規則と中庸(2)
2009 年 4 月 17 日
日本人または日本の優れたところの一つとして、「議論はほとんどしなくとも(明文化しなくても)、秩序立てた行動を行うこと」があげられると思います。
「優れた」とすると、一部の方からお叱りをいただきそうなのですが、あえてこのように申し上げたいと思います。
駅の階段が真ん中に仕切りがあって、仮に下から見上げて左が上り、右が下り、のように決めてあったとします。 人が多くないときは、ほとんど守られていないような駅でも、いったんラッシュの時間帯になるとかなりの割合で守られるようになるのです。
ラッシュ時間帯を利用するのはいい人たちで、それ以外は悪い人、というわけでもありません。 守るべき時と守らなくていい時とをわきまえている、ということです。
さらに人の数が増えてきて、到着した電車からどっと人が降りてきて、そのため、階段の下りの人の数が大幅に増えた場合どうなるのでしょうか。
そう、1列程度はみ出てくるのです。その微妙な調整といったら「すばらしい!」「計算しつくされたようだ」とまでほめたくなります。 このはみ出しのおかげで、階段が人をさばく人数が増えるのです。つまり、効率アップを人間システムが実施しているわけです。
もちろん、マナーの悪いところもあるでしょうが、それは、一般に、往来量が少ないところが多いのではないでしょうか。
もちろん、このような議論もある程度ざっくりとしたものであって、決して日本人が非常にマナーがいい、と言えるものでもなく、単に環境適応している、と言ってたほうがいいかも知れません。
ちょうど、「エジプトはナイルの賜物」といったように、日本のこのようなマナーは、「ラッシュアワーの賜物」である可能性も大なのです。
規則を徹底して書きつくさなくても、人間が運用するときに、判断することはこのようにできます。
駅での人の移動は、道路交通法の適用は受けないかも知れませんが、たとえば、公道の場合、同じような問題が起こることがあります。公道では、 赤信号で渡ることは明らかに道路交通法違反です。でも、明らかに左右を見てもまったく車がなく、わたる距離が狭く、渡れるような場合に信号無視することもあるでしょう(無視しないとある流れがオーバーフローしそうなときは特に問題です)。
でも、これも程度問題で、自分の都合でスイスイ信号無視をされたら、運転する人には迷惑このうえないものですが、このあたりの微妙な調整力が求められるのではないか、と考えます。
ただ、むずかしいのは、それを子供に見られたときの説明です。 「どうして、あのおじさん、赤で渡っているの?」 と聞かれて 「あの人は悪い人です。ひかれるかもしれないから、絶対真似したらだめですよ」 と言うこともあるのではないでしょうか?
(大阪弁で)「場合によりけりや、だいじょうぶそうやったら渡ってええんや。でも気をつけや」 という場合もあるかも知れません。
「気をつけや」 と言い渡せない子供に、このように言うのはちょっと問題なのです。 きっと、警察が聞かれたら「絶対だめです」と答えることでしょう。
でも、私たちの世界はこの程度の幅を持って運営されているのが実際のところで、ややファジーなところがあるのが実情でしょう。
いつも私が通る、新宿の細い道。 わずか4~5メートルあります。
ほとんど、そこを横切る車はなくて、左右を確認しながら赤でも渡る人が大多数です。 でも、実際には、よく見ていないと、10分の1くらいの確率で、渡る車がやってきます。 ですから、実際には注意していないとあぶない場所です。
そしてそこは、実は新宿警察署の斜め前ということもあり、警察が見ていることもあるのです。
そのときは、ほとんどの人はちゃんと止まっています。 これもまたすごい。日本人の適応力の高さを感じるシーンです。
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2009 年 4 月 15 日
規則と中庸
2009 年 4 月 14 日
私が高校生だったころ、地域にいらっしゃった警官のお話です。
全国トップの検挙数を上げ、何度も表彰されていた、有名な方でした。
ただ、その検挙の仕方が特徴的、といいましょうか、特別でした。
草の茂みにひそみ、ヘルメットをしていないバイクを運転する高校生に職務質問をしたり、雨で満員になったバスを止めて、到着時間が遅くなることを心配する乗客をよそに、道路交通法違反の容疑で乗客数を「1・2・3」と数えていました。
このようなことを知り、初めて、定員以上の乗客を乗せるのは実は道路交通法違反であるのだ、と学びました。
その警部は、本人のご兄弟までも摘発されたことも言い伝えられていました。
検挙数で表彰する仕組みでは、当然、この警部のように「摘発」「検挙」をすることに集中する人が高いランクを得ることになります。
誰もが「やり過ぎ」だと感じるでしょう。
でも、そのやり過ぎを上司や警察という組織、あるいは社会全体がコントロールできないことを、悩むべき問題だと思うのです。
