親として、あるいは教師として教育にたずさわると、子供からエネルギーをもらえる、と言うものの、大量にエネルギーを消費してしまいます。

放っておくと集中しなかったり、遊びがちなのを、どうやって意欲的に取り組ませるか、悩んでしまいます。

そこで、陥りやすい甘い誘惑は・・・。

「遊んででばかりいると・・・ですよ」「こんど・・・だったら承知しませんよ」といった脅しを行うか、「・・・はできましたか」「おさらいはしましたか」と、確認を行うことはよくあることではないでしょうか?

あるいは、「今度のテストでは何点取りますか」など公約を求めることもあることでしょう。それを達成したらご褒美をあたえるかどうか、など、さまざまな手立てを講じることがあるかも知れません。

知らず知らずのうちに、脅しや管理手法を使います。受験勉強など、管理できなければ、成功はむずかしいものもあることは確かです。

このように、まず、発言内容を点検してみると、学習者との関わり方がしだいに見えてくるものです。

脅しや管理が教育の基本だとは誰しも思わないことでしょうが、では、どうすればいいのでしょうか? 

・・・

私は子供のころからピアノを学びました。

当時、男の子でピアノを習っているのも少なかったのですが、音楽を聴くことも、音楽を表現することも、とても楽しめることができ、機会を与えてくれた親を感謝しています。

中学生のころ、ピアノのリサイタルに参加しました。

演奏後、その有名なピアニストは、ピアノの学び方、教え方についてのお話をしてくださり、Q&Aの時間まで作ってくださいました。そこで、

「あなたの一番いい音を聞かせて」

と、そのピアニストは、初めてピアノを弾く子供(幼児)に求めるのだ、というお話をいただきました。

なんと、幼児でも、鍵盤に向かって、すてきな音を作ろうと一生懸命になるのだそうです。

私は、この方法が一番いい教育法だと思います。

ネガティブな発言もなければ、特段管理を強化しているのでも、ご褒美を約束しているのでもありません(もちろん、「ズバリ子供に成果を求めている」のは確かですが・・・)。

音と接する接し方を導く(センスも磨く)この方法は、「おさらいをしましたか」式の管理教育とまったく違うのがおわかりいただけるでしょうか?

実はこれは、目標指向(ゴールオリエンティド)の取り組みにも通じるものです。ビジネスでも、家庭でも、パブリックでも、プライベートでも役立つ方法なのです。

「学ぶ」ときには、学んだら得られるだろう状態についての感覚をしっかりと意識して持ちながら、学ぶべきだと考えています。

私たちは脅しや管理の力で、小さな大切な「センス」と「意欲」を決してつぶしてはなりません。

初めてピアノを弾く幼児でも、「いい音聞かせて」と求めれば、実はセンスを活性化して(音感を研ぎ澄まし)、意欲的に応えてくれる(一生懸命取り組む)という事実は、すばらしいことだと思いませんか?

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この標題の新聞記事(朝日新聞・7/15夕刊)が書かれているのが目に留まりましたが、日本の今の話だとは最初は思いませんでした。

なんでも、息子への手紙の下書きを鉛筆でするのに消しゴムがほしくて、近くのスーパーで万引きした70歳の女に対して岐阜地方裁判所が出した判決が、懲役2年の実刑というものだったようです。

逮捕された後、「二度と悪いことはしない」とスーパーの店長、検察官、弁護士あてに手紙を書いていて、反省の気持ちを表していたようです。でも、このような判決となりました。

常習累犯窃盗罪(つまり、同様の犯罪を繰り返したことに対する重い罪)が適用されたようですが、消しゴム1個(98円)を盗んだことで、2年の実刑は、誰が考えてもバランス感覚を欠いた判決だと言えないでしょうか。

