選抜する問題、評価する内容
2009 年 10 月 1 日
1つ前の記事「高校英語:正確さ優先からの転換」に対するご意見をメールでいただき、その方へメールで返信した内容を、記事としてお伝えしようと思います(以下原文のまま)。
*************
私のブログ記事のもとになったものは次のページです。
http://www.jiji.com/jc/zc?k=200909/2009090600086
・・・
日本のテストは、減点方式がかなり徹底されているのがとても気になります。
すでにブログで読まれたかもしれませんが、マラウイの英語テストで、次のようなものがありました。
「あなたはおじさんから自転車を借りました。マーケットで買物をしているときに、その自転車が盗まれてしまいました。盗まれた状況と、どのように償うのかをふくめておじさんへ宛てた詫びの手紙(英文)を書きなさい」
このような採点しにくいテストは、日本では絶対にしないことが、私はとても残念です。こういう問題を解くことをやらなくなるからです。
残念ながら、ヒトは、評価のされ方次第で、研鑽するものがどんどんかわってくると思います。
学校の選抜や、会社などの評価の中身が、実は人の質を決定していいるように思えてならないのです。
それくらい、人の選抜や評価は重大だと思います。大統領や総理大臣の選出は大きなニュースですし、試合やコンテストのランキングはとてもとても重大です。
開成中学校の国語の問題を読めば、開成中学校の国語はこのような問題を解ける人を求めている、というのがわかります。(これも東大と連動していますが・・・)
また、自転車のわび状を書かせる問題を出すのであれば、そのようなものができる人を国は求めているのがわかりますし、生徒たちははげむようになると思います。
出題者(主に大学のことですが)は、明確な差をつけることだけを目的にして問題を作っているように、私は思うのです。
これだけ影響力が大きい選抜のための問題ですので、求める人物像が感じられるようなテストを出してほしいと思います。
・・・
以前ブログで書いたかも知れませんが、フランスの大学は卒業要件として、社会(たとえば会社)から卒業OKを得ないと卒業できないようになっていると聞きました。(3カ月程度社会で実習してからOKを得て卒業になります)
私自身、フランスの大学院生を数カ月預かり(研究所の助手)ました。彼がアメリカのドクターコースへ行くときに推薦状を書いてあげました。
このフランス式のやり方は、すごくいい考え方だと思います。本来、大学が独占したい権力を社会に委ねているのです。(就職活動はどんどんさせたとしても、きっと日本ではやらないでしょう)
社会が求める人材を育成したかどうかの判断を社会に求めているのです。
責任放棄という人もいるでしょう。でも、私は英断だと思います。
社会がどんな人を求めているか・・・
問題を見つけ、そのことを周囲とシェアし、協力して問題解決に当たれることではないでしょうか?
調査も思考も伝達も協力もできないとなりません。
合ってる、間違っている、だけで選抜していると、いずれ、ほしい人が採れない、育てたい人を育てられないことになるのではないかと心配して意見を述べているつもりです。
***
自民党総裁選。
私達へアピールしていたことは「世代交代」「派閥解消」。
内輪の問題を外にアピールしています。また、選ばれた方の意見「1つだけお伝えしたいこと。それは、みんなでやろうぜ」にも唖然・・・。
取り残されているさまは、哀れにも感じられました。
ヒトによる評価と選抜の問題はいたるところにあるので、重大さの度合いは、非常に高いと思います。
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高校英語:正確さ優先からの転換
2009 年 9 月 14 日
文部科学省が教員向けの説明資料で、英会話では流れを大切にした指導を行い、生徒の積極性を損なわないよう求めていることが今月6日(2009年9月6日)わかりました。
手短に言うと、これまでの高校英語では文法やスペルの正確さを重視しすぎていていたのを、今後は多少の誤りがあっても、目くじらを立てずに流れを重視したものとする、というもののようです。
とてもいい方向づけだと思いますが、ある意味当然な話です。
言葉は伝達する手段であり、コミュニケーションが円滑に行われることが目的であるにもかかわらず、スペルを違ったとか、文法に合っていない、ということで減点することに注力し、それで学力を評価してきたのです。
逆に、自然でなめらかに話せることなどについては、これまで全く評価を行ってきませんでした(ゼロ点です)。
合っているか、間違っているかでのみ、教師も、生徒も必死になって取り組んできたわけです。
だから、ガタンゴトン英語(なめらかでない日本人の英語のこと)から抜け出なかったのです。
今回、文部科学省が方針を変更する、という話ですが、そもそも、「正確さ重視をせよ」とこれまで指示を出してきたのかどうなのかも定かではありません。
大学入試や高校在学中のテストが、そのようなものだけを評価する仕組み、内容だったからにこのようになってきた、のではないでしょうか?