法律など規則には、明示されていない目的や精神がありますが、それらを考慮せず、「文言どおり」適用すると不都合や不便が生じる場合がほとんどです。
警察でも、消費者センターでも、非常に多くのクレームや情報が集まってきます。
通常、過去の判例などと照らして違法性が高いかどうか、被害がどの程度か、影響がどの程度大きいかなどを動的に判断しながら動いているようです。
もちろん、「何で取り締まってくれないのだ」と思うシーンに遭遇することもありますが、通常、影響や効果を考慮しながら、平等の原則や法律を合わせて考慮して、当局は動いている、あるいは動かそうとしている、と考えることができるでしょう。
孔子の言行を記した「論語」を読むと、今から2500年前という大昔に、規則だけで社会をコントロールしようとする考えを批判されています。
当時すでに、自然を尊ぶ「道教」の思想も、また、規則で社会をコントロールする思想もあり、それらについて、さまざまな場面で考えを述べています。
孔子の発言から「厳密な適用をしようとすると極論となったり、しっかりと考えておかなければならない『中庸』を意識しないようになることが問題だ」と指摘しているように読み取れます。
周末期のこの混乱の時代に、どうしたら平和を保ち、社会を発展できるか、について問い続けた孔子は、「仁」や「孝」など、伝えれば理解できる、感じることができる、人を思う「心」を中心に考えること、人との接し方「礼」を大切に考えて行動することを伝えています。
さてさて、この警部に「やり過ぎ」と伝えることはできます。
でも、全国トップの検挙率という名誉ある表彰を与えながら、「やり過ぎ」をたしなめることは案外むずかしいものです。
あなたは、そのような方に、何と伝えますか?
そもそも何も伝えませんか?
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3400万円のワッペン作り直しと15兆円補正
2009 年 4 月 11 日
都下水道局の制服につけるワッペンをデザインの規定に不適合であるために作り直し、無駄に3400万円かかった、というニュースが伝えられています。
一様に「無駄な支出」の批判の声があがっていて、石原都知事も「けしからん」と発言されています。
いずれにしても、今回の件については、デザインの規定の方が優先され、税金3400万円が余分に支出されたわけです。
いろいろな対処法が考えられたと思います。
1.作り直さずにデザイン規定に反したワッペンを使う
2.ワッペンを入れない制服を使う
3.弁償させて作り直す(新たな支出を補う)
4.弁償させずに作り直す(余分な支出をする)
といった方法がありえたのでしょうが、「ワッペンは付けたい。無駄な支出でもおとがめがない」から4が採用された、というわけです。
3400万円の無駄支出があっても、責任者二人への訓告という注意程度で済むわけです。
使い込みだったら牢屋行きでしょうが、間違いだから注意で済みました。
でも、納税者にとってみれは、不注意でも、過失でも、意図的な犯罪でも、負担は同額です。
おそらく、このような無駄な支出は氷山の一角でしょうし、無駄な建造物や組織など、無駄遣いの疑いのあるものはいくつもあるのではないかと思ってしまいます。
実は、制服の胸に着ける、とても立派とはいえないワッペンに、単価・何千円ものコストをかけることも問題なのですが、そのことには今回は焦点が当たっていません。
非常に気になるのは「無駄な支出」をさせない、あるいは監視する、あるいは罰する、あるいは償わさせる規則がない、ということです(無論、会計検査院といった仕組みも、不正防止などの面である程度機能しています)。
どうしてでしょうか?
まず、無駄かどうかの評価がむずかしいことがあげられるでしょう。
つぎに、無駄だとわかっても、それを決裁者や担当者に弁償させることは、金額的にも困難だと考えるからです。
そのようにすると、誰も政治家や役人になりたがらないからでしょう。
しかし、政策や予算執行をいくら失敗しても、いいのでしょうか。
世論は残念ながら、その場限りの突風のようなもので、過ぎれば穏やかになる、あるいは忘れてくれます。
世論は残念ながら、感情的な「けしからん」中心であり、「いい仕組みにせよ」という具体的な改善要求は突きつけません。ですから、「無駄遣い予算執行への罰金規定を定めよ」などとは言わないのです。
社会保険庁の問題でも、ボーナスが出なかった程度しかパニッシュメントはありません。
そもそも、日本国憲法ですら、「健全な財政を行うこと」を国権の責務である、と規定していないのです。
私は常々、国権(司法・立法・行政)に対して唯一優越する存在である憲法が、国権の責務を明確に規定していないことが、法治国家日本の最大の問題だと考えています。
確かに平和主義をうたった、いい憲法ですが、変えてはならない、絶対のものでしょうか?