菅谷さんの釈放を契機に、裁判の誤りや裁判所の検察寄りのこれまでの判断などを知ることができました。

日本では、検察が裁判に持ち込んだ99%が有罪になっているそうです。

この数字からすると、ひょっとして、ミャンマーやその他の民主的でないと思われている国々以上に、日本は国際的には「検察の意見素通り」の国家なのかもしれません。

本当に司法が機能しているのだろうか、と不安に感じました。

日本は民主主義国家になったように思われていますが、政治の問題だけでなく、司法についても、形骸化、硬直化していないだろうか、と考えさせられました。

私たちは日常生活を送りながら、社会生活を行っています。

そして「不正義」や「不平等」といったものを感じると、心が反応を起こします。

腹が立ちます。怒りを覚えます。変えたいと思います。

しかし、一般に、日本人は日本社会への適応する力が非常に強く、その反応を抑えてしまうようになっていないでしょうか? すなわち非常に我慢強く環境に適応する、ということです。

たとえば、鼻水が出たら、すぐに薬を飲んでその反応を抑えるように、感じても、その反応を抑え、議論をせず、改善することもせず、時折、「・・・が悪いのではない、悪いのは社会だ」(某コマーシャル)というような、怒りの対象を薄めるような生き方をしていないでしょうか?

平和な国になったわけですから、平和的に意見をしっかりと出したり、議論したり、検討したり、手分けして改善したりすべきではないかと私は考えます。怒らなくても、喧嘩をしなくてもいいので、改善すべきだし、改善するための問題点を整理して、議論して、段取りをつけていくべきではないか、と考えるのです。

もちろん、先日の選挙のように、じっと黙っていても、淡々と野党へ投票するようなことも起こってきているので、変わってきたのかもしれません。

今回の記事「消しゴム万引懲役2年実刑判決」について、単にバランスを欠いた判決があったということだけを言いたいのではありません。せっかく市民が参加する裁判を行う時代に入るわけです。市民が社会に意見を言い、社会の仕組みを考え、社会を変えていくステップ、仕組み作りを考える時代にしたいものです。

300万人以上の死者を出し、領土・財産を失い、国土を焦土と化し、戦争終結すら政府の手で行えず、国際的な信用も国家の名誉も失った先の戦争について、国家としてとくに国民に対して総括をせず謝罪も行わないことを思い出すと、私自身、不正義や不平等、バランス感覚の欠如などについて言う言葉すら失いそうになってしまうことも事実なのですが。

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教育にたずさわる方から、「国語力・英語力」というのタイトルのメールをいただきました。

そのメールの中で英語に限らず、日本語についても、学力の低下の実態と問題点のご指摘をいただきました。

半分冗談でしょうが、「日本語についてもききまね教材が必要かも」、というほどの国語力低下を嘆かれていました。

このお話とも関連して、少し持論をブログの記事としてお伝えしたいと思います。

ききまね英語という教材を開発して販売を行っていますが、その意味・意義として2つあるのではないか、と考えています。

1つは、お母さんから絵本を読んでもらうような、自然に言葉を学ぶ方式を採用し、日本語抜き、英文字抜きの方式にすることで、自然に音声として学びつつ、自然に話せるきっかけづくりをやろうという、メソッド(やりかた)とコンテンツを提供していることです。これはデジタルの技術の進展の恩恵を受けています。

もう1つは、いろんな事象の説明ができるように、「英語」という枠を広げる、ということです。

単純に言うと、「四則演算を英語で読めるようにすらせず、難しい随筆や時事問題の大学入試を行っている現状」に対する改善提案です。

小学校1年の算数くらい、日本の大学生には読めてほしい、という願いです。

そうでないと、かりに英文は類推しながら、辞書を引きながら読めても、また、Webであらかた調べたり、ダウンロードすることはできても、きっちりとスピーチしたり、手紙を書いたり、交渉したり、研究発表したり、という情報発信の伝達スキルが不足し、力が劣ってしまうからなのです。

私自身、日本の英語教育を受けて、大学を卒業していながら、「四角形」という単語の英訳(rectangle)すら知らずに物理・数学を教える教師としてアフリカに派遣されました。

