親として、あるいは教師として教育にたずさわると、子供からエネルギーをもらえる、と言うものの、大量にエネルギーを消費してしまいます。

放っておくと集中しなかったり、遊びがちなのを、どうやって意欲的に取り組ませるか、悩んでしまいます。

そこで、陥りやすい甘い誘惑は・・・。

「遊んででばかりいると・・・ですよ」「こんど・・・だったら承知しませんよ」といった脅しを行うか、「・・・はできましたか」「おさらいはしましたか」と、確認を行うことはよくあることではないでしょうか?

あるいは、「今度のテストでは何点取りますか」など公約を求めることもあることでしょう。それを達成したらご褒美をあたえるかどうか、など、さまざまな手立てを講じることがあるかも知れません。

知らず知らずのうちに、脅しや管理手法を使います。受験勉強など、管理できなければ、成功はむずかしいものもあることは確かです。

このように、まず、発言内容を点検してみると、学習者との関わり方がしだいに見えてくるものです。

脅しや管理が教育の基本だとは誰しも思わないことでしょうが、では、どうすればいいのでしょうか? 

・・・

私は子供のころからピアノを学びました。

当時、男の子でピアノを習っているのも少なかったのですが、音楽を聴くことも、音楽を表現することも、とても楽しめることができ、機会を与えてくれた親を感謝しています。

中学生のころ、ピアノのリサイタルに参加しました。

演奏後、その有名なピアニストは、ピアノの学び方、教え方についてのお話をしてくださり、Q&Aの時間まで作ってくださいました。そこで、

「あなたの一番いい音を聞かせて」

と、そのピアニストは、初めてピアノを弾く子供(幼児)に求めるのだ、というお話をいただきました。

なんと、幼児でも、鍵盤に向かって、すてきな音を作ろうと一生懸命になるのだそうです。

私は、この方法が一番いい教育法だと思います。

ネガティブな発言もなければ、特段管理を強化しているのでも、ご褒美を約束しているのでもありません(もちろん、「ズバリ子供に成果を求めている」のは確かですが・・・)。

音と接する接し方を導く(センスも磨く)この方法は、「おさらいをしましたか」式の管理教育とまったく違うのがおわかりいただけるでしょうか?

実はこれは、目標指向(ゴールオリエンティド)の取り組みにも通じるものです。ビジネスでも、家庭でも、パブリックでも、プライベートでも役立つ方法なのです。

「学ぶ」ときには、学んだら得られるだろう状態についての感覚をしっかりと意識して持ちながら、学ぶべきだと考えています。

私たちは脅しや管理の力で、小さな大切な「センス」と「意欲」を決してつぶしてはなりません。

初めてピアノを弾く幼児でも、「いい音聞かせて」と求めれば、実はセンスを活性化して(音感を研ぎ澄まし)、意欲的に応えてくれる(一生懸命取り組む)という事実は、すばらしいことだと思いませんか?

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規則と中庸

2009 年 4 月 14 日

私が高校生だったころ、地域にいらっしゃった警官のお話です。

全国トップの検挙数を上げ、何度も表彰されていた、有名な方でした。

ただ、その検挙の仕方が特徴的、といいましょうか、特別でした。

草の茂みにひそみ、ヘルメットをしていないバイクを運転する高校生に職務質問をしたり、雨で満員になったバスを止めて、到着時間が遅くなることを心配する乗客をよそに、道路交通法違反の容疑で乗客数を「1・2・3」と数えていました。

このようなことを知り、初めて、定員以上の乗客を乗せるのは実は道路交通法違反であるのだ、と学びました。

その警部は、本人のご兄弟までも摘発されたことも言い伝えられていました。

検挙数で表彰する仕組みでは、当然、この警部のように「摘発」「検挙」をすることに集中する人が高いランクを得ることになります。

誰もが「やり過ぎ」だと感じるでしょう。

でも、そのやり過ぎを上司や警察という組織、あるいは社会全体がコントロールできないことを、悩むべき問題だと思うのです。

法律など規則には、明示されていない目的や精神がありますが、それらを考慮せず、「文言どおり」適用すると不都合や不便が生じる場合がほとんどです。

警察でも、消費者センターでも、非常に多くのクレームや情報が集まってきます。

通常、過去の判例などと照らして違法性が高いかどうか、被害がどの程度か、影響がどの程度大きいかなどを動的に判断しながら動いているようです。

もちろん、「何で取り締まってくれないのだ」と思うシーンに遭遇することもありますが、通常、影響や効果を考慮しながら、平等の原則や法律を合わせて考慮して、当局は動いている、あるいは動かそうとしている、と考えることができるでしょう。

孔子の言行を記した「論語」を読むと、今から2500年前という大昔に、規則だけで社会をコントロールしようとする考えを批判されています。

当時すでに、自然を尊ぶ「道教」の思想も、また、規則で社会をコントロールする思想もあり、それらについて、さまざまな場面で考えを述べています。

孔子の発言から「厳密な適用をしようとすると極論となったり、しっかりと考えておかなければならない『中庸』を意識しないようになることが問題だ」と指摘しているように読み取れます。

周末期のこの混乱の時代に、どうしたら平和を保ち、社会を発展できるか、について問い続けた孔子は、「仁」や「孝」など、伝えれば理解できる、感じることができる、人を思う「心」を中心に考えること、人との接し方「礼」を大切に考えて行動することを伝えています。

さてさて、この警部に「やり過ぎ」と伝えることはできます。

でも、全国トップの検挙率という名誉ある表彰を与えながら、「やり過ぎ」をたしなめることは案外むずかしいものです。

あなたは、そのような方に、何と伝えますか?

そもそも何も伝えませんか?

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求める人物像

2009 年 4 月 4 日

時代や社会が求める人物像はさまざまですし、変化もしていきます。

儒教的な見方、仏教的な見方、キリスト教やイスラム教的な見方などいろいろあることは確かです。でも、本質的に、個人なり社会の平安や幸福、あるいは発展に寄与する「ヒト」なり「仕組み」が求められているのではないでしょうか。

個人のリーダーシップを重要視するか、しないかで別れるのも確かです。

欧米、一神教的な世界ではリーダーシップが必要不可欠、絶対なものです。

それに対して、東洋的な世界(多神教あるいは無宗教)世界では、リーダーシップより和、あるいは適応などが重要になります。

とはいえ、時代の変革期には、日本でもリーダーシップを発揮した人たちが名を残し、業績を残し、尊敬を集めたことも事実です。

宮沢賢治の詩を思い出してみましょう。

・・・

雨にも負けず
風にも負けず
雪にも夏の暑さにも負けぬ
丈夫なからだをもち
慾はなく
決して怒らず
いつも静かに笑っている
一日に玄米四合と
味噌と少しの野菜を食べ
あらゆることを
自分を勘定に入れずに
よく見聞きし分かり
そして忘れず
野原の松の林の陰の
小さな萱ぶきの小屋にいて
東に病気の子供あれば
行って看病してやり
西に疲れた母あれば
行ってその稲の束を負い
南に死にそうな人あれば
行ってこわがらなくてもいいといい
北に喧嘩や訴訟があれば
つまらないからやめろといい
日照りの時は涙を流し
寒さの夏はおろおろ歩き
みんなにでくのぼーと呼ばれ
褒められもせず
苦にもされず
そういうものに
わたしは
なりたい

・・・

日本人にはしみじみとくる、本当にいい詩です。

背景に仏教的な思想があることも私たちに親しめる理由があるのだと思います。

ところが、現代は状況が変わってきました。

しみじみと想い、和をもって協調的に行動する時代から、知識を求められる時代へと入り、さらに先へと進んでいるように思われます。

私が考える人物像を1つのパラグラフで申し上げると、以下のような表現になります。

単に知識を持っているだけでなく、現状を把握して課題を見つけ、その解決のために方策を調べて熟慮検討し、知識や考えを共有しながら、問題を分担して解決していくことを進める人物、あるいは協調的に推進できる人物

もちろん、自分が大切にする「心」を否定する必要もありませんが、非リーダーシップ型社会(これまでの日本)の欠点は、上記のような人材を評価し、選抜する基準も、仕組みも、そして努力もない、ということが挙げられます。

ただし、私的な企業では、社員に対してこのような人材かどうかを評価する流れになってきていることは、多くの方がご存知でしょう。

でも、社員を採用する場合には、せいぜい、面接を行う程度です。その中で、やる気能力、そして周囲との協調性について主観的な評価を行います。

日本は効率重視の世界なので、悠長に人を選ぶこともやりません。やりませんが、 働いてもらいながら、実は選抜をおこなっているのが実情でないでしょうか。

はずれることも多々ありますが、やらないよりはやった方がいいので、どこも面接くらいは行います。

本来、容姿などに影響を受けやすいので、平等の観点で望ましいものではないのでしょうが、知識偏重になりがちなペーパーテストの欠点を補うために使われるわけです。

「人」が「人」を評価したり、選抜するというものが、私たちの社会では最も重要なことがらです。これについては、以前別の記事で書いたので述べませんが、ちゃんとした選抜基準ができ、ちゃんとした選考が行われるならば、意味のない選考や勉強もしなくてすむことは確かでしょうし、いい社会を建設するより具体的なステップを進めていくことができます。

なぜ、こんなお話をするかと申し上げますと、たとえば、いい公務員を採用しようとして(現在、民間とは違ってペーパーテストだけで選抜していることが多いのではないかと思いますが)、 人が人の何を見て、何を評価したらいいか、について真剣に考えて変革していかないとならない時代になってきていると思うからです。

天下りの問題がいろいろと議論されています。

でも、どのように適性を判断して公務員を選抜するべきか、などの議論を全くせず、「民間と違って天下りできるのはけしからん」だけで決定するようなことがおかしいと思うのです。

どのように選抜し、どのように評価し、どのように待遇を与えたか、一連のものを考えるべきではないでしょうか?