これを改善するのは、文部科学省の通達だけではむずかしいと思います。
少なくとも、「ちゃんと『流れ』を評価するように」と指示しないことには、現場は何も変更しないでしょう。大学入試は何も変わらないでしょう。高校の教室での授業も、そして試験も変わらないでしょう。
これまで通り、評価しやすいものだけ評価するからです。
どう理解し、どう伝えられるか・・・。
要は、伝達の内容と質が問われていることだけは確かですが、どうそれを評価するか。
高校も、大学も真剣に考え、取り組んでいただきたいと思います。
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消しゴム万引で懲役2年の実刑判決
2009 年 7 月 17 日
この標題の新聞記事(朝日新聞・7/15夕刊)が書かれているのが目に留まりましたが、日本の今の話だとは最初は思いませんでした。
なんでも、息子への手紙の下書きを鉛筆でするのに消しゴムがほしくて、近くのスーパーで万引きした70歳の女に対して岐阜地方裁判所が出した判決が、懲役2年の実刑というものだったようです。
逮捕された後、「二度と悪いことはしない」とスーパーの店長、検察官、弁護士あてに手紙を書いていて、反省の気持ちを表していたようです。でも、このような判決となりました。
常習累犯窃盗罪(つまり、同様の犯罪を繰り返したことに対する重い罪)が適用されたようですが、消しゴム1個(98円)を盗んだことで、2年の実刑は、誰が考えてもバランス感覚を欠いた判決だと言えないでしょうか。
菅谷さんの釈放を契機に、裁判の誤りや裁判所の検察寄りのこれまでの判断などを知ることができました。
日本では、検察が裁判に持ち込んだ99%が有罪になっているそうです。
この数字からすると、ひょっとして、ミャンマーやその他の民主的でないと思われている国々以上に、日本は国際的には「検察の意見素通り」の国家なのかもしれません。
本当に司法が機能しているのだろうか、と不安に感じました。
日本は民主主義国家になったように思われていますが、政治の問題だけでなく、司法についても、形骸化、硬直化していないだろうか、と考えさせられました。
私たちは日常生活を送りながら、社会生活を行っています。
そして「不正義」や「不平等」といったものを感じると、心が反応を起こします。
腹が立ちます。怒りを覚えます。変えたいと思います。
しかし、一般に、日本人は日本社会への適応する力が非常に強く、その反応を抑えてしまうようになっていないでしょうか? すなわち非常に我慢強く環境に適応する、ということです。
たとえば、鼻水が出たら、すぐに薬を飲んでその反応を抑えるように、感じても、その反応を抑え、議論をせず、改善することもせず、時折、「・・・が悪いのではない、悪いのは社会だ」(某コマーシャル)というような、怒りの対象を薄めるような生き方をしていないでしょうか?
