冬山登山と学生運動・入信

2008 年 11 月 11 日

子供のころ、まだ学生運動が盛んで、デモ隊と警察との衝突などのニュースなどがよく報じられていました。また、冬山に登山した学生たちのパーティが遭難したニュースもよくありました。

テレビだけでなく、新聞などにも不安そうにみている親(たち)の様子をみて、子ども心ながら、僕らが大きくなって大学に行くようになっても、登山部に入って冬山に登ったり、学生運動したり、あるいは特定の宗教に入信すれば、きっと親の心配を増やすことになるのだな、ということに気付いていました。

日本では、子供との接し方を段階的に高めていくことがあまりできていないと思います。ある意味、ずっと子供扱いしていて、そして突然、自立、というような形態になってしまいます。いえ、なかなか自立できない、させららないため、二十歳過ぎても、三十歳をすぎても子供扱いしていることもよく見受けます。したがって、離れたときにどう自立してやってくれるのか、不安なわけです。

クラブだとか、組織の中で、どのように人間関係を保ったり、人格形成に役立てたりすべきなのか、ということが、実は親自身、自分が気付かないまま自分も成長してきたようなもので、どのように段階的に接したらいいかわからないまま、あるとき、大学進学などで、突然離れた生活を送るようになります。

体は大きくなっても、社会的、対人的、あるいは精神的に成長途上の段階では、信頼する人からの求めに簡単に応じたりしてしまうのではないかということが、心配の種でしょう。しかし、これは自立するまでに、少しずつ育て、また、成長を確認していくべきものだと思います。

ものごとを論理的に、理詰めで考える習慣は、数学や理科だけでなく、実は対人的なことにも、芸術的なものにも生かされてきいます。日本語は決して非論理的、というわけではないと思うのですがが、直感的、感覚的な表現をよし、とする風土があり、逆に、論理的な展開を避ける風潮があります。一言で言って何なの? とか、絵で書けばどうなる? とか、ストーンとわかることが求められます。実は、これは非常に難しい芸当であることが多いいのです。

日本語だったら、

大人「ぼく、何になりたい?」
子供「野球の選手」
大人「どんな選手?」
子供「イチロー!」
大人「そう。じゃ、がんばらなきゃね」

といった程度の会話で済むものを、根掘り葉掘り聞いたり、確かめたりすることは、ある意味、日本文化的にはKYとなります。しかし、きっと、アメリカの親子の会話だったら、2倍程度以上にはなるような気がします。

大人「すごい、じゃ、楽させてくれる?」「どうして、サッカー選手じゃないの?」「ピッチャーと野手だったら野手の方がいいの?」「どんな練習でトップ選手まで上り詰めていくか、プラン持ってるの?」

もちろん、人によりますが・・・。

日本の学校や塾の教育だと、黒板を見ていたり、問題を見ていたりの時間が長すぎて、(忙しいためでしょうけれども)大人と考えや言葉の掛け合い、論理を作ったり検証したりすることがあまりないのではないか、と残念に思えます。特に、中学、高校と上に進むにつれ、先生の話を聞く、黒板を見る、教科書や問題を見て解く、というのが「学習」のようになっています。日本の場合、英語で話すときたいてい英語を見ていないでしょうか。これでは、見ないと発音できないような反射をつけていて、なかなか話せません。

もし、英語が母国語の先生がいて、

「Don’t look at your textbook. Look at me.」
(教科書は見ないで。私を見て)

と言われたらどうでしょう。ドキッとしますよね。日本人の先生でもかまいません。先生もこれができるようでないと、真の英語力(ヒアリングやスピーキング)をつけられないと思います。先生も、間違っては嫌だから教科書に首っ引き、生徒ももちろんでは、なかなか話す力、聞く力、コミュニケーションする力、人を説得する力を醸成できません。

「Tell me your opinion.」
(あなたの意見を教えてください)

このような話になったとき、パタと日本人は話せなくなってしまいます。別に雄弁を金と考えない国民性だから、じゃないのです。本当に個人的な意見を求めることを、あまりやってきていないのです。

私が自宅で使った英語の教材は、紙芝居のようなものでした。絵を見て場面が想像できます。テープの言葉を聞いて、後を付けたり、単語を置き換えたりする練習をしたので、大学のLLでも、アフリカの現地でもあまり、話すこと、聞くことには苦しまなかったように思います。

考える力は話すことによっても強化されていきます。ノーベル賞学者たちの思考実験といい、じっくりと考え、本質を探り、意見・論理を作り上げていくことの価値を、再認識したいと思います。

↓リンクをクリックしてください。1票が投じられます。↓
人気ブログランキングへ

3 Responses to “冬山登山と学生運動・入信”

  1. SALTY-SALTY Says:

    人によってさまざまな解答があるような
    質問のされ方になれていない。。
    ということでしょうか?

    いくつもの解答を想定できるような質問って
    きっとよい質問ですね。

    その人なりの答えがあるわけですから。。。
    答えが一つって、
    面白くないですよね。

  2. admin Says:

    冬山登山、学生運動、宗教が悪いのでは決してありません。自分の意見を持ち、確かめ、交換し、踏み固めていく習慣が家庭内にいる間はほとんどない、避けているということです。家庭だけでなく、会社などの組織でもです。日本では、What do you think?と問われて答えなくても生きていけるし、逆に言わない方がいい社会なのです。個人的な意見を聞いているのではなく、社会的な立場での回答を求めることが組織の場合ほとんどです。ちなみに、このyouは個人的なyouです。意見を言うときのIはもちろん私的なIです。
    日本で子供に「いい子だね」と、ほめるときに客観的にほめたりします。しかし英語の場合、例えばお父さんが子供に「I love you.」とか「I am proud of you.」(お前のこと、お父さんとっても自慢なんだ/と言っても、対外的に自慢するという意味ではなく、個人的に誇りにしている、という意味)と、私的な関係で気持ちを伝えます。日本人が「I love you.」を言わないというのも、このあたりと非常に近いと思います。
    精神、思考、言葉、行動はかなり関連し、連動しています。私はスポーツのようなものであり、「国際性」については感覚も伝達力も鍛えられると思います。
    家庭の外、国の外に行ったときに、きちんと話せ、意見を述べ、流されないようにする、しかしより高い次元での融合や協調へと結び付けていくための基礎力はとても大切だと思います。

  3. SALTY-SALTY Says:

    ありがとうございます。
    今日のこの回答で、よくわかりました。

    自分の意見を持ち、確かめ、交換し、踏み固めていく習慣が家庭内にいる間はほとんどない、避けているということです。家庭だけでなく、会社などの組織でもです。日本では、What do you think?と問われて答えなくても生きていけるし、逆に言わない方がいい社会なのです。

    これはよくわかります。
    1990年代にディベートがさかんになり、
    学校でもディベートを組み込んだ授業が行われるようになりました。それを受けた世代や今の親世代でも意見を言う人たちが増えてきていると思います。
    ただ、ソバシマさまが言おうとしている「自分の意見を言う」ということは家庭や社会生活の中で少ないのでしょうね。自分の考えや思いを言葉にする習慣は、私も大切だと思います。

Leave a Reply

You must be logged in to post a comment.