一時、文部省(日本の教育)が、問題点や対策をしっかり検討せずに「ゆとり教育」という方向へ走ったことがありますが、たとえば、もし東大の入試が「人格重視」に変わったとしたらどうなるでしょう。

「人格を磨く道場」とかはやるかも知れません。

マナー教室がはやるかも知れません。

ひょっとして、論語がもっと読まれるようになるかも知れません。

入試は大きく変わりますので、社会は大きく変わります。

実は、私たちの世界の問題は選抜の問題ではないかと、最近よく考えるようになりました。

どうしてかといいますと、この重大な選抜を、多くの人が「目標」にして毎日を送っているからなのです。選抜や試合にエネルギーを費やし、勝つことを誇りに思い、強いストレスをかけているからです(イチロー選手の潰瘍の話をニュースで聞きましたが、本当にかわいそうです。社会も本人もどれほどのストレスをかけたことか) 。

たとえば四択問題で選抜するから、四択問題で高得点を取る方法に熱中し、技を磨きことになります。つまり、最適解を求めるのです。そして、それで成功する人や組織が幅を利かせることになるのです。

たとえば、東大入試が「人格評価第一優先とする」としたらどうでしょうか?

「え、どのように人格を評価するの?」

と尋ねるでしょう。むずかしいのはわかっています。だからこそ、考えてみる価値がありませんか?

これまで、どうやったらいいか、考えていないことが問題なのです。だから解決へ進まないのです。

そのままにしておくと、出題側は、採点しやすく差をつけやすい問題しか出しません。

安定的な評点を付けられるものしか採用しません。

大切だと分かっていても、たとえば不平等が生まれる可能性がある場合、そのやり方は採用されませんから、点数評価だけの世界へと邁進するのです。

単に知識を持っているだけでなく、現状を把握して課題を見つけ、その解決のために方策を調べて熟慮検討し、知識や考えを共有しながら、問題を分担して解決していくことを進める人物、あるいは協調的に推進できる人物

という人物を採用しよう、と仮に考えたとします。そうであれば、それなりの選抜方法ができてきます。

・課題発見力
・調査力
・解決力
・伝達力
・協調的な進行管理力

それ知っている、という方もいるでしょう。最近は、会社はこのような力を社員に対して求めることが最近増えてきました。でも、残念ながら、入社試験段階では皆無でしょう。

そうそう、1つたまたま思い出しました。私が青年海外協力隊に志願した時の問題は「あなたが、遭遇した最大の困難を記述せよ、それをどう克服したかも記せ」でした。

こんな問題は上の目的に近いことは確かです。

私は、大学入試こそ、このような能力や努力を求め、評価する仕組みができないものかと思います。もちろん、公務員の採用も昇進にも。

その影響力たるもの、あまりに大きいからです。

もし、これらの力を求め、そして評価する仕組みさえあったなら、きっと起こらなかっただろう思う、社会保険庁の置き去り事件など、数限りなくあります。

食品偽装であれ、「社会的な問題」を解くカギは、社会が求める人材をどう定義するかにかかっていると思うのですが、いかがでしょうか?

とにかく、問題が起ころうと、起こりそうであろうと、それを予見し、対応し、伝達し、段取りし、皆と解決していく人材が一番必要なのではないのでしょうか?

現代の問題を解決するための1つの考え方です。

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筑波の科学万博で展示されたトマトの話をご存じでしょうか?

水耕栽培で、たった1株のトマトから1万2000個の果実を実らせた話です。

どのようにしてそんなすごいことができたのでしょうか?

それは、徹底してトマトの立場になり、何が成長、そして果実を実らせることを阻害しているかを探し出して、それを排除することで得られた成功なのです。

「しっかり土に根を張って」と私たちがいつも言うように、自然界では「太陽」と並び「土」こそが一番大切なもののように言われます。土は植物を育てる必須の要素だと思われています。

しかし、決してそうではないそうなのです。

実は、多くのバクテリアを含む土こそが、植物の成長を制約する一番の要因であることが分かったそうです。

植物たちは日々、土の中のバクテリアと戦い、疲れ果てているそうなのです。

だから、水耕栽培にし、たゆまず栄養溶液が流れる中でトマトをスクスク育てたら、たった1株から1万2000個の果実を実らせることに成功したのです。

この話をして下さったのは、私が勤めていた研究所群(複数の研究所の集まり)の中の1つの会社の社長でした。

「私の仕事は、皆さん(研究員)のじゃまをしないこと、のびのびと成果を出せる環境を整えることです」

と社長は言い切られました。

このように、命令や制約などを全く排した、いわば「完璧なまでに自由」の中であれば、とてつもない成長が可能だそうです。

社長の言葉を聞いて、うれしく思いましたが、もちろん、それをプレッシャーに感じる方もいるでしょう。

「完璧なまでに自由」とは、実は難しいものです。

(実は、苫米地英人氏らが財団を作り、進めている運動の思想は、この「完璧なまでに自由」の考えです)

もちろん、成長することを待てなかったり、一定量の成果を約束させたいがため、通常、私たちの社会では、(最低限保証や罰則などの)制約をかけますし、少なくとも精神的なストレスをかけていきます。

よく、「自由と義務は表裏だ」などと言います。

ところが、「完璧なまでに自由」な世界では、決して義務を課さないのです。それでは自由にはなりません。「自由との引き換え」といったケチな話では決してありません。

もちろん、結果をありのままに受け入れることは必要なことでありますが、「義務」を与えられているわけではありません!

普通、「そんなことできるのだろうか?」と思われるでしょう。

「最低限の成果の保証はないと」と言われるでしょう。

自分が会社の社長をしていても、自分に対してゴールを定め、最低限の想定をし、それをいつも考慮しながら事業展開するのが普通ではないでしょうか。

テレビや新聞など、マスコミ報道を見ていると、どのように感じられますか?

今回のWBCと北京五輪。同じ日本の野球に対するものです。

結果が違うから? ですか。

そんなに結果が大切ですか?

人には結果を求め、自分の結果にストレスをいだく社会を皆で営々と作っていると思いませんか?

大人しいはずの日本人。中国人や韓国人も同様ではありますが、すごく順位を大切にします。気にします。

英語教材を販売しようとマーケットを調べてみるとどれほど、「TOIC」「英検」・・・などを銘打ったものが多いのに驚かされます(TOICの得点など)。

ランキングが大好きです。勝つか負けるかをすごく気にします。(それはいいとしても)それをプレッシャーにします。

・・・いつも不思議なのはインド人です。どうもオリンピックも金メダルもまったく興味がない様子。すごく私はこの国民性が気になります・・・

さて、昨日の浅田真央ちゃんの試合の結果。

私は若い女の子に対してあまりにも酷なプレッシャーを与えていると思います。

私たちはマスコミを武器にして、アスリートたちに称賛か批難を与えます。天国か地獄を与えます。

浅田真央ちゃんが3位以内に入れない演技は大々的に「失敗」とされます。ブログを炎上させることを非難するメディア、一般紙も、社会から、よってたかって「どうして」「なぜ」と一斉にプレッシャーをかけます。

名誉毀損は罪になりますが、集団暴行に近い、このようにストレスをかけることはなんら問題ないことだと思われますか?

社会からだけでなく、本人からも相当なストレスをかけていることでしょう。

このような状態が一番生き物を伸び伸びと成長させない要因となります。

ストレスとは、アレルギーのように、自分自身が体内に向けて放つ毒素です。

体も、精神も疲れ、若さを次第に失うことになるでしょう。

そうでなくとも、年とともに、ウキウキするような気持ちやチャンスは少なくなり、逆に、いやなことなどが増えてくるものです。

決して、自分に対して追い詰めるようなことはやってはならないでしょう。

もちろん、他人に対してもマナーとして失敗したアスリートたちにプレッシャーをかけたりしないようにしたいものです。

伸びる芽を皆でむしり取っているようなものですから。

・・・私も若いころは、このストレスは「肥やし」だと思っていましたが、最近、考えが変わってきました。経験は必要だし役に立ちますが、何度もある必要はなく、そのストレスは自分自身を弱らせ、老化させ、酸化させる要因だと思うようになりました・・・

完全な自由など難しいことはわかっています。

でも、だからこそ、考えてみるべき、問うてみるべきことではないでしょうか。

最低限、もう少し社会のマナーは改善したいと思うのですが、いかがでしょうか?

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今日、ご紹介するお話は、何度か聞いたお話です。たまたままた、お聞きしたので、記事としてご紹介することにしました。

このお話は、病弱の娘様を亡くしたご夫婦が、亡くなって一周忌の日に、連れていくいことができなかったディスニーランドに、供養のために夫婦で訪れた時のお話です。

・・・

ガイドブックを見て、かわいいお子様ランチがあることを知りました。二人は、亡くなった娘さんにも楽しませてあげたいと思ってそのレストランへ行ったのですが、8歳以下の子供しか頼めない規則だったようです。

あきらめかけたとき、お店の人(ディスニーランドのキャスト)にオーダーできるかどうか尋ねてみたそうです。すると、

「三名様、こちらへどうぞ」

とご案内いただき、4人掛けのテーブルになんと子供用に高い椅子まで持ってきてくれ、

「本日はよく来てくださいました。どうぞご家族で楽しいでいってください」

と、まるで亡くなった娘さんがその場にいるかのようなもてなしをしてくれたそうです。

奥様も、ご主人さまも涙があふれる感動をいただいたそうです。

・・・

このディスニーランドの「お子様ランチ」お話は、いろいろな方から教えていただきました。

内容を知っていても、また涙が出てきてしまうのは、どうしてでしょうか?