平和な国になったわけですから、平和的に意見をしっかりと出したり、議論したり、検討したり、手分けして改善したりすべきではないかと私は考えます。怒らなくても、喧嘩をしなくてもいいので、改善すべきだし、改善するための問題点を整理して、議論して、段取りをつけていくべきではないか、と考えるのです。
もちろん、先日の選挙のように、じっと黙っていても、淡々と野党へ投票するようなことも起こってきているので、変わってきたのかもしれません。
今回の記事「消しゴム万引懲役2年実刑判決」について、単にバランスを欠いた判決があったということだけを言いたいのではありません。せっかく市民が参加する裁判を行う時代に入るわけです。市民が社会に意見を言い、社会の仕組みを考え、社会を変えていくステップ、仕組み作りを考える時代にしたいものです。
300万人以上の死者を出し、領土・財産を失い、国土を焦土と化し、戦争終結すら政府の手で行えず、国際的な信用も国家の名誉も失った先の戦争について、国家としてとくに国民に対して総括をせず謝罪も行わないことを思い出すと、私自身、不正義や不平等、バランス感覚の欠如などについて言う言葉すら失いそうになってしまうことも事実なのですが。
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国語力・英語力、そしてハイブリッド
2009 年 7 月 6 日
教育にたずさわる方から、「国語力・英語力」というのタイトルのメールをいただきました。
そのメールの中で英語に限らず、日本語についても、学力の低下の実態と問題点のご指摘をいただきました。
半分冗談でしょうが、「日本語についてもききまね教材が必要かも」、というほどの国語力低下を嘆かれていました。
このお話とも関連して、少し持論をブログの記事としてお伝えしたいと思います。
ききまね英語という教材を開発して販売を行っていますが、その意味・意義として2つあるのではないか、と考えています。
1つは、お母さんから絵本を読んでもらうような、自然に言葉を学ぶ方式を採用し、日本語抜き、英文字抜きの方式にすることで、自然に音声として学びつつ、自然に話せるきっかけづくりをやろうという、メソッド(やりかた)とコンテンツを提供していることです。これはデジタルの技術の進展の恩恵を受けています。
もう1つは、いろんな事象の説明ができるように、「英語」という枠を広げる、ということです。
単純に言うと、「四則演算を英語で読めるようにすらせず、難しい随筆や時事問題の大学入試を行っている現状」に対する改善提案です。
小学校1年の算数くらい、日本の大学生には読めてほしい、という願いです。
そうでないと、かりに英文は類推しながら、辞書を引きながら読めても、また、Webであらかた調べたり、ダウンロードすることはできても、きっちりとスピーチしたり、手紙を書いたり、交渉したり、研究発表したり、という情報発信の伝達スキルが不足し、力が劣ってしまうからなのです。
私自身、日本の英語教育を受けて、大学を卒業していながら、「四角形」という単語の英訳(rectangle)すら知らずに物理・数学を教える教師としてアフリカに派遣されました。
うそのような話ですが、まさにこのギャップ、アンバランスに苦しんだ当人なのです。算数や理科にかかわる基礎の基礎の英語欠落が身にしみました。中学、高校で教えておいてほしかったと思いました。
将来、世界で活躍する若者たちには、同じ経験をしてほしくないのです。
私は、このアンバランスは英語教育の大きな問題だと思っていますが、そう考えられない方もいらっしゃるでしょう。
英語は英語、理科は理科、数学は数学と。でも、垣根が高すぎないでしょうか? 同時に教える必要はないと思いますが、数年程度離してでも学べたらと思います。
問題を発見したり、課題を見つけた時、それを広く知らしめて(アピールして)、「いっしょに解決しよう」と声を上げることは日本では行われにくいことです。広く知られたことであっても、通常、サイレントマリティー(沈黙している大勢)となっていることが多いのではないでしょうか(がまんしていることが多いと思います)。
日本には厳然と調和を尊ぶ文化があります。また、日本人はいい意味で、怒るべきシーンでも結構平静で、極端に走らず、甘んじて受け入れます。いわば寛容と中庸?の精神があり、激昂したりしません。これは世界的にはかなり特異であり、私はある意味、すばらしいことだと思っています。
しかし、逆に言うと、問題が発生しても、きっちりと、とことん突き詰めて考えたり、解決していく意欲を保持したり、進める点で、歴然と(一神教系・肉食系・動物家畜文化系といったリーダーシップ重視の)西欧と差を生じているのではないかと感じてしまいます。
決して、西欧文化が優越している、と言いたいのではありませんし、日本の良さを実感しています。しかし、論理的に話すことや、このような話をすると通常、うさんくさく思われたり、対応されるのが普通です(もちろん、興味がない場合も多いでしょうが・・・)。
西欧でも、もちろん、キリスト教が強すぎた中世の時代には、科学も芸術も主体性・創造性の点で抑圧を受けていた(自主性が抑えられていた)ようですが、ルネッサンスの開花や科学技術の発展をみればわかるように、潜在的には「知」や「美」や「理」などへの強い欲求が中世の時代にも厳然とあったため、急激に文化・文明が開化したのではないかと思います。
私たち日本人にも「美」の感性や「調和」についての深い文化があります。ジェームス・カーカップ氏のご意見「Quality of Life」もあります。そしてそれは、これまで作ってきたものを壊さず、維持する力として働いています。この基本がヒトの社会として絶対的に必要だと思いますし、何とか、終わらない紛争を続ける地域・民族の人々にも伝えたいと思います。
日本は、単に地理的に島国だったから長く国が続いているのではなく、「美」「調和」そして「我慢」と「適応」の文化も、長く国を栄えさせてきた理由なのではないでしょうか。
このような日本的な良さを維持しつつ、西欧的な合理性、そしてリーダーシップも活かせる、いわば「ハイブリッド」な方式が受け入れられていけばいいな、といつも私は考えています。
日本人がこれまで、さまざまなものを世界から取り込んできたように、ハイブリッド化が進められないものだろうか、と。
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2 + 3 = 5 は英語で?
