日本人の英語学習法の何が問題だったのか?
2009 年 2 月 19 日
時間をかけたのになぜ、英語が話せない?
日本人はなぜ、何年も英語を学んでも、聞いたり話したりすることが苦手なのでしょうか?
原因として指摘されているものには諸説あります。
「学校の授業が文法や英文解釈中心だから」ということ、つまり「オーラル(ヒアリングとスピーキング)のウエートが低いことが原因」という意見を多く聞きます。それは事実ですし、解決の鍵がそこにあることは確かです。
では、ウエートを逆転すれば話せるようになるのでしょうか? 重きをヒアリングとスピーキングの時間にかければスラスラ話せるようになるのでしょうか?
あるいはまた、考え方が異なる別の意見として、「日本人ははずかしがりやだから」とか、「正しさを求める完璧主義だからなかなか話さない、だから話せない」という意見もあります。それも原因の一端を伝えています。
名詞の単複や動詞の時制など、文法的なことは無視して、ブロークンで話せる人の方が、間違いを気にして話せない人より外国人とコミュニケ―トできることも事実です。そして、軽く言葉が出る人の方が、口が重い人より早く言葉を習得していきます。
しかし、よくしゃべっているのと、うまく伝わっているのは違うことです。
外国人の日本語を聞くときに、分かりやすい人と分かりにくい人がいませんか? 多少のなまりや癖はあっても、聞きとりやすい日本語を話す外国人と、何を言っているのか分からない外国人の日本語がありますよね?
「私のブロークンはよく伝わる」と自慢する人もいますが、実は、聞く方が「外国人」を気遣ってくれて、意識を集中してエネルギーを費やして聞いてくれていることを知っておかなければなりません。
ですから、学ぶときに間違いを恐れないことは大切ですが、国民性が問題で話せないというのは、ポイントがずれていないでしょうか。
日本にいて、英語をしっかり身につけられた方の多くは、長文(文字)を読み、辞書を引き、日本語と英語とを行ったり来たりして、大変な労力、ストレスを脳にかけて勉強されてきています。さらに、英字新聞や英文雑誌を読んだり、映画を観賞したりと、膨大なエネルギーを注いで取り組み、身につけられたことでしょう。そのような方には、本当に頭が下がります。
言葉は、簡単に身に付けられないことは事実ですが、ある程度時間をかければ誰でも身に付けられるのも事実です。つまり、英米人、オーストラリア、ニュージーランド人たちは育ちながら英語を学んだのであって、母国語環境であれば多大な苦労をせずに英語を操ることができるようになる、ということです。もちろん、逆の言い方をすれば、英語を母国語とする人たちは、誰もが完璧で高度な英語を読み書きできているわけではない、ことも真実です。
ここで問題としていることは、私たち日本人が中学校、高校、大学と、かけた時間や労力ほど言語理解と伝達能力が身についていないという事実です。
この、即応できる言語能力を得られていないことが一番問題なのです。
たとえば、端的に言いますと、「非常に平易に話されているオバマ大統領の演説の英語を聞いてわかり、その程度の英語を話せるレベル程度まで、どのようにすればできるか」という問題です。シェークスピアレベルの英語を味わったり表現力を付けようとしているのではなく、普段の会話やスピーチ程度の語学力をどうつけるか、ということです。
これまでの英語学習の中で、スキル習得に役立たなかったり、逆に阻害しているものはなかったのでしょうか?