接客の心がけの観点で伝えられることもあります。

また、「共感」の大切さを知るお話でもあると思います。

かけがいのない、大切な命を失ったご夫婦の思いももちろん伝わりますが、そのお気持ちを一人の従業員がその場で理解し、対応している様を想像することに、心が動かされてしまわないでしょうか。

私たち人類は、人の痛みも理解できます。

人の痛みが別の人に伝わることにも、感動してしまいます。

これは、きっと私たちの本性であり、この本性を大切にしたいものだと思います。

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人が人を選ぶこと

2009 年 3 月 1 日

人が人を選ぶこと。

選挙、結婚、就職、昇進、入試・・・。

私たちの社会の構成や私たち個人個人の人生を決定的にするシーンで、人が人を選んでいます。これがとりわけ重大な意味を持つ場面がとても多いです。

ときどき、「間違った」と思って解消したり、変更したりすることもありますが、なかなかやり直しができないことが多いのも事実です。

たとえば入試。

某私立高校の入試問題に、とても短時間で解けるような問題ではない、「え?」と思うような奇問がありました。大量に東大合格者を出している東京の私立高校です。

評価点をいかにばらつかせるか、という「評価の都合」と、合理的かつ効率的に点数を与える、という「採点の都合」とで問題が作られるからです。

きっと、過去に類似の問題が出されてあって、その問題の正当率が高い人たちの入試合格の割合が高かったのかも知れません。そのような難問、問題が再度形を変えて出されることがよくあります。

高校は、高校の評価点が高まるように(たとえば東大合格者数が最大になるように)、高校の入試問題を作成します。そして選抜します。結果的に、選抜者(高校)の評価を高くしてもらうために、合格者を決定します。

このようにして、1つの選抜のやり方やその内容が、高校の入試、中学の入試・・・などへと伝搬して伝えられます。

果たして、日本で必要な人材は、そのような問題を解ける人たちなのでしょうか?

さて、たとえば総理大臣。

1年程度でバトンタッチ。

何度でも、勝てそうにない総理・総裁であれば交代させればいいという論理が通用する理由は、現在の選び方(システム)によって定まっているからそのような繰り返しとなります。

もし、1度だけなら総辞職できるけれども、2度目は必ず解散しなければならない、と仕組みが変わったならば、選ばれ方が変わり、トップの人の要件すら変わり、選抜方法も変わらざるを得ないでしょう。

このようなシステム(仕組み)の欠点は、欠点が現れるまで見えません。

でも、欠点が見えても変更しようとしなければ、そのやり方で維持されていきます。

そして、変えませんし、変えるためにエネルギーを使うことをほとんどの人がしないのが日本の特質ではないでしょうか?。

「・・・では戦えない」という言葉も、本来は、政党の立場に立った発言であり、本来国民に向けて言ってはならない、ひんしゅくの発言でしょうが、それを日本国民は許す寛容さを持ち合わせています。

「これは選ぶ仕組みの問題」と騒ぐ人もいません。

真剣に、「選抜という仕組み自体に問題がある、だから・・・のように変えよう」という議論をしません。戦後できあがった、このようなにわか作りの政府・政権の作り方も、リーダーの選び方もまったく改善がなされないまま継続されます。

私たちは、人の問題や政党の問題ではなく、選ぶシステムの問題だとなぜ気づかないのでしょうか? あるいは気づいていて指摘しないのでしょうか? あるいは思っていること、指摘していることについて、力を合わせて変更しようとしないのでしょうか? (とくに、メディアは半分指摘しますが、世論の関心を引くことだけがテーマであり、良くしていくことに興味がないのではないか、と思われることも多くあります)

アメリカは、オバマ大統領を20099年に選ぶまで、2004年から数年がかりで時間をかけ、労力をかけてきました。

重大だから時間をかけています。

重要だからしっかり労力、エネルギーを費やします。

「選挙をしろ、選挙をしろ」の圧力がかかってきていますが、どう人が人を選ぶのか、そのことについて、真剣に考え、真剣に対策を立てているでしょうか? 世論形成、合意のプロセス作りについて、真剣に考えているのでしょうか?

にわかな選挙をし、にわかな体制をつくり、また同じことを繰り返す。

どうして、仕組みにタッチしないのでしょうか?

そのことを言い出したら大変だから、でしょう。そして、エネルギーを使いたくないから。

大切なものほど、しっかりと考慮し、しっかりと選び、しっかりと守っていく仕組みを作りたいと思いませんか? そして、そのことに対してエネルギーを使いたいと思いませんか?

そうしないと、「銭失い」であり「時間失い」になるだけだと私は思うのですが・・・。

いずれにしても、人を選ぶ問題は、非常に大切で奥が深い問題だと思います。

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石川遼君の名前を冠した雑誌

「月刊 石川遼」

の第一号が発行されたそうです。

アマゾンのサイト

その中で紹介されていることが、朝のニュースで紹介されていました。

石川遼君のお父さん、お母さんの教育方針が書かれているようです。

「人に好かれるように」というコンセプトがお父様の教育方針、あるいは彼を育てた1つの方針のようです。

これは、簡単そうでむずかしいことですね。

・人のためにつくしなさい。

・人に迷惑のならないようにしなさい。

だと、ちょっと硬いですし、どうしても半分嘘を含んでいるように感じることもあるでしょう。

でも、「人に好かれるように」はストレートでわかりやすく、いやみは少なく、それでいて実現はむずかしい。

目指すコンセプトとして非常にいいものの例だと思います。

お母様の教育コンセプトの方が、少し硬いようですが・・・。

でも、石川遼君は、実に、さわやかで感じのいい青年です。

もちろん、個人の資質が1番でしょうし、教育だけでは説明できないでしょう。

石川遼君もガッツポーズをしますが、不快感は決して与えません。

また、相撲のように、本来禁止されているスポーツと比べられないところだと思います。

今回の朝青龍関のガッツポーズの件で、剣道などでも厳しい採点になったり、負けたりすることを知りました。

規則面でも、従来型日本の武道では「有言実行」あるいは「力の誇示」はダメだったのですね。

嫌みなく、ストレートで表現できることはとてもいいと思いませんか?

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オバマ氏のシカゴでの勝利演説の冒頭部分の3点列挙法の3番目について解説します。

It’s the answer that led those who’ve been told for so long by so many to be cynical and fearful and doubtful about what we can achieve to put their hands on the arc of history and bend it once more toward the hope of a better day.

これらの答えのおかげで、あまりに長い間、あまりに多くの人々から、できることでありながら(それをせずに)、冷めた目で(シニカルに)見たり、不安感を持って、あるいは懐疑的にながめるようなものだった「歴史の弧(アーク)」をぐいっと曲げて、良い日の希望へと向けることができたのです。

少し、むずかしい表現です。

しかし、ここで、明確に「希望」を語っています。また、因果(原因と結果)を説明しています。

「長蛇の列を作った人々」(1番目)が答えであり、「さまざまな属性の『合衆国』の構成員たちの実行」(2番目)が答えであり、それらの答えの存在自体が、歴史を正しい方向へと正した(3番目)、とつないでいきます。

1、2、そして3へと因果を説明しながら、音(発声)では、

It’s the answer … を3連発しています。

そして、冷めた見方や不安感や疑念を打ち払ったのは合衆国国民だと断言しています。

この表現の存在のおかげで、後で「your victory」という言葉が出てきたときに、まったく違和感を生じません。そして、結論的な表現である「Yes, we can.」へとつながっていきます。

深い構成です。熟考して作り上げた「詩」です。

・・・

さて、「詩」そして「3番」とくれば歌の話を思い出しました。

歌を歌うときなど、気づかれたことはありますか?

1番、2番、そして3番まであるのが普通です。

その中で、ふつう、3番の歌詞が一番大切です。

極論をすると、3番の詩を印象的に伝えるために、1番と2番がある、と言ってもいいかも知れません。特に演歌は。

たとえば、古賀政男・美空ひばりの「悲しい酒」の3番。

詩の内容を思い出されますか?

あの、どうしようもないつらさ、悲しさを伝えるために、この詩が作られています。3番を伝えるために、イントロがあり、1番があり、2番があるのです。

・・・

3点列挙法を見事に駆使するバラク・フセイン・オバマ氏は今日20日、大統領に就任します。

就任の式典は日本時間の明日未明ですが、アメリカだけでなく世界中を引き付けるものがあります。

イントロだけでなく、すばらしい1番、2番、そして3番を演奏してほしいと思います。

振り返って、日本の事情はどうでしょうか?

「あなたとは違うんです」と言って辞めた前首相。

「言明できない」とか「いかがなものか」、あるいは「悪いのはそちらのほうなのを忘れないでほしい」と質問者へ返す現首相の答弁。

何が問題なのでしょうか。

人の「共感」を得て、人の「同意」を得て、「希望」を持って政治を行わなければならない、それによって、初めて成功する、という認識が欠如していないでしょうか。

まず、痛みが分かる(共感できる)必要があります。

これがエンパシー(共感)です。

そして希望です。

それらを共有しなければなりません。

オバマ氏は、リンカーンやキング牧師、ケネディーたちを引き合いに出すことで、心の中に存在する希望の振動を呼び起こしています。

批判にカチンときても、「あなたとは違うんです」とは決して言ってはいけないのです。

多くの人と仕事を行う場合、共感と希望を持っていることをしっかりと認識したうえで、課題に取り組まなければなりません。

まず、問題の所在をつかみます。取り組むべき課題をあげます。その課題をシェアします。課題や取り組む内容について情報を共有し、その上で仕事を分担します。さらに、時折、チェックをして評価をし、フィードバックをかけます。

オバマ氏は生きているアメリカ大統領を全員呼び出しました。そして、独立宣言を出したフィラデルフィアからワシントンに入りました。

「歴史的な事実」も共感・共有しうる財産として「再利用」しています。国民の共感を引き出す方策を知っているのです。

彼は政治家ですが、詩人であり、演出家でもあります。

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社会や問題ある状況を改善するためには、ちゃんと物事や状況を知り、その原因を考え、対策を考え、得られたことがらを共有し、協力して行動をしなければなりません。

たとえば、教員で性的な非行(いわゆる破廉恥行為)で処分を受けた人が年間180名(平成18年度文部科学省調べ)います。

個々の個別的なニュースは流れっぱなしなので、それを知ること、考えることも必要でしょう。

しかし、すぐに個別なことだ、と頭に置き去ってしまいます。

もし、本気でこの問題を解決したいと考えたとします。

何をしなければなりませんか?

