規則と中庸
2009 年 4 月 14 日
私が高校生だったころ、地域にいらっしゃった警官のお話です。
全国トップの検挙数を上げ、何度も表彰されていた、有名な方でした。
ただ、その検挙の仕方が特徴的、といいましょうか、特別でした。
草の茂みにひそみ、ヘルメットをしていないバイクを運転する高校生に職務質問をしたり、雨で満員になったバスを止めて、到着時間が遅くなることを心配する乗客をよそに、道路交通法違反の容疑で乗客数を「1・2・3」と数えていました。
このようなことを知り、初めて、定員以上の乗客を乗せるのは実は道路交通法違反であるのだ、と学びました。
その警部は、本人のご兄弟までも摘発されたことも言い伝えられていました。
検挙数で表彰する仕組みでは、当然、この警部のように「摘発」「検挙」をすることに集中する人が高いランクを得ることになります。
誰もが「やり過ぎ」だと感じるでしょう。
でも、そのやり過ぎを上司や警察という組織、あるいは社会全体がコントロールできないことを、悩むべき問題だと思うのです。
法律など規則には、明示されていない目的や精神がありますが、それらを考慮せず、「文言どおり」適用すると不都合や不便が生じる場合がほとんどです。
警察でも、消費者センターでも、非常に多くのクレームや情報が集まってきます。
通常、過去の判例などと照らして違法性が高いかどうか、被害がどの程度か、影響がどの程度大きいかなどを動的に判断しながら動いているようです。
もちろん、「何で取り締まってくれないのだ」と思うシーンに遭遇することもありますが、通常、影響や効果を考慮しながら、平等の原則や法律を合わせて考慮して、当局は動いている、あるいは動かそうとしている、と考えることができるでしょう。
孔子の言行を記した「論語」を読むと、今から2500年前という大昔に、規則だけで社会をコントロールしようとする考えを批判されています。
当時すでに、自然を尊ぶ「道教」の思想も、また、規則で社会をコントロールする思想もあり、それらについて、さまざまな場面で考えを述べています。
孔子の発言から「厳密な適用をしようとすると極論となったり、しっかりと考えておかなければならない『中庸』を意識しないようになることが問題だ」と指摘しているように読み取れます。
周末期のこの混乱の時代に、どうしたら平和を保ち、社会を発展できるか、について問い続けた孔子は、「仁」や「孝」など、伝えれば理解できる、感じることができる、人を思う「心」を中心に考えること、人との接し方「礼」を大切に考えて行動することを伝えています。
さてさて、この警部に「やり過ぎ」と伝えることはできます。
でも、全国トップの検挙率という名誉ある表彰を与えながら、「やり過ぎ」をたしなめることは案外むずかしいものです。
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