言葉を音ではなく文字(記号)として扱ってきたことの問題点
漢文手法で中国語を読んで理解してきたように、英語も同じように扱ってきました。日本人にとっては、文字を見て声を出す、あるいは、声を出しているときに文字を見る、というようにしてきていないでしょうか? 英文を声を出して読み、人が読んでいるときに文字を見る、ということです。
ちょうど携帯に依存する人が携帯の画面に釘付けのように、授業中、英文字に依存して発音を聞いたり、英文字を見ながら発音したりしていることです。「顔を見て話そうよ!」とテキストを置いて授業ができていない、という問題を述べているのです。
それこそ、「文字を離れて話すと文法ミスをしそうで心配だ」という方がいらっしゃるかも知れません。このことは、先に指摘した性格の問題にも関わりますが、たとえば、自転車に乗れるようになりたいときに、補助輪は必要ですが、ずっと補助輪を付けつづけても乗れるようになりません。辞書や文字にぴったりくっついていたら、逆にこぎ出すこと、離陸が難しくなるのです。
また、日本の教育課程では、テストで「英文を訳せ」「和文を訳せ」「文法の誤りは何か」「正しいものはどれか」といった問いに答えられること、つまり、設問に答えられるようになることがあたかも教育の目的のような結果を生む仕組みになっています。
すると学ぶ側の心理としては、言葉を習得したいという長期目標は持っていたとしても、得点を取るという短期目標に負けて、訳すテクニックを身につけることになります。
そうです。漢文式の「音声認識」ならぬ「文字(記号)認識」です。それを日本語での思考を使って行うのが最も速く効率的なやり方です。文法問題も、はたまた、発音問題までもパターン化して覚えようとします。教師の側も正当数や正当率で「英語」の力を測っていると思っていますが、実は、「英語」に関わるパターン蓄積と正解解答能力を計測しているだけなのです。
このように、記号、文字に対する反応能力を要請しているわけですから、音に対する能力はなかなか育てられていないのです。実は、このような教育の問題は、英語だけでなく、すべての教科、すべての学問についても言えることなのですが、ここでは、話は広げないことにします。
私たちはこのように、日本語を使って授業を受け、文字を見て理解しようとし、問題を解こうとすることを長年続けていきます。外に出たとき、補助輪(文字)が外されます。それを頼りに学んできたのに、それをはずされたらたまったものではありません。
このような苦労を何年やっても話せるようにはならないのは非常にもったいない、残念なことではないでしょうか?
しかし、海外(英語圏)に身を置き、自由に話せるようになった方々は現在、非常に多くいらっしゃいます。どこが日本での学習と違ったのでしょうか?
当然、日本語がない環境であることが一番大きなポイントです。つまり、日本語を思い浮かべる間を持てない状態にいることです。
辞書をよく引いたから言葉を学んだのでしょうか? そういう方もいらっしゃるかも知れませんが、たいていはその逆だと考えます。音を聞き判断しなければならない状態になっている、ということです。日本語や英単語が入り込まない状態に置かれている、ということが最大の要因でしょう。
もっと自然な学び方がありそうです。そうです。赤ちゃんの言葉の習得方法からおのずと、答えが分かるのではないでしょうか。
理想は赤ちゃんの言語習得
赤ちゃんが言葉を学ぶときに、文字が必要だったでしょうか? 早く字を覚えてほしいとして、話す都度文字を見せることをやっていたらどうなるでしょうか? そのようなことをやり続けたいと思いますか? やるべきだとお考えですか?
ひょっとして、あやまった言葉づかいを習得しないよう、幼年期あるいは学童期に、辞書を引くことをさせ続けるとどのようになるでしょうか? 実際にそのような小学校があることをご存じの方もいらっしゃるでしょうが、私は賛成しません。辞書依存症に育ててしまうことは、誰しもが想像できることです。山のような付箋をつけた辞書を持ち歩く子供たちから、辞書という「補助輪」を取り上げるときのことを考えると、私は心が痛んでしまいます。
私たち日本人が英語という教科を学ぶにあたり、文字に依存した学習を行ってきたことがお分かりいただけたでしょうか? また、母国語でない外国語を学ばせるときには、どれだけ不自然な方法を行っているかおわかりいただけいただけたでしょうか?
では、母国語でない言葉を学ぶには、わかるようになるまで、ただ聞き続けさえすればいいのでしょうか?
理解でき、話せるようになるまで、わからない言葉を聞き続けることが唯一の学習方法でしょうか?
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