どうすればいいですか?

簡単です。

知ること、考えること、行動することです。もちろん、その途中にデンタツが入ります。

どのような問題が発生していますか?

なぜこのような問題が起こったと考えますか?

どうしたら改善できると思いますか?

調べ、考え、行動すること、そしてその考えをまとめ、人に伝え、より客観化して現実性のある策へと変えていきます。

教員採用試験で、職員室の会合で、研究会でこのような話題が話されたことがありますか?

解決のために、必要性を認識し、改善しようとしましたか?

教壇に立っていた人間としてはずかしいです。

改善をしようとしないことがはずかしいです。

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「過ぎたるは及ばざるがごとし」

は論語の中で中庸について述べられた有名な表現です。

この表現が生まれたのは、弟子の子貢から

「師(弟子の1人、子張)と商(同じく子夏)のどちらが賢なのでしょうか。」

と尋ねられたときに、孔子が

「師は行き過ぎている。商は行き足りない。」

と答えたあと、さらに子貢から

「では、師の方がまさっているのでしょうか」

と尋ねられ

「行き過ぎるのは行き足りないのと同じだ」
(過ぎたるは及ばざるがごとし)

と答えたことに起源があります。

ここまでの話は、よく知られています。

しかし、師(子張)と商(子夏)とが、どのように行き過ぎたのか、行き足りないのかについての話は、あまり聞きません。

論語を読んでいて、以下の節でこの二人の主張を知り、また、その二人を「過ぎたるは及ばざるがごとし」と評した孔子の発言とともに、とても考えさせられましたので、ここにご紹介したいと思います。

これは、20編からなる論語の第19編「子張第十九」に書かれています。また、「過ぎたるは及ばざるがごとし」は第11編「先進第十一」に記述がありますので、離れたところに二人の意見の違いが書かれています。

師(子張)が、商(子夏)の門下の人に、人との交流について、商からどういう教えを受けているかについて質問したときのことです。

(子張)「子夏は何といったのか」

(子夏の門人)「ためになる人と交わり、ためにならない人とは交わるな、と言われました」

(子張)「それは私の学んだことと違っている。君子は賢者を尊ぶとともに衆人を包容し、善人を賞賛するとともに無能の人をあわれむ、と私は聞いている。自分がもし大賢であるなら、誰と交わろうと平気だし、自分がもし賢くなければ、こちらが相手を嫌う前に相手がこちらを嫌うだろう」

という対話がありました。

確かに、商(子夏)は人との交わりを限定的にしていて、反対に、師(子張)は広く考えています。

広い師(子張)の方がいいのではないか、と考えがちですが、孔子は、

「師は行き過ぎている。商は行き足りない。」

と述べているのです。

その詳細についての記述はありませんが、私には

「どんなに理想論を展開しようと、現実問題として対処できなければ、意味をなさない」

と言われているように感じます。

孔子の主張は、このように、単に理論家として概念や行動を規定しているのではなく、現実にどうすれば改善できるか、ということに立脚していることが伝わってきます。

もちろん、冷徹な現実論者という側面だけでなく、孔子の感情は、特に「仁」や「詩」、「楽」などについて述べている箇所を読むと人間的な暖かさや楽しみを愛する心が伝わってきます(そのことに関連するお話はまた、別の機会にお知らせすることとしたいと思います)。

ところで、師(子張)の考えのどこが行き過ぎているのでしょうか?

孔子はどうであれば中庸だと考えるのでしょうか?

現存する文献の量が少ないため、十分理解できないところがありますが、次の一節から、その考え方の一部がうかがえるのではないかと思います。

これは、「君子は和して同ぜず小人は同じて和せず」の話の次の節にあります。

(子貢)「その土地の皆にほめられるような人でございましたら立派な人といえましょうか」

(孔子)「必ずしもそうとはいえまい」

(子貢)「では、土地の皆に憎まれるような人がかえって立派な人でございましょうか」

(孔子)「そうとはいえまい。土地の善人にほめられ、悪人に憎まれるような人が、一番立派な人なのだ」

この節の解釈については、異論もいろいろとあるようです。

しかし、「唯一絶対」的な考え方、あるいは「盲従」に対する警鐘を与えているのではないかと私は考えています。中庸とともに、非常に味わい深い話ではないでしょうか。

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論語に以下の表現があります。

「知之者不如好之者 好之者不如楽之者」
(単に)知る者より、好む者の方がいい。
(しかし)好む者より、楽しむ者の方がいい。

※「不如」は文字通り訳せば「~のようにない/とは違う」

知る、好む、楽しむ対象は、「真理」(英語ではthe truth)というのが一般的な解釈のようです。つまり、

真理を知る者より、真理を好む者の方がいい。
真理を好む者より、真理を楽しむ者の方がいい。

このような解釈もあれば、また、

知識があることを見せびらかすより、好きな思いを持っている方がいい。
好きな思いを持っているだけより、そのことを楽しんでいる方がいい。

と、柔らかな解釈できてしまいます。のびやかなフレーズではないでしょうか。

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放送業界の不振

2008 年 12 月 30 日

放送業界(民放各局)は、その収入源が広告にあるため、景気の影響を受けやすいという特徴があります。現在の不景気の状況で、目に見えない、あるいは明確な成果を与えていることが疑わしいCMへの支出が、急激に抑えられてきています。

最近出された地上波民放各局の中間決算は惨憺たるものでした。

日テレは半期ベースで37年ぶりに赤字転落し、テレビ東京も初めて赤字の中間決算となりました。視聴率最大のフジテレビは、制作費を60億円圧縮し、通販で黒字を維持したものの前年同期より46%も減益となっています。また、一番傷が浅いとされるTBSでも32%減益という状況ですが、これも放送外収益(赤坂サカス)に下支えされたものです。

このような状況を知ると、「テレビ局の倒産もある」という意見も、あながち嘘ではないかも知れない、と思わざるを得ません。

短期的な経済の影響だけでなく、若者のメディア離れが進んでいることも報告されています。

あるいはまた、民放各局も、タレントを集めただけという、内容の浅い番組制作に集中してきたため、質の低下を起こしてきていることも指摘されています。

つまり、参加するタレントの数を増やして視聴率を増加させようとする、「思考も制作も欠落した、タレント依存の短絡的な方法」が破綻してきている、という意見です。

「最近、テレビ局で出るお弁当の中身が悪くなった」

と番組で発言しているタレントがいました。身近な話題に、注目を集めようとしているのかも知れませんが、周囲の一般社会はそれどころではないのです。

スポンサーのトップであるトヨタ自動車の奥田碩相談役が、首相官邸の懇談会の席上、厚労省批判に偏る放送内容についての不満から「マスコミに対して報復でもしてやろうかと。 スポンサー引くとか」との発言も流れてきます。

これまで順風満帆だったテレビ業界の人たちが、初めて「不況」を実感しはじめているのではないでしょうか。

テレビ業界は、金融業界と並んで、サラリーマンの収入が群を抜いて高い業界です。

両者に共通するのは、生産をしたり、流通などの実業の企業から収益を得てきたことです。

これまで、実際の価値以上に価値が与えられていたところからは、お金が急速に流出していく可能性があります。すぐに対処しなければなりません!

「大丈夫」と高をくくっているところから浸水は始まるでしょう。

困難な事態になってきているときにすべきことは、何でしょうか?

(1)的確に状況を把握する
(2)原因を洗い出す
(3)対策を講じる
(4)1~3を伝達し、認識を共有することで協力体制を作り上げる

当たり前のことを、きっちりをやっていく以外にないでしょう。また、隠し立てせず、ちゃんと横の連絡を行うことだと思います。

社会的な単位(官庁、業界、会社、地域)のそれぞれが、きっちりと

「状況は・・・です。原因は・・・と考えられる。対策として・・・を行いたい」

と調査・熟考・検討を行い、的確に伝達することで、事態の状況認識を共有し、協力をしていくことだけが、唯一、最大の方法ではないでしょうか。

これは、災害が起こったときと同じですね!

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夢やビジョンを実現したいと思うのは、当然のことです。

でも、「夢はなかなか実現できないものだから、やぶれるのがいや。だから、夢はみない」という方もいらっしゃるかも知れません。

今は、負の連鎖のように、悪いニュースばかりです。

このときとばかりに、悲観的な意見やネガティブな発言にも注目が集まります。調子がいいときには、あまり注目を集めなかった意見にも、関心が寄せられるときでもあります(いやだから、目を向けな人もいます)。

しかし、残念なるかな、少し良くなると、パタっと態度を変えるのが、「喉元過ぎて熱さ忘れる」ヒトの習性です。

つらい時につらい原因にしっかり向き合うことが必要です。

逆に、つらい時でも明るい夢を持ちづづけることも必要です。

つらい時に、原因に向き合わず、夢を失う行動をするとどうなるでしょうか?