でも、そのような発言をすることは、タブーなのです。
発言すること自体で「改憲論者=軍国主義者」とみなす方が多くいらっしゃいますが、私は平和主義者ですし、きっちりと国の枠組みを定めるべきだと考えているのです。
この憲法では、国民の権利を認めつつ国民の義務を明確に規定する一方、国権の機能(サービス)の大枠は定義しながら国権の責務の規定と基本的な目標設定を、何ら行っていないのです。
もし、私が憲法のドラフトをスケッチするとしたら、以下のようになると思います(天皇についての規定は除く)。
(明確化)【前文】 歴史的な位置づけ(国民、諸外国への明確な侘びと反省を含む)と今後の方向性の明示
(新)【目的】 国家・国民の発展を維持する
(新)【国権の責務と機能(安全)】 国民の生命財産を守る=外交・防衛・防災・環境のガイドライン
(新)【国権の責務と機能(財務)】 適切に予算立て、予算の執行、結果の評価を行い、健全な財政の維持をすること
(明確化)【国権の責務と機能(その他のサービス)】 平等かつ有益なサービスを提供する
【司法の責務と機能】
【立法の責務と機能】
【行政の責務と機能】
たとえば、福祉は、国民の生命・生活を守るために国家の機能であり、実は責務でもあるわけです。
環境対策をすることは、単に世論や世界的な要請ではなく、国権の責務として扱う対象であるわけです。防衛も防災も国民の生命財産と守るという観点から同一のレベルの話です(防災・消防も防衛も同等に扱っている国々はかなり多いです)。
このような機能を適切に提供することが、国権の責務であり、無駄な支出、あるいは無駄な支出により適切な支出ができていないとしたら、それは国権としてあるまじきことだと思いますが、いかがでしょうか?
ですから、「詳細は法律で定める」と記述するにしても、憲法のレベルで、しっかりと上記のような機能と責務ならびに守られない場合に対処するためのガイドラインを示すべきだと思います。
それがないから、無駄支出はなくならないし、改善するための法律も定められないのです。
ですから、「赤字がどれほど増えていっても赤字を改善する方策が立てられないことは重大な問題であり、これは憲法違反である」と言えるような憲法、法体系を定めるべきだと私は思います。
変えないことも一つの方法でしょう。
でも、問題を見つけること、解決のための方策を熟慮検討すること、伝達して問題意識を共有すること、協力して改善努力をすることは、労力がかかりますがとても大切なことではないでしょうか?
残念ながら、思考停止、あるいは思考をさける風潮が広く存在しますし、それは社会的なタブーとも無縁ではないでしょう。
さてさて、大赤字をさらに増やす15兆円の補正予算。いったい、誰が責任を持つのでしょうか?
誰も責任を持たないこと、何からも規定されないこと、そして「考えよう、改善しよう」という改善要求世論が出てこない現状を、私は残念に思います。
ひょっとして「これは国権の、完全なまでの自由」だったら驚きですよね。
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Yes/Noの文化的背景
2009 年 4 月 7 日
「Noと言える日本」という本が、ずいぶん前に話題になりました。
普段あまり意識していない「日本」「日本人」の特性のようなものを伝えられたような気がしました。
もちろん、「No」と答えにくい国民性に焦点が当たっていたのですが、私はそれは当然の思いやりだと思っています。
自分の個人的な意見であれ、相手が伝えてきたり求めてきているものに対して「No」とは言いにくいものだし、言っては悪いと考えるのは当然のことだと私は思います。
なぜかと言うと、「No」という答えを言わなくていいように、言葉を選び相手に同意を得るような問いかけやお願いをするのが私たち日本人の文化だからです。
同様な文化的な状況は世界各国を調べたわけではないのですが、多くの国であると思っています。
私が二年間過ごしたアフリカ、マラウイでも、そのあたりは日本と全く同じでした。
普通、相手が「No」と言わなくていいように尋ねるのがマナーです。
だから、わからなければYesといっておけば間違いありません。
マラウイ北部の言語(チトゥンブーカ)では、Yes は「エー」。No は「イヤイー」と言います。
響きが日本語に似ていて、気持ちまで伝わる感じがすると思います。
少し脱線して、チトゥンブーカの言葉をご紹介します。
水はミシ(ひょっとしてマジだったかも知れません)。
トウガラシはピリピリ。
たくさんはチョメーネ。
ちょっとはパチョーコ。
ちょっとずつはパチョコパチョーコ。
語感が日本語に似ていたのは本当に不思議でした。
トウガラシはいっぱいかけないで、というのに
ピリピリ・チョメーネ・イヤイー
と言えばいいのです。
コカコーラありますか、を
コカコーラ・アリコ?