2009 年 7 月 2 日
2 + 3 = 5
これは小学校低学年の算数です。
もし、「英語でどう読むか」と聞かれたら、日本人の大多数、おそらく100%近くの方は
Two plus three equal five.
と読むと思います。
東大に合格したばかりの人たちに聞いてみても、その比率はほとんど同じではないでしょうか。
でも、残念ながら答えは違います。
equal ではなく equals (動詞の三人称単数現在形)であれば正解です。しかし一般には「=」は「is equal to」と読みます。つまり、
Two plus three is equal to five.
が正解です。
どうしてこのような簡単なことができないのでしょうか?
教えられていないからです。そしてテストの設問にないからです。どうして設問しないのでしょうか? 算数だから?
このように、日本の英語教育では、どんなに難しい文章や、時事問題や、シェークスピアなどを英語で学んでいたとしても、小学校低学年の算数を英語で正しく読めない、という現実が存在しています。
日本の英語教育は読み書き中心、丸暗記中心であり、「英語を話せない」という問題が指摘されていますが、(論理記述などに必須な)基礎を学ばせず時事や文学などに傾斜している問題に気づきます。さらにまた、(入試などで)より基礎的な問題を設定して選抜を行おうという考え方が欠如している問題が浮かび上がってきます(難問で選抜しようとする方式です)。
もし、「それは算数であって英語ではない。英語教師は算数や理科を教える必要はない」という意見の方がいたとしたら、私にはもっとショックです。そうであれば英語という狭義の「教科」の設定をやめにしたらいいのではないか、とすら考えてしまいます。
いくつか類似の表現です。
等しくないは is not equal to です。
等価は is equivalent to です。
相似は is similar to です。
合同は is congruent to です。
平行は is parallel to です。
すべて be + 形容詞 + to という構造をしています。覚えるのはすごく簡単です。
3 m は three meter(メーター)ではなく three meters(ミーターズ)です。これも、日本の大学生に解かせたらどうなるでしょうか?
本来このようなことを学ぶべき中学校では、学ぶタイミングを失い、私たちは高校へ入学します。
正三角形は equilateral triangle です。
四角形は rectangle です。
直角は right angle です。
このような基礎的な言葉は、大学入試には出ません。出しません。しかし、日本の大学生の何パーセントの人が知っているでしょうか? 知る必要がない言葉でしょうか?
もし、このような単語を知らずに日本では大学へ進学できるということを、たとえばドイツ人に話したら、びっくりすることでしょう。信じてもらえないかも知れません。
知らなくていいのでしょうか? 学ばなくていいのでしょうか? では、どうしてこのような状態を放置するのでしょうか?