一喜一憂。非常に不安定な動きを起こしてしまいます。

さて、「夢」を実現へと導く方法とはどういったものでしょうか。

ビジネスの場合、次のようなトップダウンの分解作業により夢を現実のものへと進めていきます。

夢→ビジョン→戦略→戦術

また、計画・実行・評価

PLAN→DO→SEE

を日々続けることです。

さらにまた、デンタツ(内外への情報・価値の伝達)を行うことも大切です。

関連資料(仕事の進め方ABC)

これらの枠組みの中で、最も大切なことは、「企画」または「設計」と呼ばれるものです。

ひょっとして「失敗したくないから、夢をみない」、「設計や計画立てはしない」という方もいらっしゃるかも知れません。

しかし、これはとても重要な作業です。ワクワクする気持ち(情熱)と冷徹な気持ちの両方をもって、企画・設計にのぞむのがいいです。

そうです。対立するように見える、2つが必要なのです。

あまりに事務的に仕事を行うことも、私は仕事を失敗させる原因になる可能性が高いと思います。もちろん、情熱だけでもうまくいかないことも多いでしょう。

管理主義だけでもダメ。情熱主義だけでもダメ。

人の心を動かすのは情熱です。しかし、人の知性を動かすのは成果や実績です。

夢やビジョンを実質的な設計図にする作業が、「企画」あるいは「設計」というものです。

事業やイベント、キャンペーンなどの企画も、建築物やソフトウェアなどの設計にも、共通するものがあります。

(1)コンセプト
(2)要件

この2つをもたなければなりません。

コンセプトとは、共通認識を意味しますが、広い意味では、企画のオリジナリティー(独自性)であり、この企画の存在意義です。

研究などの場合には、「目的」がそれに対応します。

次の要件とは、ゴールイメージの要素を描写することです。

たとえば、「結婚」というものを想像してみましょう。

結婚によって、どのような家庭を作るか、日常生活を送るか、といったものがコンセプトになります。これは、一般的な事象ではありますが、個人にとって「未婚」から「結婚」状態へと変わる場合、自分にとっての独自性、意義をとらえるべきでしょう。

要件とはどういったものでしょうか。

たとえば相手について。年齢、収入、性格、身体条件・・・。

私たちが、実際に夢を描くとき、実は、要件をひとつひとつ検討していないでしょうか?

式場、住居、仕事、分担・・・。

夢は思ったとおりにはなりません。でも、思わないことには実現できません。

どういうように思うか・・・。

それが、企画であり設計であるわけです。コンセプト作りをし、要件定義をするというのがその真髄です。

要件定義の中には、必須度を入れるのが通常です。

たとえば、年収800万円以上というのは必須ではなく、「できたら」程度である、とか。

夢がちゃんと描けていない、ということは、課題をちゃんと把握できていない、ということと同じくらい問題です。

夢をしっかり描くことを練習してみませんか?

情熱の心と冷徹な心の2つを同居させ、持ちづづけること。

そして、ゴールをイメージして、コンセプトをクリアにし、要件を定義すること。

たったそれだけです。

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なかなか書き出せなかったコンベンションの仕事の話題です。単に内容的に重いから、というのが理由です。

会議(政府系会議、学術会議)やセミナー・展示会など、業界ではコンベンションと呼んでいますが、そのようなコンベンションを企画・準備・運営する仕事があります。

プロデューサー、ディレクター、プランナー、あるいはコーディネーターと呼ばれる職種です。

仕事の内容、段取り、手配、そして管理の中身(仕事内容の管理、予算の管理、リスクの管理)から考えると、マスコミ、あるいは広告代理店の仕事にも似ています。

まず、参加してもらう人たちに会・イベントの意義や価値を伝え、参加してもらいます。単に広報・広告だけでなく、もちろん、人づての営業や、委員など立場を作ることで、動員などの役割を分担します。当日の運営は、ある意味、業務です。

私は、プロデューサー、事務局あるいは学術分野のディレクター、プランナーなどの仕事を数年間行いました。たくさんの企画書も書きました。

研究以外で、ビジネスらしいビジネスをやっていたのは、実はこの分野です。

その影響か、段取りを4つのステップで考えるくせがあります。つまり、以下の4つのフェーズです。

1)企画・・・プランニング(コンセプトとイベントの中身)
2)広報・・・Web、チラシ、関連団体など経由でのデンタツ
3)営業・・・参加者の動員と展示などコマーシャルアイテムの販売
4)業務・・・準備からの事務局業務と当日運営の業務

また、イベントの種類は、会議が中心ですが、以下の3通りの場合が多かったです。

A)政府系の会議・・・主催は日本の省庁が大多数(国連の会議でも省庁が担当)
B)学術系の会議・・・主催は学会または担当大学か病院などの施設
C)企業系の会議・・・主催は私企業(IT系、医薬系が多い)

Aでは、紛争や和平などの関わる事案もあります。大臣や政府高官が出席することもあり、またテロの標的になりやすい場合もあるので、警察や機動隊と連携することもあります。

Bの学術会議でも、皇室のご臨席をいただくこともあるので、運営のマニュアルの作成・検討は丁寧に行わなければなりません。

一番規模が大きいものでは、世界から数千人規模の参加者を受け入れ、皇太子殿下妃殿下のご臨席をいただき、記念切手を発行し、自民党本部で衆参議員20名くらい向けに進捗報告と対策の会議を開く、ということもありました。

この会議クラスになると予算も大きいので、会議の会計資料だけでダンボール何箱にもなり、終了後、公認会計士の検査を通すのも大変なものでした。

大きな学術会議になると、IOCのオリンピックやFIFAのワールドカップと同じく、国際組織委員会の力が強く、開催する日本の委員会と国際組織ならびにそのトップの会長らとの連携が、事務方である私たち運営事務局の大切な仕事です。円滑に準備を進めるため、ヨーロッパやアメリカでの打ち合わせ、準備作業などが何度も発生しました。

この学術会議は2002年だったので数名のトップ会議は電話会議(ヨーロッパ2か所と東京あるいは地方が加わることも)で行いましたが、後の世界銀行の会議の準備などは、テレビ電話を使って、(ヨーロッパ、ワシントン、東京などで)会議の準備のための会議を頻繁に開きました。

進捗報告、問題点の共有など、会議の目的と内容は日本人同士であれ、国際メンバーであれ違いはありません。

先ほど述べました数千人の会議を開催するためには、20ほどの委員会(財務、スポンサー、宿泊、学術プログラム、等々)が組織されました。それぞれが予算を持ち、準備をすすめるのですが、なんと、会議当日は、同時に35ものセッションが開かれるほどの大イベントです。

たしかに大きなイベントは大変ですが、ちいさなイベントでも、進め方や注意点などは、本質的には違いはありません。

会の進行をしっかりと管理する統括ディレクターの力量に成功のカギがあります。

ステージだけでなく、映像や音声、同時通訳、受付・・・と数限りない機能を分担するチームがいて、皆が協調的に仕事を進めます。

このような仕事をしてきた経験があるため、たとえば、テレビの放映中に大きな事件があったりして、番組の進行がうまくいかなくなったり、時間変更が起こったりする場面を見ると、私はディレクターや番組制作スタッフの側の気持ちになってしまい、どうしても見ていてドキドキ、ハラハラしてしまいます。

私たちはとかく、映像に出ている役者(俳優や女優)や司会者に目が行きますが、映像を撮っているカメラマン、音をとっている音響さん、カメラを切り替える人、その人に指示する映像ディレクター、美術面の効果に責任を持った人といった専門スタッフ、そしてパートパートのディレクターや全体を統括するディレクターたちがたくさんいて、有機的に動いていること、作品が作られていることを忘れがちです。

異なる仕事の人たちがバラバラにいながら協調することは、とても難しい仕事です。ですから、横に連絡をしながらやっていきます。あまり、横の連絡が多すぎたり、プロの専門の仕事に素人の横やりが入るのは問題ですが、プロ根性を刺激するメッセージは時にとても役立つこともあります。

主なスタッフはトランシーバを耳につけ、いろんな指示や状況報告が飛び交うのを聞いています。

コンベンションが始まる直前に緊張がピークに達します。

ある国連の会議の例です(厚労省と農水省が担当のWHOとFAOの合同部会でした)。

「ボンジュール、マダーム、ボンジュール、ムッシュー。ジュマペール・・・」

なんと、日本人の議長がフランス語で開会のメッセージを言い始めました。

「えー??? フランス語だ! どうしよう!」

でも、予定外の出来事に同時通訳がたじろいだのは1秒足らず。

すぐに、会はうまく進行していきました。

・・・

思い出すのも、心臓に悪い気がします。

このような場面の話を読んでいただいて、申し訳ないです。

でも、人は、実にいろいろな仕事を行いますね。

協調したり、リーダーシップを発揮したり。

うまく進めるために、コンセプトや企画書を作ったり、スケジュールや予算を立てたり、分担をしたり、仕事リストをチェックしたり・・・。

でも、一番大切なのは、全スタッフ(ポジションの人たち)が元気で、持てる力をすべて出せることだと思います。疲れてくると実力は全部出せません。

そして、しっかりと目標を見定めること。

責任をもつポジションを的確に定め、それぞれを尊重しながら、問題を発見した人が他へ横の連絡や要求をしたりします。

そこでは、情報だけでなく、評価(「すごい」「すばらしい」など)や感謝、気持ちを伝達したりしながら、仕事を分担して進めていきます。

そして、成果は皆で分け合います。

ちょうどハンターがハンティングをするように、農耕民がみなで収穫を楽しむように。

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背水の陣

2008 年 12 月 22 日

一生懸命
ひたすら
背水の陣

などは、日本人が好む表現ではないでしょうか。それとは反対に、策略のようなものは嫌われます。

「ひたすらがんばったけど、だめでした」でも、大方の日本人からは受け入れてくれます。

「ひたすらがんばった」ことが重要であり、「かわいそうに」と思ってもらえます。情緒という「共感」文化があるからです。

最近でこそ、「経営責任」という言葉が使われますし、政治家は「結果責任」をとるなどと言いますが、あまりしっかりした意味合いで認識されていないのではないでしょうか。

「ひたすら」な情緒は、ドライな欧米人には理解しにくいものの一つですが、日本人には結構分かりやすいと思います。

さて、この記事を書こうかどうしようか、今度も悩みました。

精神論に触れる部分は、タブーです。タブーに触れると想定以上、必要以上の反発を受けてしまうからです。

タイトルと、ここまでの説明を読んで、私が伝えたいことがピンとわかった方もいると思います。

「背水の陣」は、背中を水辺に向け、退路がなくなったかのように見せつつも、実は、別軍を回り込ませ、弱い背後から攻める戦法です。もちろん、背中を川に向けた兵隊には、退路がないので必死で戦うことを仕向けます。また、相手には「しめしめ」と思わせて油断させることになりますが、別軍を忍ばせて、攻めてきている軍の後方の弱い兵へ背後から襲いかかるのです。

この方法は、日本人的には嫌われる策略、卑怯な戦法ではないでしょうか? 是非についてはここでは論評しません。

この話をご存じなかった方もいらっしゃるでしょう。

でも、このような戦法であることを知っていて、あえて伝えないのか、知らずに

一歩も退くことのできない絶体絶命の立場。
失敗すれば再起はできないことを覚悟して
全力を尽して事に当ること。「背水の陣を敷く」(広辞苑)

という語義を作り、育て、伝えているのでしょうか?