うそのような話ですが、まさにこのギャップ、アンバランスに苦しんだ当人なのです。算数や理科にかかわる基礎の基礎の英語欠落が身にしみました。中学、高校で教えておいてほしかったと思いました。

将来、世界で活躍する若者たちには、同じ経験をしてほしくないのです。

私は、このアンバランスは英語教育の大きな問題だと思っていますが、そう考えられない方もいらっしゃるでしょう。

英語は英語、理科は理科、数学は数学と。でも、垣根が高すぎないでしょうか? 同時に教える必要はないと思いますが、数年程度離してでも学べたらと思います。

問題を発見したり、課題を見つけた時、それを広く知らしめて(アピールして)、「いっしょに解決しよう」と声を上げることは日本では行われにくいことです。広く知られたことであっても、通常、サイレントマリティー(沈黙している大勢)となっていることが多いのではないでしょうか(がまんしていることが多いと思います)。

日本には厳然と調和を尊ぶ文化があります。また、日本人はいい意味で、怒るべきシーンでも結構平静で、極端に走らず、甘んじて受け入れます。いわば寛容と中庸?の精神があり、激昂したりしません。これは世界的にはかなり特異であり、私はある意味、すばらしいことだと思っています。

しかし、逆に言うと、問題が発生しても、きっちりと、とことん突き詰めて考えたり、解決していく意欲を保持したり、進める点で、歴然と(一神教系・肉食系・動物家畜文化系といったリーダーシップ重視の)西欧と差を生じているのではないかと感じてしまいます。

決して、西欧文化が優越している、と言いたいのではありませんし、日本の良さを実感しています。しかし、論理的に話すことや、このような話をすると通常、うさんくさく思われたり、対応されるのが普通です(もちろん、興味がない場合も多いでしょうが・・・)。

西欧でも、もちろん、キリスト教が強すぎた中世の時代には、科学も芸術も主体性・創造性の点で抑圧を受けていた(自主性が抑えられていた)ようですが、ルネッサンスの開花や科学技術の発展をみればわかるように、潜在的には「知」や「美」や「理」などへの強い欲求が中世の時代にも厳然とあったため、急激に文化・文明が開化したのではないかと思います。

私たち日本人にも「美」の感性や「調和」についての深い文化があります。ジェームス・カーカップ氏のご意見「Quality of Life」もあります。そしてそれは、これまで作ってきたものを壊さず、維持する力として働いています。この基本がヒトの社会として絶対的に必要だと思いますし、何とか、終わらない紛争を続ける地域・民族の人々にも伝えたいと思います。

日本は、単に地理的に島国だったから長く国が続いているのではなく、「美」「調和」そして「我慢」と「適応」の文化も、長く国を栄えさせてきた理由なのではないでしょうか。

このような日本的な良さを維持しつつ、西欧的な合理性、そしてリーダーシップも活かせる、いわば「ハイブリッド」な方式が受け入れられていけばいいな、といつも私は考えています。

日本人がこれまで、さまざまなものを世界から取り込んできたように、ハイブリッド化が進められないものだろうか、と。

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2 + 3 = 5 は英語で?

2009 年 7 月 2 日

2 + 3 = 5

これは小学校低学年の算数です。

もし、「英語でどう読むか」と聞かれたら、日本人の大多数、おそらく100%近くの方は

Two plus three equal five.

と読むと思います。

東大に合格したばかりの人たちに聞いてみても、その比率はほとんど同じではないでしょうか。

でも、残念ながら答えは違います。

equal ではなく equals (動詞の三人称単数現在形)であれば正解です。しかし一般には「=」は「is equal to」と読みます。つまり、

Two plus three is equal to five.

が正解です。

どうしてこのような簡単なことができないのでしょうか?

教えられていないからです。そしてテストの設問にないからです。どうして設問しないのでしょうか? 算数だから?