もし、文部科学省の方々は、このような状況であることの問題に気づいていないとしたら、もっと恐ろしいことです。気づかずして改善はできないからです。
私は入試問題の内容や試験の仕方が変われば、抜本的に改革できると考えています。言い換えると、入試でしっかりと(このように基礎的なことを理解した人を)選抜できないから、教育のひずみを直せないのだと考えています(高校で教える教師も学ぶ生徒も、ある意味、大学入試の制約がいっしょにかかっていて、大学入試問題から変革すべきだと思います)。
確かに英語はコミュニケーションの手段であり、情報を収集する手段でもあります。しかし、単にコミュニケーションあるいは伝達の手段というだけではなく、物事(論理や科学)を学んだり、認識したり、思考するための標準的なツールです。
英語を使って事象や概念を定義したり、説明できるということは、英語を使ってきちんとコミュニケーションできることにつながります。また、世界をまたにかけて学ぶことができたり、異なる人種や意見の人たちと協調できたり、交渉できたり、ビジネスできたりすることが可能になります。
したがって、英語という言葉を思考や論理を組み立てる道具としてく位置づけようとすると、「2 + 3 = 5」を正しく英語で話せないということは、非常に重大な問題と言わざるを得ないわけです。
小学校の英語授業が必須になり(2011年)、高校の英語の授業は原則英語で行われることになります(2013年)。
ネットで英語関連のニーズを調べると、とかくTOEICなどの選択問題テストでいかに高得点を取るかということや、「英語耳」とか「聞き流し」などがはやっています。点を取ることと楽をして受動的な能力を高めることが一般の関心事になっています。
しかし、国際的にまたがって能動的、主体的な行動をしようとすると(たとえば、スピーチする、論文を発表する、説得する、調停や和解を進めようとすると)、論理にかかわるような基礎的な(英語)表現は完全に使いこなせないと、非常に困ることになるのです。
私はそのような人材を日本から輩出するべきだし、そのために英語を学ぶべきだと思います。
ぜひ、今後、きっちりと基礎的な学力をつけるようにしたいものだと思いませんか?
少なくとも日本の大学生は「2 + 3 = 5」を英語で正しく読めるようになってほしいと。
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ネイティブ無視の和製英語
2009 年 6 月 26 日
ちまたには英語表現が氾濫しています。
ネイティブ信仰とは正反対に、ネイティブの英語感覚を全く無視する和製英語もたくさんあります。
標識や案内文などで、必要に迫られて英語化しているものもありますが、商品名やキャッチコピーなどの場合、日本語だけの表現より意味合いを深めたいため、または新しい感覚(雰囲気)を入れたいので英語にすることもあるでしょう。
残念ながら日本人が日本人的感覚で作った英語の場合、英語として変だったり、不自然だったり、意味を勘違いすることがあります。
言葉というものは生き物なので、新しい言葉は最初は「変」でも、次第に市民権を得ていくこともありますので、いちがいに、和製英語だからダメというつもりもありません。でも、どういうふうに「変」に思われるのかを知らないことも多いのではないか、と思いますので、いくつか最近感じたものをあげてみたいと思います。
三菱自動車の「Drive@Earth」。
宮崎あおいさんが「ドライブ・アット・アース」と「日本語式」に発音するコマーシャルを作り、全面展開している「英語」のキャッチコピーです。
このコマーシャルを見ただけでは何を伝えたいのか、さっぱりわかりませんでしたが、三菱自動車のホームページに解説があってそれを読んでようやく理解できました(かけがいのない地球から離れず、地球ドメインで走り続ける、というような取り組み姿勢を表しているようです。その意味では「at」は正解だと思います・・・)。
無冠詞で「earth」というと、地球ではなく「土」や「地面」という意味になります。
ですから、地球と言いたいのであれば、この標語を読むときには「the earth」としたほうがいいでしょう。
ただし、その場合でも、前置詞は「at」ではなく「on」になるのが自然だと考えます。
つまり「(to) drive on the earth」という表現がもっとも自然で一般的な英語だと思います。
しかし、三菱自動車の意図としては、メールアドレスの「@」にかけて、「earth というドメインで走る」という表現にしたかったようです。