のようにしゃべっていたのを聞いて、日本語しゃべったと思ってドキっとしたのを覚えています。もちろん、現地語です。
私はほとんど英語を使った生活だったのですが、たとえば、タンザニアへ行った協力隊隊員たちは、(英語以上に)スワヒリ語をペラペラ話せるようになっていました。
脱線を戻しまして、「Yes」と「No」の件。
問題は、Noと言える精神的な強さを持っているかどうかなのではなく、 話している言語の文化的背景がどうか、をちゃんと考えていればいいのではないかと思うのです。
No と言っても問題ない文化的な背景がある言語の場合、平気で No と言えばいいのです。
でも、そうではない場合、相手の意図を考慮しなければコミュニケーションをうまく取れないことになってしまいます。
「日本人よ、No と言えるようになろう!」
というのは文化や文脈を無視したスローガンです。
「No と言って良いか悪いかどうか、言語や文化、状況で判断しよう!」
が本来の考え方ではないでしょうか。
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桜・桜・桜
2009 年 4 月 5 日
求める人物像
2009 年 4 月 4 日
時代や社会が求める人物像はさまざまですし、変化もしていきます。
儒教的な見方、仏教的な見方、キリスト教やイスラム教的な見方などいろいろあることは確かです。でも、本質的に、個人なり社会の平安や幸福、あるいは発展に寄与する「ヒト」なり「仕組み」が求められているのではないでしょうか。
個人のリーダーシップを重要視するか、しないかで別れるのも確かです。
欧米、一神教的な世界ではリーダーシップが必要不可欠、絶対なものです。
それに対して、東洋的な世界(多神教あるいは無宗教)世界では、リーダーシップより和、あるいは適応などが重要になります。
とはいえ、時代の変革期には、日本でもリーダーシップを発揮した人たちが名を残し、業績を残し、尊敬を集めたことも事実です。
宮沢賢治の詩を思い出してみましょう。
・・・
雨にも負けず
風にも負けず
雪にも夏の暑さにも負けぬ
丈夫なからだをもち
慾はなく
決して怒らず
いつも静かに笑っている
一日に玄米四合と
味噌と少しの野菜を食べ
あらゆることを
自分を勘定に入れずに
よく見聞きし分かり
そして忘れず
野原の松の林の陰の
小さな萱ぶきの小屋にいて
東に病気の子供あれば
行って看病してやり
西に疲れた母あれば
行ってその稲の束を負い
南に死にそうな人あれば
行ってこわがらなくてもいいといい
北に喧嘩や訴訟があれば
つまらないからやめろといい
日照りの時は涙を流し
寒さの夏はおろおろ歩き
みんなにでくのぼーと呼ばれ
褒められもせず
苦にもされず
そういうものに
わたしは
なりたい
・・・
日本人にはしみじみとくる、本当にいい詩です。
背景に仏教的な思想があることも私たちに親しめる理由があるのだと思います。
ところが、現代は状況が変わってきました。
しみじみと想い、和をもって協調的に行動する時代から、知識を求められる時代へと入り、さらに先へと進んでいるように思われます。
私が考える人物像を1つのパラグラフで申し上げると、以下のような表現になります。
単に知識を持っているだけでなく、現状を把握して課題を見つけ、その解決のために方策を調べて熟慮検討し、知識や考えを共有しながら、問題を分担して解決していくことを進める人物、あるいは協調的に推進できる人物
もちろん、自分が大切にする「心」を否定する必要もありませんが、非リーダーシップ型社会(これまでの日本)の欠点は、上記のような人材を評価し、選抜する基準も、仕組みも、そして努力もない、ということが挙げられます。
ただし、私的な企業では、社員に対してこのような人材かどうかを評価する流れになってきていることは、多くの方がご存知でしょう。
でも、社員を採用する場合には、せいぜい、面接を行う程度です。その中で、やる気や能力、そして周囲との協調性について主観的な評価を行います。
日本は効率重視の世界なので、悠長に人を選ぶこともやりません。やりませんが、 働いてもらいながら、実は選抜をおこなっているのが実情でないでしょうか。
はずれることも多々ありますが、やらないよりはやった方がいいので、どこも面接くらいは行います。
