詩人ジェームス・カーカップ氏の「ニュー・ジャパン・ナウ」
2009 年 1 月 14 日
私が大学生だった頃ですから30年ほど前、英国生まれの詩人ジェームス・カーカップ(James Kirkup)氏が書いた「New Japan Now」という薄い英語の本を、たまたま書店で手にして読むことになりました。
ジェームス・カーカップ氏のホームページ:
http://jameskirkup.com/
英語を専攻しない私が、専門書や実用書でない英語の本を買うことはまれなのですが、なぜ手にするようになったか覚えていません。
でも、読み始めると、ぐいぐいと引き寄せられてしまいました。うーんとうなりました。どうして、日本人でないのにこんなことがわかるのか不思議でした。
彼が詩人だったことはもちろん知りません。また、そのようなことも書かれていなかったのですが、彼の英語の美しさにも引き寄せられ、読み続けさせられたのだと思います。
この本の前に「Japan Now」という書を彼が著わしているのですが、それから10年ほど経過して日本の状況が変わってきたので、新しい日本について書くことにした、とのことでした。
実は、本の半分以上が、ある意味、痛烈な日本批判でした。一方、高度経済成長する日本に対して、「お願いだから日本人は日本の良さを捨てないで!」と嘆いていました。
例えば、選挙宣伝カーの騒音や、電車が来るときに大音響で「電車が来ます!白線の内側に下がってお待ちください!」「ドアが閉まります!」とけたたましい音を流す日本について苦言を述べられています(私が知っている限りイギリスでは、電車のドアが閉まる時に一切アナウンスがない)。
日本人はこれまで、静寂や虫の音、風鈴の音を楽しみ、お茶をいただき、風流を楽しみ、身近な時間と空間を楽しんできたのに、どっぷりと騒音と商業主義につかっていることを悲しんでいました。
彼は日本人以上に古き良き日本を愛し、日本人の生活感覚のすばらしさを訴えていました。特に、がんこな日本の老人をほめていました。
そして贅沢でなくても、今、生きている日常の生活の中に、美意識や楽しみを持つ、まさに、日本人しかわからないような感性、文化の美しさ、すばらしさを驚嘆していました。
彼はそのことを「クオリティー・オブ・ライフ」(Quality of Life)と呼んでいました。これはいわば生活の楽しみであり、「生き方の品格」にすら通じるのではないか、と私は思います。
・・・
これは、欧米の文化とは極をなすものです。
欧米の化粧品の広告を見て、気づく方はいませんか?
化粧品でも、装飾品でも、家具でも何でもいいです。
「優越, Excellent, Super, Victory」がキーワードとなっているものが多いのです。
優越、あるいはナンバーワンが重要です。
たとえば、飛行機に乗って、目の前に高級カタログがあったとします。そこには、必ずや欧米式の「優越する」品々を光沢が飾り立てていませんか?
もちろん、「きれい!」と日本人は思います。特に女性はそうでしょう。
庶民にとっては、そんな時間の方が特別です。だから、高級そうな香水、バッグなどに目がいってしまいます。
すばらしいものは高いものです。他の人々が買えないものをもっていることが優越です。すばらしい品々とエクセレント、スーパー、そしてナンバーワン。
たとえば、階段を上りながら上から美しい女性が見下ろす「○ッ○○スーパー○ッ○」のテレビコマーシャルは、優越をキーワードとする典型的な欧米型の美の表現です。
このコマーシャルを全世界に流しています。アフリカでも、中国でも、インドでも、そして日本でも。
これが悪い、と言っているのではありません。
しかし、私は、どうしても、一神教的、絶対的、優越的見方、考え方、表現法を感じざるを得ません。
動物文化、あるいは牧畜文化、家畜の群れより優越するリーダー式に感じざるを得ないのです。
動物には、優越する唯一のリーダーで十分です。
これら絶対性・優位性が、ある意味、価値観あるいは文化衝突の根本原因となるものなのです。
日本人でも、優越するものに美しさを感じます。わかります。ほしいと思う人も多くいるでしょう。
でも、とりたてて特別でない、目の前のものにすら愛情を注ぎます。楽しみます。
(※欧米人も小物を楽しんだ入り、心のこもった小さなプレゼントやカードを送りますので、彼らにそのような感覚が分からない、と言っているのでは決してありません)
それをつかって、自分だけでなく、周囲とデンタツします。
絶対的に優越していなければならない必然性はほとんど必要ないのです。
これこそ、ジェームス・カーカップ氏が言った「クオリティー・オブ・ライフ」ではないでしょうか。
こけしや折り紙など典型的な日本らしさのものがありますが、私は、プリクラすら、現代の日本的な美であり遊びであると思います。
そして、漫画・アニメだけでなく、「カワイイ(Kawaii)」は、いまや、新しい価値観として世界へ発信されています(数年前の朝日新聞の元旦の大特集はこのKawaiiについてでした)。
セリ君が驚いた「痛いの痛いの飛んで行け!」も日本文化ではありますが、アフリカ人にもとてもよくわかる表現のようです。
金融という資本主義の屋台骨がけたたましく崩壊しつつある今、身近な美、楽しみを広げていく日本的なクオリティ・オブ・ライフが、今後世界にアピールし、広がっていく底力があるのではないか、と考えています。
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2 Responses to “詩人ジェームス・カーカップ氏の「ニュー・ジャパン・ナウ」”
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1 月 14th, 2009 at 5:41 PM
「金融という資本主義の屋台骨がけたたましく崩壊しつ つある今、身近な美、楽しみを広げていく日本的なク オリティ・オブ・ライフが、今後世界にアピールし、 広がっていく底力があるのではないか、と考えていま す。」
そうであってほしいですね。
勝ち負けの世界ではなく、人と比べるのではなく、オリジナルの楽しみを見つけていけるのも才能ですね。
旅行をすると官製はがきを1枚買ってその郵便局でその日の消印を押してもらって、それを自分へのお土産にするとか、旅館に泊まるとその旅館の屋号の入ったお箸いれに簡単に思い出を書いて残すとか、自分オリジナルのささやかな楽しみ方を考えられる人はすばらしいと尊敬できます。
それに、ソバシマさまが言っておられるように
生活の中の美というのも感じます。
日本的な美というのは、外国で生活された経験のある方の方が、たくさん感じるものでしょうね。
アメリカにホームステイする中学生のアメリカの方への日本のお土産として餞別代りにたくさんの折り紙作品を息子が折って渡したことがあります。
日本の折り紙も外国の方から見ると大変喜ばれるものなのだそうですね。
1 月 14th, 2009 at 6:09 PM
日本的なものは日本人しか分からないものではないことを気をつけなければなりません。
戦い続けるユダヤ人、パレスチナ人には分からないもののように考えることも誤りです。皆、同じ文化の根底を持っています。ただ、自身の文化、自身を強く守らんがため、また、親・先祖が保持してきた一神教的、後天的文化(特に原理主義の場合に強い)を保持しているのです。
世界の人から喜ばれたり、素敵と思われること自体、「共感」という相通じるものがあります。日本が育ててきたすらばしいものは数多くあります。決して独善的ならず、誇りを持ちたいと思います。