《参考》 Yahoo!の知恵袋

きっと「この話はするな」とおっしゃる声があるのではないかと思います。あまり感心する話ではないからです。

日本では、親心として、あまり苦労は子どもには知らせないようにします。汚いものは見せないようにします。親ではなく、教師であっても同じです。

戦々恐々とした状況や気分を伝えたり、人を欺くようなことを考えることは、教育的な配慮からしたくないことです。

でも、本当に悲惨なことや事実を伝えるためには、隠さない勇気も時に必要だと思います。(飛行機のパイロットなど)冷静な分析力を持つことも大切です。

そして、社会へ飛び出るときまで、年齢ととも、苦労や現実世界について知る割合は高めていかなければならないと思います。

しかし、日本では、社会に出るまで、親も、教育機関を含む社会も、ほとんどそのようなことは行いません。

サバイバルの心構えを教えられたこともなければ、親も教師も、自らそのようなことは伝えたくないのです。

本来は、この社会性に関する教育は、男性(父親)が果たさなければならない大切な仕事ではないでしょうか?

さまざまな困難にぶつかり、それを理解し、対処していく。

いろんな教科を通して子供を教育しているようでいて、また、過去の歴史や過去から得られた叡智を教えているようでいて、実は、それ以上に、どのように困難に対処していくかの底力をつけることが、一番必要で大切なことだと思っています。

私が青年海外協力隊に応募したとき(1980年の夏)の試験問題を今でも覚えています。

「あたたがいままで遭遇した一番の困難について記しなさい。そして、それをどう克服してきたかについても」

はじめてこのような試験問題を見ました。問題解決能力と表現力を求める、いい問題だと思いました。

日本の今の教育システムでは、社会に出るまで社会の荒波をしっかりとガードしてあげて、社会に出る瞬間に「社会人になってね」とポンと突き放していないでしょうか。

内定取り消し問題についても、従業員カットの問題についても、社会はもっと真剣に考え、対処しなければなりませんが、むずかしいことは考えない、議論しない、対処しない、あるいは言いっぱなし。情緒的なものは感じる、わかるということでは、どうにも対処できなくなってしまいます。

さて、オバマさんは、「共感」を伝え、「変化」を約束する方法でデンタツを進めてきました。

私たちは彼の改革に期待しています。でも、彼は言いました「It is your victory」。

彼は、ケネディーが言った言葉と同じ内容を伝えてくることでしょう。つまり、「国家に求めず自分に求めよ」「変えるのはあなただ」と。そのときに、そのとおりだと思う人と、期待はずれだったと思う人の2通りに分かれるかも知れません。

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創造性と生産性

2008 年 12 月 21 日

ものごとの本質を考えたり、抜本的な改善を考えたりするときには、たいてい、対立する考えの両方を同時に扱わなければらないことに遭遇します。

たとえば、「創造性」と「生産性」。

生産性を高めようとすると、効率重視の考え方になります。

悩まないことが大切です。

悩むのは、フィードバックといって、結果が原因に作用を与えてしまうので、デッドロックといって、動きをストップさせることになります。

体験的にわかるように、「イケイケ」でやっているときに、「ちょっと・・・」という人がいると、ブレーキがかかってしまいます。

個人の思考でも同じことが言えます。

悩まなければならないときに悩まず、悩まなくていいときに悩んだりすると、スムーズにものごとを進めることができなくなってしまいます。

そうです。暴走したりデッドロックを起こしたりしてしまいます。

どうすればいいのでしょうか?

ものごとへの取り組みには3つの進め方が必要ではないかと思います。

つまり、1つは緻密で、しっかりフィードバックをかけて、念入りに考える姿勢。創造性に通じるものです。

もう1つは、その逆に、悩むことを全く排除して、行動を突き進める姿勢。生産性に通じるものです。

いずれだけでもだめだと思います。

それを客観的に眺める姿勢。

そうですね、傍観者のような達観した立場が必要です。

たとえば、創造性とか熟慮のようなものを「左」として、生産性とか効率のようなものを「右」とした場合に、今、右に傾きすぎているときには、「生産性さん、ちょっとヒートアップ気味だから、力を緩めて」と伝えて、「左」に重心を置いてみたりするコントロールが必要だと思います。

このコントロールの位置をとりあえず、「上」と呼びましょう。

あらかじめ、計画により、フェーズ立てをしておいて、その左右のウエートを変えていくようなことも戦略的には有効な方法です。

そうすることにより、「上」(管理、コントロール)の仕事量を少なくすることができます。

人間は、残念ながら、たいていどちらかに偏っているのが一般的だと思います。

沈思黙考型の人、考えるより行動する方が得意の人、自分はやらないが、傍観したり、批評したりするのが得意な人。

一番いいのは、一見バラバラに見えて、実は協力や調整ができているような動きだと思います。

つまり、どうしたらうまくいくか悩んでくれている人がいて、明るく元気に手や体を動かす人がいて、その両者にも「お疲れさま!もうお休みなさい」と声をかけてくれるような。

そして、お互いがお互いのメリットとデメリットを知り、お互いを尊重できるような社会が理想でしょう。

でも、お互いを知るためにも、私は、左も、右も、上も、すべて多少は分担すべきではないかと思います。

西欧の合理主義では、基本的にはYESかNOかの二分法が基本になります。

その対立の力関係を解くことが問題解決であるとの認識をもちます。

ニュートン力学でも、二体問題は解けるのですが、三体問題になったとたんに(条件を定めない限り)解けなくなってしまいます。

個人の問題も、日本の問題も、そして世界経済の問題も、この3つの立場をちゃんと定め、理解し、協調させていくことにより、改善できていくのではないかと思います。

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湯川秀樹博士が幼少のころ、正座をしておじい様から教えを受けた「論語」は、今から2500年以上前に、人々が書き記したものです。

「論語」とは、孔子が亡くなってから、「どう言った、どうだった」などと思い出しながら、弟子たちが激論の末にまとめたものだそうです。だから「論」「語」だそうです。

もちろん、孔子の教えも、論語もすばらしいのですが、実は、一番私が言いたいのは、少しポイントがずれたものです。

つまり、2500年前、すでに、このような教えとか考えを大切なものだと考えた人たちがいた、という事実なのです。

2500年前、仁とか礼とかの話をしてわかる弟子たち、人々がいたことが、考えるべきこと、学ぶべきことだと思っています。

孔子が出現したから「仁」という概念が出てきたのでしょうか? 孔子の教えを聞いたから「礼」が大切になったのでしょうか?

そんなことは決してないと思います。

書名は覚えていないのですが、太古の昔、日本がまだ日本でなかったころ(おそらく魏志倭人伝より古かったと思いますが)、日本のことを記述した中国の書籍があって、「日本人たちが、道端で、貴い人の周囲でしきりに拍手をしている」という記述がありました。とてもリアルに感じました。道端の日本人たちは貴い人へ感謝か感激を伝えていたのでしょう。非常にあたたかな交流の場を想像できます。

2500年前の日本はいつの時代でしょうか?

なんと、神武天皇より、天照大神(最近、「あまてらすおおみかみ」がヒミコのことだ、という説がかなり有力になりつつあります)よりも数百年も前のことです!

子供のころ、縄文土器や竪穴式住居などをみて、非常に未開な時代だったという印象をもっていましたが、ちょっと状況は違ったかも知れません。

何十万年も前のネアンデルタール人の骨が出てきたとき、その周囲に、大量の花粉が出てきて「これはたくさんの花で埋葬された後だ」との説明を聞いたときに、非常に強いショックを受けた覚えがあります。彼らの悲しみも死者への愛情も伝わってきました。

孔子に指摘されて「仁義礼智信」が生まれたわけではありません。周囲の人が初めて知ったわけではありません。その言葉を言われて理解できる、弟子たち、人たちがいたという事実が分かります。

ただ、よく分からなかったり、ちゃんと整理できていないから、このような教えを乞うわけです。知ろうとするということは、半分分かっていることであり、知りたいという欲求があるという証しです。

民主主義も、ギリシャ、ローマの時代からありました。

教会絶対の中世を経て、芸術などが復興しました。そして生命のエネルギー(本性)を表現することが容認されるようになりましたが、古代ローマ遺跡で最近見つかるすばらしい芸術作品をみるにつけ、なぜ、この時代のことをルネサンス(文芸復興)と呼んだのか分かりました。私には、ローマ時代とルネサンスとの区別すら、むずかしいぐらい、すばらしい作品群でした。