でも、「drive at earth」というと「地を走る」という意味にはなっても「地球を走る」という意味には遠いと思います。
このように日本人でも意味がすぐにわからない、英語ネイティブにもわかりにくい標語を作り、膨大な費用をかけて広告していくというのには疑問符ですが、(言葉には多少の不自然さも斬新さを生むこともあるので)ある意味、頭が下がります。
この程度のキャッチコピーと実際の言葉とのギャップは許容範囲ではあると思われますので、単にチンプンカンの和製英語とは言い切れませんし、「地球ドメイン」という取り組み姿勢いをPRしたい、という気持ちがあるので、否定できませんが、残念ながらシンプルな表現でありながら、日本人にも、ネイティブにもわかりずらいコピーなのではないでしょうか。
次は、パナソニックの「ビエラ」。
実は私自身このビエラ携帯を使っているのですが、小雪さんがテレビのコマーシャルに出てきて、
「ヒューマン・ビエラ」「きれい!」
というものです(でした)。
何が変なのか、ほとんどの日本人は気にされないと思います。
「ヒューマン」
という言葉を聞いたとき、私自身ドキッとしました。
「知能を持った『人』である『ビエラ』」と、つまり「ヒューマノイドのビエラ」と言ったように感じてしまいます。「これ、ヒト?」という驚きです。
パナソニックはきっと「人にやさしい」「人が使うことを十分考えた」という意図で「ヒューマン」という英語を使っていることだと思いますが、おそらく英語にはそのような語義はなく「人の」という意味になってしまいます。
どうして日本人は「ヒューマン」という言葉がそのような意味合いを付加してしまうのか不明ですが、「ニューマニズム」という言葉の存在もあるのではないか、と思います。
昔、某化粧品メーカーが
「For Beautiful Human Life」
という(ネイティブに読ませる)コピーを大々的に広め、ネイティブの間では不可思議、ナンセンスな広告とされたものも思い出されますが、ここでも「Human」という言葉が出てきています。この中の「Human Life」とう表現がナンセンス(意味不明)なのです。「For Beautiful Life」で十分なのになぜ「Human Life」にしたのかが英語ネイティブには意味不明なのです。
パナソニックはビエラの宣伝で最初は「ヒューマン」を出し、一時ひっこめましたが、その後、また「ヒューマン」を出してみたりしています。
こんどはカタカナで「ヒューマン」ですから、「英語ではない」という主張もあるでしょう。日本人にはある程度意味を伝えますが、ネイティブには思わぬ意味を伝える(誤解させる)可能性がある表現です。
このような和製英語に対する日本人の感性を利用した広告は、非常に変ですのでやめたほうがいいと思いますが、ひょっとして和製英語起源の「human」の語義が英語辞典に追加されることがあるかも知れません。
このようなキャッチコピーについては、正しさより語感が重要なので、和製英語であっても仕方ない、あるいは意味があることがありますが、キャッチコピーでない、たとえば案内文などの場合は、和製英語ではまずいと思います。
電車に乗っていると、掲示している英文で不自然だったり誤っている表現のオンパレードです(乗る機会は少ないのですが、都営地下鉄の英語表現は割と良いように思います)。なぜこのようなことになるか、と言うと、ネイティブまたは英語が堪能な人のチェックをスキップしているからでしょう。
去年の記事にもありますが、約1年ほど前、JR東日本の電車の電子パネルへの掲示に「現在時刻」の英訳として「Now Time」と出ていて、その誤りに気付いて訂正をお願いしましたが、なんと直るのに8カ月もかかりました。
(Current Time, Present Time, Time Now はOKですが、Now Time はダメです)
このように、ネイティブ信仰をしながら、ネイティブ無視もするのが日本の特徴ではないでしょうか。
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ネイティブ信仰について
2009 年 6 月 1 日
ベータラボは「ききまね英語」という英語教材を作っています。
専門のホームページやブログもあるので、詳細はそちらを見ていただきたいのですが、熟考伝達でも伝えたいと思ったことを述べてみたいと思います。
自然でなめらかに話すようになりたい、と考えた場合、どうされますか?