本来、容姿などに影響を受けやすいので、平等の観点で望ましいものではないのでしょうが、知識偏重になりがちなペーパーテストの欠点を補うために使われるわけです。
「人」が「人」を評価したり、選抜するというものが、私たちの社会では最も重要なことがらです。これについては、以前別の記事で書いたので述べませんが、ちゃんとした選抜基準ができ、ちゃんとした選考が行われるならば、意味のない選考や勉強もしなくてすむことは確かでしょうし、いい社会を建設するより具体的なステップを進めていくことができます。
なぜ、こんなお話をするかと申し上げますと、たとえば、いい公務員を採用しようとして(現在、民間とは違ってペーパーテストだけで選抜していることが多いのではないかと思いますが)、 人が人の何を見て、何を評価したらいいか、について真剣に考えて変革していかないとならない時代になってきていると思うからです。
天下りの問題がいろいろと議論されています。
でも、どのように適性を判断して公務員を選抜するべきか、などの議論を全くせず、「民間と違って天下りできるのはけしからん」だけで決定するようなことがおかしいと思うのです。
どのように選抜し、どのように評価し、どのように待遇を与えたか、一連のものを考えるべきではないでしょうか?
一時、文部省(日本の教育)が、問題点や対策をしっかり検討せずに「ゆとり教育」という方向へ走ったことがありますが、たとえば、もし東大の入試が「人格重視」に変わったとしたらどうなるでしょう。
「人格を磨く道場」とかはやるかも知れません。
マナー教室がはやるかも知れません。
ひょっとして、論語がもっと読まれるようになるかも知れません。
入試は大きく変わりますので、社会は大きく変わります。
実は、私たちの世界の問題は選抜の問題ではないかと、最近よく考えるようになりました。
どうしてかといいますと、この重大な選抜を、多くの人が「目標」にして毎日を送っているからなのです。選抜や試合にエネルギーを費やし、勝つことを誇りに思い、強いストレスをかけているからです(イチロー選手の潰瘍の話をニュースで聞きましたが、本当にかわいそうです。社会も本人もどれほどのストレスをかけたことか) 。
たとえば四択問題で選抜するから、四択問題で高得点を取る方法に熱中し、技を磨きことになります。つまり、最適解を求めるのです。そして、それで成功する人や組織が幅を利かせることになるのです。
たとえば、東大入試が「人格評価第一優先とする」としたらどうでしょうか?
「え、どのように人格を評価するの?」
と尋ねるでしょう。むずかしいのはわかっています。だからこそ、考えてみる価値がありませんか?
これまで、どうやったらいいか、考えていないことが問題なのです。だから解決へ進まないのです。
そのままにしておくと、出題側は、採点しやすく差をつけやすい問題しか出しません。
安定的な評点を付けられるものしか採用しません。
大切だと分かっていても、たとえば不平等が生まれる可能性がある場合、そのやり方は採用されませんから、点数評価だけの世界へと邁進するのです。
単に知識を持っているだけでなく、現状を把握して課題を見つけ、その解決のために方策を調べて熟慮検討し、知識や考えを共有しながら、問題を分担して解決していくことを進める人物、あるいは協調的に推進できる人物
という人物を採用しよう、と仮に考えたとします。そうであれば、それなりの選抜方法ができてきます。
・課題発見力
・調査力
・解決力
・伝達力
・協調的な進行管理力
それ知っている、という方もいるでしょう。最近は、会社はこのような力を社員に対して求めることが最近増えてきました。でも、残念ながら、入社試験段階では皆無でしょう。
そうそう、1つたまたま思い出しました。私が青年海外協力隊に志願した時の問題は「あなたが、遭遇した最大の困難を記述せよ、それをどう克服したかも記せ」でした。
こんな問題は上の目的に近いことは確かです。
私は、大学入試こそ、このような能力や努力を求め、評価する仕組みができないものかと思います。もちろん、公務員の採用も昇進にも。
その影響力たるもの、あまりに大きいからです。
もし、これらの力を求め、そして評価する仕組みさえあったなら、きっと起こらなかっただろう思う、社会保険庁の置き去り事件など、数限りなくあります。
食品偽装であれ、「社会的な問題」を解くカギは、社会が求める人材をどう定義するかにかかっていると思うのですが、いかがでしょうか?