さて、私がアフリカにいたとき、アフリカの人々から、「礼」も「智」も「信」も感じました。

(日本人はほとんどしないですが)韓国の人であれば、人にものを渡すとき、必ず片手ではなく、もう一つの手を添えて渡すでしょう。マラウイの人も全く同じ仕草をします。

私がアフリカの職員室に一人でいたとき、「職員室の中に入ってよいでしょうか。実は、・・・先生からチョークを取りに行くように言われたので来ました」と説明にひざまずいて尋ねた少年たちは、このような行動をキリスト教で教えられたのでも、仏教で教えられたのでも、儒教で教えられたのでもありません。もちろん、親から教えられたのかも知れませんし、見て聞いて覚えたかも知れません。しかし、理解し、実践するための素地である「心」を持っていたことは確かです。

よく、敬いや思いやりは、何らかの思想とか教育とかが必要だとされていますが、本性として持っている部分がかなりあるように思います。生まれながら持っているのか、育つ中ではぐくまれるのか、おそらくその両方でしょう。この調和と繁栄のための基礎を持っているのです。少なくとも2500年以上前の中国ではそうでしたし、4大文明のような大きな社会システムがあったこと自体、思いやりや尊敬などの基盤があったことを示唆していないでしょうか。

たとえば「十戒」ができたため、初めて人を治める概念ができたわけでも、それを人々が知ったわけでもないでしょう。

メッセージは、受け取る側に、分かる素地、受け取るニーズ、気持がないことには、決して伝わりません。

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儒教の五常と呼ばれる「仁義礼智信」について、戦国の武将、伊達政宗がコメントを与えた壁書(へきしょ:家法のようなもので壁に掲げたもの)をご紹介します。

仁に過ぎれば弱くなる。

義に過ぎれば固くなる。

礼に過ぎれば諂(へつら)いとなる。

智に過ぎれば嘘をつく。

信に過ぎれば損をする。

じっくり読むと、「あ、そうか」とも思われますし、「ちょっと待って!これは儒教への批判?」ともとれるでしょう。私は、この両面を狙ったのではないかと思っています。中庸の大切さを伝えているというのが一般的な考え方ですが、私はつい、

過ぎれば弱くなるようなものは、本当に「仁」だろうか

過ぎれば硬くなるようなものは、本当に「義」だろうか

へつらうようなものは、本当に「礼」だろうか

嘘をつくものは、本当に「智」だろうか

損をすることになるのは、本当に「信」だろうか

と思ってしまいます。しかしおそらく、そのような反応を起こさせることすら、私は伊達政宗の流儀のような気がします。また、「仁義礼智信」を絶対的にみようとする、自分の心に対して伝えられる「警鐘」にも感じられます。

彼は、文武両方、そして戦略に秀でた人です。熟慮しないこと、テキトーがいいといっているのではないと考えたいと思っています。(しかし、テキトーを推奨する響きすらも感じませんか?)

きっと「仁義礼智信」について、よくわからない、考えてこなかった人に対しては、伊達政宗の壁書により、「仁義礼智信」の概念はは非常にわかりやすくなるかも知れません。また、行動するより考えることが好きな人には、この言葉が行動せよとの促しになるかも知れません。その意味で、いろいろな効果をねらった表現だと考えることができるのではないでしょうか。

もし、勉強している時、誰かから

「勉強ばっかりしてると頭が固くなるぞ!」

と言われたとして、どのように受け止めたらいいのか、どう反応したらいいのか、とっさには迷ってしまいますね。

「バランス!バランス!」という伊達政宗の声が聞こえるようです。

中庸は、いつも意識していたいと思います。

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仁、礼、忠、孝

2008 年 12 月 3 日

孔子は君主から臣下に対して「礼」を心がけるようにと、また臣下から君主に対して「忠」を心がけるようにと言われました。また、周知のことですが、とくに親など尊敬すべき親族などへの「孝」を心がけるようにも言われています。

もちろん、論語の中で一番大切な概念は「仁」です。「仁」とは何か、「仁」を持った人とはどういう人か、どう心がけるべきかが中心課題だとしてもいいと思います。また、「徳」という概念がありますが、「仁」も「徳」のひとつとされ、さまざまレベルの心の格のようなものをそう呼んでいるように感じます。

これら、「仁」「礼」「忠」「孝」の違いはなんでしょうか?
あるいは、共通点はあるのでしょうか?

ここで考えられたと思います。定義をやってみようとしませんでしたか?

見たこともない、触ったこともない概念について、いろいろと思いをめぐらしたり、定義を試みたり、例をあげて考えたりできることは、とてもすばらしいことです。

私は、一般的な西欧の見方とは異なり、人以外の動物にも感情があると思っています。「笑顔」は人間だけのものだ、と言われていますが、動物を飼った人は動物たちが喜んでいるさまを知っていることでしょう。体の動きを見れば明らかです。また、きっとみずみずしく元気な、うれしそうな植物のさまも感じることができるでしょう。

ただし、おそらく人以外の生き物は、「仁」「礼」「忠」「孝」の違いを考えたりはしないと思います。

なぜ、私たちはこのような能力を持ったのでしょうか。

理由はどうであれ、せっかくこのような能力を持ったのですから、生きている間、抽象思考能力を存分に活用したいと思います。

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フレームワーク力

2008 年 12 月 2 日

今、ベストセラー作家であり売れっ子の勝間和代さん(経済評論家・公認会計士)の「効率が10倍アップする新・知的生産術」(ダイヤモンド社)にも出てくる話です。

彼女が「勝間流1%の本質を見分ける6つの技術」の第1番目にあるのが “「フレームワーク力」をつける” です。

これは、「7つの習慣」とか「3つの法則」のように、箇条書きになるようなポイントを整理して、説明する、すなわち「枠組み=フレームワーク」を作る方法です。

私たちは普段、「フレームワーク」と意識せずに、このよなうものを多く使っていないでしょうか。

できれば、フレームワークは、頭文字をそろえてCCCとか、ABCとか、こじつけてでも覚えやすくしたほうがいいです。

仕事の心がけABCも、実は、かなりごちゃごちゃした仕事をしていたときに、(私が部下への説明のために)必死に整理したものです。

Aはアクティブということで、ある意味メンタルなものです。

本当は夢とか希望とか、そういうものにしたかったのですが、説明しずらいので「能動姿勢」にしています。でも、一番大切なものは、モーティベーションであり、それがなければ物も人もお金も動かないと想像できます。

一方、仕事をするときには、ちゃんと管理することが大切です。しかし、下手をすると、管理ばかりに目がいってしまい、肝心のマインドが欠如したり、非効率になってしまいます。でも、管理はビジネスの観点ではとても大切なものです。

そして、これら2つの安定剤として、3番目のコミュニケーションが重要になってきます。

実はこれに類似する話は、以前のブログでも書いたのですが、読まれた方は気付かれているのではないでしょうか。

「失敗する3つの要因」

  1. ゴールイメージが不明確
  2. チェックが不十分
  3. 伝達が不十分

の話をしました。また、そこでさらに「成功へ導く3大要因」として

  1. しっかりとゴールイメージを描き、さまざまな場面を想定すること・・・Conceive
  2. 各ステップや状況を適宜点検しその対処をすること・・・Check
  3. 必要な情報を関係者で共有しタイムリーに情報伝達を行うこと・・・Communicate

の話もしましたが、実は、「仕事の心がけABC」と本質的に同じことを述べているのです。

  1. Active(能動的であれ)
  2. Business(ビジネスとして行動する)
  3. Clearly(明瞭なコミュニケ―ション)

夢や希望がない「能動的な動き」というものがあったら、それは非常に危険でしょう。したがって、上のAでは暗黙に有意義な夢や希望があることを前提としています。

Businessのパートには、目標管理もありますが、これは基本的に「管理」について述べています。管理によって最低限の成果を保証しようとします。

また、夢・希望のようなマインド、あるいは能動性と異なる軸で管理(これはコツコツと、きっちりとつぶしていく作業です。ですから先ほどの直感的なマインドとは別の尺度です)を定義しましたが、もう一つ、観点の異なるコミュニケーションという軸を定めることで、このフレームワークの座りをよくしています。つまり、抽象・具象(または詳細化)と、さらにその相互関係のようなものを置くことで安定性、完結性の響きを作ってみるわけです。

このような3つの上流(上部)のフレームワークができたら、こんどはそれぞれを分解し、具体的に説明していきます。このような手法はトップダウン(上から下へ、抽象から具象へと進む)と呼ばれています。

このように、思いつきに見えるフレームワークにも、作り方に方法論があります。でも、万人が納得し、しっくりくるものはなかなか得られないのが現実でしょう。

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2年くらい前に、仕事をするときの心がけについて書いていたメモが出てきました。その柱は3つです。

第1章 Active(能動的であれ)

第2章 Business(ビジネスとして行動する)

第3章 Clearly(明瞭なコミュニケーション)

このように覚えやすいように、頭文字をABCとしています。ちなみに、Activeは形容詞、Businessは名詞、Clearlyは副詞と全部品詞は違います。

人にもし、「あなたは仕事をするときに何を心がけていますか」と聞かれたとき、「私はABCの3つです」と答えるられるからとても便利です。少々はずかしいですが、出てきたメモのまま、オープンさせていただこうと思います。

第1章 Active(能動的であれ)

【1】追われず、追いかける

【2】強く、はっきり、正確にアピール

【3】先読みし、1歩早く進める

第2章 Business(ビジネスとして行動する)

【1】個人目標設定と目標管理

1) PLAN
2) DO
3) SEE

【2】4点管理

1) WHAT&HOW(タスク)
2) WHEN(スケジュール)
3) WHO(担当・体制)
4) HOW MUCH(売上・コスト)

【3】7ステップ

1) ★調査する
2) ★戦略を定める(位置付け、方針)
3) ★戦術を決める(方法+4点管理)
4) ★効果的なプレゼンをする
5) ★☆進行管理を行う(4点管理)
6) ☆業務を行う
7) ★☆良好な関係を保持し付加価値を加える

第3章 Clearly(明瞭なコミュニケーション)

