2500年前の人々が書き記したもの
2008 年 12 月 9 日
湯川秀樹博士が幼少のころ、正座をしておじい様から教えを受けた「論語」は、今から2500年以上前に、人々が書き記したものです。
「論語」とは、孔子が亡くなってから、「どう言った、どうだった」などと思い出しながら、弟子たちが激論の末にまとめたものだそうです。だから「論」「語」だそうです。
もちろん、孔子の教えも、論語もすばらしいのですが、実は、一番私が言いたいのは、少しポイントがずれたものです。
つまり、2500年前、すでに、このような教えとか考えを大切なものだと考えた人たちがいた、という事実なのです。
2500年前、仁とか礼とかの話をしてわかる弟子たち、人々がいたことが、考えるべきこと、学ぶべきことだと思っています。
孔子が出現したから「仁」という概念が出てきたのでしょうか? 孔子の教えを聞いたから「礼」が大切になったのでしょうか?
そんなことは決してないと思います。
書名は覚えていないのですが、太古の昔、日本がまだ日本でなかったころ(おそらく魏志倭人伝より古かったと思いますが)、日本のことを記述した中国の書籍があって、「日本人たちが、道端で、貴い人の周囲でしきりに拍手をしている」という記述がありました。とてもリアルに感じました。道端の日本人たちは貴い人へ感謝か感激を伝えていたのでしょう。非常にあたたかな交流の場を想像できます。
2500年前の日本はいつの時代でしょうか?
なんと、神武天皇より、天照大神(最近、「あまてらすおおみかみ」がヒミコのことだ、という説がかなり有力になりつつあります)よりも数百年も前のことです!
子供のころ、縄文土器や竪穴式住居などをみて、非常に未開な時代だったという印象をもっていましたが、ちょっと状況は違ったかも知れません。
何十万年も前のネアンデルタール人の骨が出てきたとき、その周囲に、大量の花粉が出てきて「これはたくさんの花で埋葬された後だ」との説明を聞いたときに、非常に強いショックを受けた覚えがあります。彼らの悲しみも死者への愛情も伝わってきました。
孔子に指摘されて「仁義礼智信」が生まれたわけではありません。周囲の人が初めて知ったわけではありません。その言葉を言われて理解できる、弟子たち、人たちがいたという事実が分かります。
ただ、よく分からなかったり、ちゃんと整理できていないから、このような教えを乞うわけです。知ろうとするということは、半分分かっていることであり、知りたいという欲求があるという証しです。
民主主義も、ギリシャ、ローマの時代からありました。
教会絶対の中世を経て、芸術などが復興しました。そして生命のエネルギー(本性)を表現することが容認されるようになりましたが、古代ローマ遺跡で最近見つかるすばらしい芸術作品をみるにつけ、なぜ、この時代のことをルネサンス(文芸復興)と呼んだのか分かりました。私には、ローマ時代とルネサンスとの区別すら、むずかしいぐらい、すばらしい作品群でした。
さて、私がアフリカにいたとき、アフリカの人々から、「礼」も「智」も「信」も感じました。
(日本人はほとんどしないですが)韓国の人であれば、人にものを渡すとき、必ず片手ではなく、もう一つの手を添えて渡すでしょう。マラウイの人も全く同じ仕草をします。
私がアフリカの職員室に一人でいたとき、「職員室の中に入ってよいでしょうか。実は、・・・先生からチョークを取りに行くように言われたので来ました」と説明にひざまずいて尋ねた少年たちは、このような行動をキリスト教で教えられたのでも、仏教で教えられたのでも、儒教で教えられたのでもありません。もちろん、親から教えられたのかも知れませんし、見て聞いて覚えたかも知れません。しかし、理解し、実践するための素地である「心」を持っていたことは確かです。
よく、敬いや思いやりは、何らかの思想とか教育とかが必要だとされていますが、本性として持っている部分がかなりあるように思います。生まれながら持っているのか、育つ中ではぐくまれるのか、おそらくその両方でしょう。この調和と繁栄のための基礎を持っているのです。少なくとも2500年以上前の中国ではそうでしたし、4大文明のような大きな社会システムがあったこと自体、思いやりや尊敬などの基盤があったことを示唆していないでしょうか。
たとえば「十戒」ができたため、初めて人を治める概念ができたわけでも、それを人々が知ったわけでもないでしょう。
メッセージは、受け取る側に、分かる素地、受け取るニーズ、気持がないことには、決して伝わりません。
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12 月 9th, 2008 at 1:47 PM
ソバシマさまのこのブログにコメントをするのは、
頭の体操になりますね。
私は大学では、主専攻は理論社会学、副専攻は産業社会学でした。ですので、高校で言う倫理・社会が専門のようなものですが、ソバシマさまのように書けません。また、忘れてしまっていて、このごろでは知識も怪しいものです。それが専攻だったということすら気恥ずかしいですね。
何だか勉強しなおしているような気になります。