこなかった人に対して「あなたの声は聞こえる。わたしはあなたの大統領になる」と述べ「私はマケイン議員を称えます。そしてペイリン知事を称えます。マケイン議員たちが成し遂げてきたことを称えます。そしてこれから、この国の約束を再生させるため、マケイン氏たちと共に働くのを楽しみにしています」と。
●WE
さまざま課題(イラク・アフガニスタンとの戦争、地球環境問題、金融危機)を述べ、すぐに解決できないことも伝えながら、「自分たちはやりとげることを誓う」と。(Yes, we can.)
●クロージング部分
God bless you.
God bless the United States of America.
このように、現在、過去、未来を述べながら、I, You, We, (今回はあまりなかったですが)Theyなどの関係をクリアに述べ、課題とともに希望を伝えていきます。彼の演説は決して難しくありません。日本の高校1、2年生の教科書にも使えるものだと思います。
最後の「God bless you」は、まさに適訳がありませんので、とても残念です。確かに言葉をそのまま訳すと「神のご加護を」になってしまいますが、彼の通常の演説では、
I love you.
God bless you.
のように言いますので、まさに「ありがとう、あなた大好き!」のような響きです。普通、自分のことを本当に心配してくれる人からだけ、このような言葉をいただきます。「あなたのご発展を確信しています、だって神様があなたを祝福していらっしゃるのですから」という意味に、いつも私は感じています。
日本のマスコミでは「CHANGE(変革)を訴え、とても演説がうまいオバマ氏が勝利した」と伝えています。もちろん表面的にはそうなんですが、それ以上に、オバマ氏の演説は、デンタツの内容も、質も力も本当にすばらしいものです。原文は以下にありますので、じっくりと読まれることをお勧めします。
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イギリス人とアメリカ人の食卓での会話
2008 年 11 月 5 日
イギリス人とアメリカ人といっしょに食事をしていたある日本人の友人から聞いた話です。
英語と米語では、イントネーションはほとんど一緒なのですが、発音が違うことがよくあります。
たとえば、ネコは、学校で「キャット」だと習いましたが、これは米語だからです。イギリス人(といってもいろいろでしょうが、一般に)の場合、カットまたはカート(もちろん、「ト」ではなく「トゥ」)になります。
私の友人がイギリス人そしてアメリカ人と食事をすることがあって、そのとき、両者が発音についての言い争いになったそうです。
イギリス人「この赤いおいしい野菜のことをトメイトゥなんていう君の発音を聞くと、なんとも美味しくない食べ物に感じてしまう」
アメリカ人「え?」
イギリス人「トマートゥというとおいしそうだけど、トメイトゥというとなんかまずそう!」
アメリカ人「ふーん。そうは思わないけど。じゃあ、この黄色い野菜、何ていう?」
イギリス人「ポティトゥ!」
アメリカ人「だろ? これをポタートゥと言う? もしそうだったら、そんなこと言ってもらえるかな」
イギリス人「・・・」
上の会話はもちろん、あまり親密でない者同士ではありえないものです。一般に、アメリカ人にとってイギリス人はお高くとまってみえるらしく、また、イギリス人にとって、ラフでフレンドリーなアメリカ人のマナーを嫌ったりすることもあります。アングロサクソン系同士であっても、このようにギャップを生むこともよくあるのです。ですから、このような会話ができること自体、非常に友好な関係であると言えます。
今日はアメリカ大統領選挙の日。アメリカの中だけでも、東西、南北の地理的な広さ、人種や年代、性別、経済力などなど、広く意見がバラバラなものを、最後の投票まで、何カ月もかけ て収斂(しゅうれん)させていきます。議論したり意見を戦わせていきます。
そして、ヒラリーとオバマの非常に激しい戦いもありましたが、また、いくらか対立を残しつつも、方向性の収斂(しゅうれん)を行います。いわば「これまでトマートゥでしか美味しそうに思えなかったのだが、まあトメイトゥでもいいか」と言えるようになるまで時間をかけ、意見を聞き、考えを柔軟にしていきます。このように、コミュニケーションを通してお互いを知り、思考の柔軟性を高めていきます。
昨日のテレビ番組の中で、今まで、民主党に投票したことがなかった非常に保守的な地域に住む保守的な人が、投票前日のオバマ氏の演説を聞いて、「ひょっとして新しい時代が来ているのかもしれない、私はオバマに投票する」と言っていたのが印象的でした。
「自分は黒人と白人のハイブリッドだからこそ、相互融和のために役立つことができるのだ」とオバマ氏が言っていましたが、このように、国家元首を決め、国家体制を作るのにしっかりと時間をかけていく米国流にも学ばないといけないと思いました。未来を作るためには、このように意見が違う者同士が、相手に配慮を持って意見を伝えることではないでしょうか? かりに自分がはじめに思っていた候補者にならなくとも、両陣営が掲げる星条旗のもとにまた、結集するのです。
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社団法人新宿法人会に入会しました。
現在(2008年11月5日)、以下のURLで株式会社ベータラボを紹介いただいています。
嘘がつけない。だから、嘘はつかない。
2008 年 11 月 4 日
キリンビバレッジのコーヒー「Fire」のキャッチコピーを見ました。
嘘がつけない。だから、嘘はつかない。
なかなかいいと思います(今日、二種類の缶コーヒーを新発売の様子)。「が」と「は」の対比的な使い方にも、うならされます。
日本語の「が」と「は」の使い分けは、外国人には非常にむずかしいらしいです。ちょうど日本人が冠詞・無冠詞の扱いがむずかしいのと同じくらいだとも言われています。
最初の「嘘がつけない」は、性格的に、あるいは根っからの特性として嘘をつくことができない、ということを述べています。また、「だから」に続く「嘘はつかない」では、単に事象陳述あるいはまた個人的な意思として「嘘をつくことはしない」ことを述べています。そっくりなこの二つの文、発話タイプの力の種類も、異なっていると言っていいでしょう。
ちなみに、文法的な説明を行いますと、「が」は格助詞と呼ばれ、表層的にはいっしょにくっつく名詞と共に述部にかかり、深層的には述部の意味をより明確にします。つまり、誰が(主格)とか、何を(対象格)とか、いつ(時格)、といった情報伝達のフレームを構成します。
それに対して、「は」は格助詞ではなく、副助詞あるいは係助詞とも言われているもので、「も」とも同じ仲間です。これは見えていない格助詞の上にのかっているものです。つまり、
「嘘はつかない」=「嘘をつかない」+(私の場合)「は」
のような構造をしていて、「は」が「を」の上に乗っかって、見えていないと考えることができます。西九州の言葉では、「は」の代わりに「をば」と言ったりするのは、そのためです。「嘘はつかない」の「は」は、この場合「をば」と等価です。
「私は行かない」
という文を読んだとき、言外に「人はいくかもしれないけれども」という意味合いを感じたりします。「行こうと思えば行けるけれども、行かないことにした」のように響きます。
「私が行かない」
という文は単体では使わないでしょう。この短文は、文法的には正しくても、語法的には誤っている場面が多いと言えます。でも、最初に日本語を学ぶとこのような文を作ってしまいそうですね。もちろん、
「私が行かないと困る人がいるので」
というように条件節の中に入れると、何ら変なことはありません。このように、たった1音節の助詞が、微妙な状況や意志を伝達するわけですね。
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