「英語漬けにしたほうがいい」というのは、誰もがすぐに気づく解決法です。
私も、青年海外協力隊に参加してアフリカ・マラウイ共和国へ赴任する前の3カ月ほどは、「日本語禁止」の英語授業を受けていましたし、これはとても効果的だと思いました。
先生が離れたすきに、同期の仲間同士日本語で小声で話していると先生に気づかれ「Pardon?」と言われて、制止を受けました。風呂場でも、背中を流しながら隣の仲間と英語で話していました。
英語で話さなければならない、という状況こそが、英語で話すようになる一番の近道であることは、確かに体験できました。
学校英語では、最近ヒアリングテストと称して聴覚テストのような音声だけ聴いて答えるようなテストを実施していますが、基本的にはペーパーテストで習熟度を測りながら、英語設問(クイズ)に定められた時間に答える力を養成しています。
大学の入試問題をみても、書面で尋ねた設問をいかに早く正確に選択できるか、だけが評価の対象となっています。
私は、非常に大きな労力、時間、コストをかけてきていながら、コミュニケーション能力を高めるようになっていないこと、それを計測することをほとんど放棄した入試となっていることを非常に残念に思います。
文部科学省の学習指導要領のトップにある「外国の文化に親しみ、コミュニケーション能力を高める」という目標を達するための対策がなされず、ほとんど計測も、評価もせずに戦後英語教育を進めてきているのではないか、と残念に思っています。
ほとんどの方が「その通り」と思っても、「では、どうしたらいいか?」については、以下のような方策くらいが思いつくものだったのではないでしょうか?
A.海外渡航して(ネイティブによる)英語漬けをする
B.(ネイティブによる)授業で自然な英語を学ぶ
C.(ネイティブが話す)自然な英語を大量に聞き流す
これらはすべて「英語漬け」と「ネイティブ」が必須のものとなっています。すべて有効な方法ですし、とりわけAはすばらしい効果があることは確かです。
しかし、日本人から自然な英語を学べないのでしょうか?
日本は明治維新後、多くのことを諸外国、とりわけ欧州から学びました。政府はミッションを送り、数か月、数年滞在させ、学ばせ、帰国してからも、多くの情報伝達を行いました。
同じように、かなり自然に話せるようになりさえすれば、ネイティブからでなくても伝えられるもの、学べるものがあるのではないかと思いますが、いかがでしょうか。
(このネイティブ信仰は日本の防衛状況と似たものがありますが、その話に入ると深く、複雑になるのでここではやめます)
海外に行ったことがない、非常に優秀な翻訳者を私は知っています。翻訳に関しては、文字がメインですので、渡航経験はある意味、まったく不要でしょう。
ネイティブであろうとなかろうと当然、自然でなめらかな英語を話せるようになるには、日々、自然に話し続けることが大切です。
しかし、教育現場では、残念ながら、英語の先生ご自身が、(文法的・語法的な)誤りを冒すことを恐れて、あるいは自然さより正確さを求めるあまり、英語をあまり話さなかったり、テストに出ないものは排除したりしてきていたとしたら、とても残念です。
そのような状況が続いたため、ネイティブ信仰が確立されてきたとも言えるのではないでしょうか?
テレビを見ればわかるように、数十年前では考えられない状況になってきています。
日本へ来て、ぺらぺら日本語を話す外国人がどれほど増えてきたのでしょうか。もちろん、テレビに出ている人たちだけではありません。
同じように、英語を学び、どれだけぺらぺら英語を話す日本人が増えてきたのでしょうか?
さて、2013年に英語での高校英語授業が開始です。
私自身、これは文部科学省の英断だと思っています。
いやがおうにも教室で話さなければならないわけですから、自然に話せるようになるステップとなる可能性大です。
この、とても大切なステップへと進まなければなりませんが、どうするかはほとんど現場任せになってるのだと思います。
さてさて、そのときも「さあ、ネイティブの発音を聞きましょう」などと、ネイティブ信仰は保持されたままなのでしょうか?