とにかく、問題が起ころうと、起こりそうであろうと、それを予見し、対応し、伝達し、段取りし、皆と解決していく人材が一番必要なのではないのでしょうか?
現代の問題を解決するための1つの考え方です。
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ききまね英語B1の全画像
2009 年 4 月 3 日
リリース記事
以前からお知らせしています、「ききまね英語 B1(Basic Course Volume 1)」の全スキットが確定し、使われている画像を公開しました(「全」といいながら、8割程度です。一部、発売時のバージョンで使われないことも考えられます。ご了承ください)。
1. People
2. Actions
4. Small Items
5. Stationary
7. Shapes, Colors, and Numbers
8. Animals
9. Others
詳細は、専門サイト(ききまね英語Blog)へお訪ねください。
広告という実験
2009 年 4 月 2 日
広告とはメッセージを市場に届けることで変化や反応を得るものです。
テレビや新聞、Web、あるいはメールといったものは、広告の媒体として発信者と市場との中間に位置します。
単純化すると、ある一つの広告でどれだけアクセスがあったとか、会員申込や資料請求があったか、あるいはどれだけ売り上げたか、という計測できる数値と、元手の費用、届けられた市場の大きさとの比較で「広告」の評価を行います。
ここでむずかしいのが、市場の反応を計測するのと、媒体の力を計測するのと、広告物(メッセージ)の内容を計測するのと同時に行われることです。
つまり、いっしょくたになってしまうので、注意が必要です。
同じメディアであっても、届けられる時間帯によって反応が違うこともありますし、同じ商品についての広告でも、広告内容で反応が全くと言ってよいほど変わってきます。
市場の層も、性別や年齢だけでなく、趣味・嗜好により大きく性質が変わってきますので、多少のグループ分けをしながら(これをセグメント化といいます)、あるグループに対していい反応が出ることを想定して、広告を流し、その結果を評価します。
さて、20世紀の初頭に行ったラザフォードの実験というものがあります。
これは、薄い金箔に放射線の一種であるアルファ線を照射して、その結果を分析する、というものでした。
アルファ線とは陽子が2個、中性子が2個のプラスに電荷を帯びた粒子であるので、同じくプラスの電気を持つ原子核とは反発します。
さて、この実験の結果はどうだったのでしょうか。
ほとんどのアルファ線はそのまま通過しました。
しかし、一部は散乱し、まれに、正反対に打ち返えされるものも出てきました。
この散乱結果から、実は原子核のサイズを計測することができたのです。
ミクロの世界は見ることができないほど小さいのですが、反応されうる物(粒子や光線)を投げつけ、その反応を調べることで、見えないものがどうなっているか確かめることができたのです。
ミクロだけでなく、マクロも同じように実験で調べることができます。
広告はまさに、マクロに対して投げる光線のようなものです。
ほとんど無反応かも知れませんが、ごく一部帰ってきた反応の中に、市場の強いニーズや期待などが混ざっていることがあるのです。
私たちは20世紀の科学者と同様、しっかりとこのリアクション(反応や変化)をキャッチし、見えないものに代わって教えてくれるものを得なければならないでしょう。
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BWFジャパンとPX2について
2009 年 4 月 1 日
心理学者であり、トレイナーとして名高い(長年アメリカ水泳チームのトレーナーでいらっしゃいます)ルー・タイス氏とドクター苫米地氏のセミナーに参加したお話をしました。
ルー・タイス氏はBetter World Foundation (BWF) という組織を立ち上げ、
・戦争と差別のない世界の実現
・地球上のすべての人たちが、それぞれの夢に向かって生き生きと暮らせる世界の実現
というビジョンをもって活動をされています。
また、この組織はThe Path to Extreme Success2 (PX2) という教育プログラムを開始し、普及事業を行っています。
心理学であり、認知心理学であり、啓発プログラムであるものが、教育的、社会的なプログラムとなり、また、世界の平和のためにムーブメントとしていることにとても興味を持たせていただきました。
先日のセミナーも実は、教師たち向けのものでした。
かつては宗教や、国家といった権威をもつものだけが行ってきた、いわばミッションのようなものを非営利の財団活動として行われています。
なるほど、と思われたところも非常に多いので、このトピックについても、折りがあればお伝えしようと思います。
ドクター苫米地は、経営的には独立していますが、このムーブメントの日本代表をつとめられています。
先日、ご紹介した「完璧なまでに自由」もこの活動の基本的な位置づけなのです。
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