このように、日本の英語教育では、どんなに難しい文章や、時事問題や、シェークスピアなどを英語で学んでいたとしても、小学校低学年の算数を英語で正しく読めない、という現実が存在しています。

日本の英語教育は読み書き中心、丸暗記中心であり、「英語を話せない」という問題が指摘されていますが、(論理記述などに必須な)基礎を学ばせず時事や文学などに傾斜している問題に気づきます。さらにまた、(入試などで)より基礎的な問題を設定して選抜を行おうという考え方が欠如している問題が浮かび上がってきます(難問で選抜しようとする方式です)。

もし、「それは算数であって英語ではない。英語教師は算数や理科を教える必要はない」という意見の方がいたとしたら、私にはもっとショックです。そうであれば英語という狭義の「教科」の設定をやめにしたらいいのではないか、とすら考えてしまいます。

いくつか類似の表現です。

等しくないは is not equal to です。
等価は is equivalent to です。
相似は is similar to です。
合同は is congruent to です。
平行は is parallel to です。

すべて be + 形容詞 + to という構造をしています。覚えるのはすごく簡単です。

3 m は three meter(メーター)ではなく three meters(ミーターズ)です。これも、日本の大学生に解かせたらどうなるでしょうか?

本来このようなことを学ぶべき中学校では、学ぶタイミングを失い、私たちは高校へ入学します。

正三角形は equilateral triangle です。
四角形は rectangle です。
直角は right angle です。

このような基礎的な言葉は、大学入試には出ません。出しません。しかし、日本の大学生の何パーセントの人が知っているでしょうか? 知る必要がない言葉でしょうか?

もし、このような単語を知らずに日本では大学へ進学できるということを、たとえばドイツ人に話したら、びっくりすることでしょう。信じてもらえないかも知れません。

知らなくていいのでしょうか? 学ばなくていいのでしょうか? では、どうしてこのような状態を放置するのでしょうか?

もし、文部科学省の方々は、このような状況であることの問題に気づいていないとしたら、もっと恐ろしいことです。気づかずして改善はできないからです。

私は入試問題の内容や試験の仕方が変われば、抜本的に改革できると考えています。言い換えると、入試でしっかりと(このように基礎的なことを理解した人を)選抜できないから、教育のひずみを直せないのだと考えています(高校で教える教師も学ぶ生徒も、ある意味、大学入試の制約がいっしょにかかっていて、大学入試問題から変革すべきだと思います)。

確かに英語はコミュニケーションの手段であり、情報を収集する手段でもあります。しかし、単にコミュニケーションあるいは伝達の手段というだけではなく、物事(論理や科学)を学んだり、認識したり、思考するための標準的なツールです。

英語を使って事象や概念を定義したり、説明できるということは、英語を使ってきちんとコミュニケーションできることにつながります。また、世界をまたにかけて学ぶことができたり、異なる人種や意見の人たちと協調できたり、交渉できたり、ビジネスできたりすることが可能になります。

したがって、英語という言葉を思考や論理を組み立てる道具としてく位置づけようとすると、「2 + 3 = 5」を正しく英語で話せないということは、非常に重大な問題と言わざるを得ないわけです。

小学校の英語授業が必須になり(2011年)、高校の英語の授業は原則英語で行われることになります(2013年)。

ネットで英語関連のニーズを調べると、とかくTOEICなどの選択問題テストでいかに高得点を取るかということや、「英語耳」とか「聞き流し」などがはやっています。点を取ることと楽をして受動的な能力を高めることが一般の関心事になっています。

しかし、国際的にまたがって能動的、主体的な行動をしようとすると(たとえば、スピーチする、論文を発表する、説得する、調停や和解を進めようとすると)、論理にかかわるような基礎的な(英語)表現は完全に使いこなせないと、非常に困ることになるのです。

私はそのような人材を日本から輩出するべきだし、そのために英語を学ぶべきだと思います。

ぜひ、今後、きっちりと基礎的な学力をつけるようにしたいものだと思いませんか?

少なくとも日本の大学生は「2 + 3 = 5」を英語で正しく読めるようになってほしいと。

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