物事の源泉でありながら、悪者扱いされやすいものが「本能」あるいは「欲」といったものでしょう。これらを突き詰めて考えても、中々区別が難しいと感じています。やや広い意味合いで「本性」という言葉を使う場合もあります。

コマーシャル、販売、営業でも、購入者の欲を刺激します。

また、身勝手な反社会的な行為も、欲が原因であることも多々あるでしょう。

誰もが本質的に持っているものです。

「煩悩」だ「宿罪」だと、ほとんどすべての宗教で、非難される、あるいは持っていること自体を恥に、罪に思わせるところがあります。

世の中は本能、欲があるから問題なのでしょうか?

私はそうでないと思います。

地球温暖化の太陽と二酸化炭素のようなものではないか、と考えています。

中庸なりバランスが問題なのです。

生きるため、生き残るため、さまざまな力を受けて私たちはこの世界に誕生します。

大人に自分の存在、あるいは何らかの不快を伝えるため「オギャー」と泣くことも、備わった本能でしょう。

病気のため、あるいは周囲との関係に疲れ、強く心が傷ついたとき、コントロールがうまくできなかったり、弱くなったりします。

しかし、「仁」という徳と同じく、本能、欲こそが、生命として生まれ、育ち、協調して生き続けていくための源泉だと、私は思います。

欲を消した段階で、生命体としての存在は消えてしまうでしょう。

協調して生き続けていくための源泉だと申し上げましたが、競争原理に基礎を置くダーウィンとは異なり、今西錦司先生の棲み分け理論も、生命が社会性、協調性を本性として持っていることを示していないでしょうか?

宗教はそのほとんどが、死後の世界や神秘性を伝えます。人の弱さ、欲を持つことの過ちや恥を伝えることで、宗教の絶対的な強さと正しさを伝え、人の絶対的な弱さや罪を知らしめます。さらに、信じることにより、救われるというメッセージを伝えます。

私には、弱いものを脅しているように感じてしまいます。

宗教はもちろん、個人の精神的活動そして社会の精神的柱にもなってきました。数々の文化創造の源泉にもなってきた宗教をいちがいに否定する気はありません。しかし、宗教自体が持つ「絶対性」に基づいて宗教対立や宗教戦争を起こしていることも事実なのではないでしょうか?

私自身、儒教に興味を持ったのは、「欲」をどう定義し、どう扱っているか知りたかったのがきっかけでした。このことについては、追ってお伝えすることにします。

儒教は人間関係、社会関係についての提言を行う思想です。神秘性を否定していることも、あるいは孔子個人への礼賛も求めていないさまからも、絶対的な判断や行動を否定していること(中庸)からも、非常に興味を持つことになりました。

しかしながら、「儒教の考え方が最高だ」「孔子は聖人だ」とする「絶対性」の見方は、儒教の考えからすると誤っているのです。

また、今西錦司先生の棲み分け理論(私流に言いかければ「協調的生存本能理論」)の面白さも、お分かりいただけましたでしょうか。

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2 Responses to “心の中心にある本能、欲について”

  1. SALTY-SALTY Says:

    コメントしづらい内容ですね。
    賛否どちらの立場をとっても
    反対意見の総攻撃を受けそうです。

    でも面白いですね。
    たくさんの人に受け入れられる考え方かどうかは
    別だと思いますが。。。

  2. SALTY-SALTY Says:

    念のため、書いておきますね。

    たぶん、ソバシマさまは
    植物の走光性のようなもの。。。本能は
    生物が生物として生きていく上で不可欠のもので
    悪者扱いすべきではなく、存在を
    まっとうに認められるべきものだ。。。と
    おっしゃりたいのだと思います。

    それは本当にそのとおりだと思っております。

    ただ、本能とか欲とかという言葉が
    日ごろ悪いたとえで使われやすいので

    受け入れられる前に、誤解されるような気がしました。

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