【1】伝達の5つのポイント

1) タイムリーに
2) 必要な相手に
3) 正確な内容を
4) わかりやすい表現で

  1. 箇条書き
  2. 見出し付け
  3. 図解

5) 適度な強さで、時間をかけて

【2】伝達の5つの方法

1) 口頭(直接・電話)

  1. ショートレポート
  2. 予約、予告

2) メモ or メール

3) レポート(用紙 or ファイル)

  1. 週報
  2. 営業報告
  3. 案件の進捗報告
  4. 出張・終了報告
  5. 企画書

4) 発表(レポート内容について)

5) 質問・コメント

【3】伝達の5つの内容

1) 意義・方向性

2) 客観状況

3) 問題点・懸念指摘

4) 対策提案

5) 数値予測

  1. 意義、効果、影響
  2. 売上・利益
  3. 損失

ざっとメモだけそのまま書いてみました。

PDFで一枚に整理してみましたので、ご興味のある方は以下からクリックしてダウンロードしてください。

「仕事の心がけABC」のPDFファイル

なお、複製、抜粋、ならびに趣旨を変えない範囲で変更することを許可します。ただし必ず出典として「株式会社ベータラボ」を明示してください。

また、この方法論については、「超入門.com」の会員になられた方を対象に、近日中に解説の音声もダウンロードできるようにします。

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昨日、北京オリンピック競泳日本代表監督の上野広治さんの講演会に参加しました。

新宿法人会が主催の研修会だったのですが、「水泳ニッポン復活の戦略」というテーマでお話しいただきました。

上野さんは、メダルゼロで終わったアトランタオリンピックの後、ヘッドコーチに就任し、「チーム力」「オープンマインド」を掲げ、プロの選手たちに「ニッポン」という所属をしっかり認識させながら、コーチたちの温かいサポートと人間関係をうまく組み合わせて、いい成果を得ることに成功しました。

スピード社の新型水着「レーザー・レーサー」の出現により、世界新記録が続出する事態となりましたが、コマーシャリズムやスポンサー、そして組織委員会などさまざまな力関係の中、新型水着を採用して、大きな問題もなく舵取りをされました。

講演の場が法人会なので、「いかに目標に向かってマインドをそろえられるか」「成果を出せるか」「ピークを本番に持ってこれるか」「プレッシャーなどのストレスとどう対処するか」などが中心テーマでした。

当然ながら、皆で力を合わせて参加し、競うわけですから、共通の目的なり目標をしっかり定め、共有することが大切になってきます。エピソードを含め、いろいろなお話をしていただき、有意義な時を過ごすことができました。

例の「レーザー・レーサー」も実際に持ってきていただき、会場内を回して、参加者全員が触れてみることができました。

やはり女性の参加者には生地などが特に興味がある様子です。

「硬い」という話もありましたし、肌に馴染むような素材ではないとも思いましたが、手に触れているこの無機的な素材の水着で次々と世界新記録が生み出されたことが、とても不思議に思えました。

1着7万円もすること、着るのに30分もかかることがあること、サイズはS,M,Lの3通りしかないことなどを教えていただきましたが、体にぴったりと装着するため、競技の前にプールに入って調整せざるを得なかったそうです。

実は、試合前に水の中に体を漬けることで体温が下がってしまうため、いい記録を出すという点ではマイナスの要因となったそうです。しかし、そのデメリットもはねのけて続々と記録が打ち立てられました。

どんなにいいものも、デメリットがあること、それを両方とも取り入れていかなければならないことがわかりました。

上野さんは高校の先生でもあります。なんと、アマチュア監督が、プロ選手たちを上手に束ね、いい成果を出してこられたのです。すばらしいですね。

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中庸について

2008 年 11 月 27 日

孔子が「論語」で述べている重要な考えが「中庸」です。これは、儒教の柱とされる「仁義礼智信」と並ぶ概念ではないでしょうか。

実は、この「中庸」が、分かったようでちゃんと分かっていないことが多いと思います。

カウントしたわけではありませんが、「論語」の中で「中庸」について述べている箇所が非常にたくさんあります。その中で3つほどご紹介します。

まず1つ目です。

「過ぎたるは及ばざるがごとし」です。「やりすぎと不足のどっちが良いか」と聞かれたときの孔子の回答です。そこで、両者とも中庸でないという点でダメだとの評価を得ています。きっとそうでしょう。すんなりわかる例です。

次の2番目のものは、はじめはよく分からなかったものです。

「良いことを思いついたとき、すぐにすべきかどうか」と尋ねられたとき、孔子は、人によって異なる答えをします。

Aさんには「あなたには父兄がいらっしゃるのに、尋ねずに行動すべきでない」と答え、Bさんには「すぐにやりなさい」と答えます。

「え? 不統一じゃないか!」と思いませんか?

実は、これが中庸だったのです!

思考が浅くすぐに行動に移すAさんには父兄に相談することを、また思慮が深く、いつも他を気遣っているBさんには迷わず行動することを勧めているのです。

私たちはとかく絶対的な答えを求めますが、短絡的な行動となっていることがあるようなのです。判断、行動する前に、一歩立ち止まって、状況や立場、関係、などをちゃんと考える、判断する、その上で行動すべきなのでしょう。ですから「中庸」は実は難しいのです。

現代社会は高度に工業生産や情報伝達が進んだ時代です。ここで、ちゃんと状況や立場、関係などを考えて判断し、行動することから逃げていないでしょうか?

たしかに、ズバ、ズバと言う人の言葉が(短期的には)強く感じます。最近は有言実行の風潮があります。しかし、発言が配慮を欠如していたり、妥当でないと後でわかったときは、言葉の価値が地に落ちてしまいます。

さて、3番目の例です。

これも、それを読んだとき、すぐには意味、意義がぴんと来なかったものです。

世の中が安定している時には、正しい意見は大きい声を出して伝えてよいが、世の中が混乱している時には、正しい意見であれ自嘲しなければならない、というものです(意訳しています)。

これも、ある意味、「中庸」の概念に基づくものだと考えていいと思います。よってたかって混乱を大きくしてはならないという意図だと思われます。

さて、意見を述べる場面だけでなく、コマーシャルの表現を伝える場面でも、この「中庸」はとても重要です。しかしながら、私たちはつい「効果」を重視して、このことを忘れがちです。

しかし、対立するもの、対比するものとの比較や、状況や場面についての判断はとても大切ですし、「中庸」を心がけることによって「品格」が作りだされていくことを私たちは実は体験的に知っていないでしょうか。

発言する前に頭の中で「中庸」と言ってみる
行動する前に頭の中で「中庸」と言ってみる
表現をリリースする前に「中庸」と言ってみる

このようにして、最低限の品格は確保したいものです。

現代の社会状況(犯罪など)にしても、経済、政治の閉塞状況の原因にも「中庸」の欠如があるように私は感じています。

短絡的な思考、短絡的な行動、成果や効果という1尺度だけに基づく宣伝や経済活動は、短期的に効果はあっても、実は長期的にはマイナス資産をため込むことになっているのではないでしょうか。そしてそれが突然破裂する!

男性(ばかりではありません)が短絡的に暴力に走ったり、
女性(ばかりではありません)が運命や占いに走るのは、

思考や判断することから逃げていることです。

ぜひ「中庸!」と心に言える余裕を持ちたいものです。

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論語は社会のFAQです

2008 年 11 月 25 日

この三連休の間、解説書ではありますが「論語」についての本を読み始めました。

「うーん」と言ってしまうような話がたくさんで、とても興味深いです。「本当に二千数百年前の話だろうか?」と思ってしまうほど新鮮な言葉に驚かされます。感銘を受けた話のいくつかをご紹介してみたいと思います。

孔子が死後の世界のことを尋ねられたとき、「現存社会ですらよく分かっていないのに」と、論ずることすら避けます。彼は死後の世界、神秘主義などを極力排除します。あくまで現実世界で社会が秩序を保ち、発展していくために人が人とどう接すればいいのかを「仁」「礼」「徳」といった言葉で具体的に説明します。

孔子が「聖人」と言われたときにも、「とてもとても」とその意見を受け入れません。どうしてかと言うと、「聖人」や「君子」「大臣(非常にすぐれた臣下)」などの定義を行っているのは彼自身であり、自分はそれに当たらないと明確に述べているのです。

「友の遠方より来る、また楽しからずや」と、感覚的感情的にわかりにやすく伝えていることや、「40歳=不惑」「50歳=天命を知る」などの話も、「40歳はどうあるべきだ」と教条的に教える話ではなく、「私自身はこうだった」と感想を述べているさまを読むにつけ、自身の立ち位置を明確に知り、自身の行為による効果を明確に測りながらデンタツしていることを、私はすばらしく思います。

自らを「神」だ「王」だ「皇帝」だと権力を集中させ、権威を高めてきた人や、死後の世界や神秘性などを伝えて「(知らない、分からないことを)信じること」こそが大切な行為だと求める宗教者とは全く立場が異なっています。

とかく、人間は自身が不完全なため、完全なもの、あるいは未知なる強力な力を求めがちです。たとえば、孔子も完全な人だと考えたり崇めたりしがちですが、そのこと自体、彼から否定されるでしょう。彼の関心はそのようなことではなく、どうしたら平和に明るく暮らしていけるか、人と人はどのような関係を保てばいいのかについて、まさに草の根の伝道をしながら、為政者の求めがあればそれに応えていくという態度を貫いていますし、いい家庭を作ることもいい国家を作ることと同じだと言い切っています(人と人との関係だからです)。

論語は、主に弟子たちの疑問に対する回答の書です。FAQ(Frequently Asked Questions=よくある質問)といってもいいのですが、弟子たちもズケズケと質問し、見事に回答している様子がとても興味深く、とても楽しく読める書籍です。決して古臭いものでも、権威主義のものでもありません。不安定な時代だからこそ、読んでみてはいかがでしょうか。

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