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規則と中庸(2)
2009 年 4 月 17 日
日本人または日本の優れたところの一つとして、「議論はほとんどしなくとも(明文化しなくても)、秩序立てた行動を行うこと」があげられると思います。
「優れた」とすると、一部の方からお叱りをいただきそうなのですが、あえてこのように申し上げたいと思います。
駅の階段が真ん中に仕切りがあって、仮に下から見上げて左が上り、右が下り、のように決めてあったとします。 人が多くないときは、ほとんど守られていないような駅でも、いったんラッシュの時間帯になるとかなりの割合で守られるようになるのです。
ラッシュ時間帯を利用するのはいい人たちで、それ以外は悪い人、というわけでもありません。 守るべき時と守らなくていい時とをわきまえている、ということです。
さらに人の数が増えてきて、到着した電車からどっと人が降りてきて、そのため、階段の下りの人の数が大幅に増えた場合どうなるのでしょうか。
そう、1列程度はみ出てくるのです。その微妙な調整といったら「すばらしい!」「計算しつくされたようだ」とまでほめたくなります。 このはみ出しのおかげで、階段が人をさばく人数が増えるのです。つまり、効率アップを人間システムが実施しているわけです。
もちろん、マナーの悪いところもあるでしょうが、それは、一般に、往来量が少ないところが多いのではないでしょうか。
もちろん、このような議論もある程度ざっくりとしたものであって、決して日本人が非常にマナーがいい、と言えるものでもなく、単に環境適応している、と言ってたほうがいいかも知れません。
ちょうど、「エジプトはナイルの賜物」といったように、日本のこのようなマナーは、「ラッシュアワーの賜物」である可能性も大なのです。
規則を徹底して書きつくさなくても、人間が運用するときに、判断することはこのようにできます。
駅での人の移動は、道路交通法の適用は受けないかも知れませんが、たとえば、公道の場合、同じような問題が起こることがあります。公道では、 赤信号で渡ることは明らかに道路交通法違反です。でも、明らかに左右を見てもまったく車がなく、わたる距離が狭く、渡れるような場合に信号無視することもあるでしょう(無視しないとある流れがオーバーフローしそうなときは特に問題です)。
でも、これも程度問題で、自分の都合でスイスイ信号無視をされたら、運転する人には迷惑このうえないものですが、このあたりの微妙な調整力が求められるのではないか、と考えます。
ただ、むずかしいのは、それを子供に見られたときの説明です。 「どうして、あのおじさん、赤で渡っているの?」 と聞かれて 「あの人は悪い人です。ひかれるかもしれないから、絶対真似したらだめですよ」 と言うこともあるのではないでしょうか?
(大阪弁で)「場合によりけりや、だいじょうぶそうやったら渡ってええんや。でも気をつけや」 という場合もあるかも知れません。
「気をつけや」 と言い渡せない子供に、このように言うのはちょっと問題なのです。 きっと、警察が聞かれたら「絶対だめです」と答えることでしょう。
でも、私たちの世界はこの程度の幅を持って運営されているのが実際のところで、ややファジーなところがあるのが実情でしょう。
いつも私が通る、新宿の細い道。 わずか4~5メートルあります。
ほとんど、そこを横切る車はなくて、左右を確認しながら赤でも渡る人が大多数です。 でも、実際には、よく見ていないと、10分の1くらいの確率で、渡る車がやってきます。 ですから、実際には注意していないとあぶない場所です。
そしてそこは、実は新宿警察署の斜め前ということもあり、警察が見ていることもあるのです。
そのときは、ほとんどの人はちゃんと止まっています。 これもまたすごい。日本人の適応力の高さを感じるシーンです。
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Yes/Noの文化的背景
2009 年 4 月 7 日
「Noと言える日本」という本が、ずいぶん前に話題になりました。
普段あまり意識していない「日本」「日本人」の特性のようなものを伝えられたような気がしました。
もちろん、「No」と答えにくい国民性に焦点が当たっていたのですが、私はそれは当然の思いやりだと思っています。
自分の個人的な意見であれ、相手が伝えてきたり求めてきているものに対して「No」とは言いにくいものだし、言っては悪いと考えるのは当然のことだと私は思います。
なぜかと言うと、「No」という答えを言わなくていいように、言葉を選び相手に同意を得るような問いかけやお願いをするのが私たち日本人の文化だからです。
同様な文化的な状況は世界各国を調べたわけではないのですが、多くの国であると思っています。
私が二年間過ごしたアフリカ、マラウイでも、そのあたりは日本と全く同じでした。
普通、相手が「No」と言わなくていいように尋ねるのがマナーです。
だから、わからなければYesといっておけば間違いありません。
マラウイ北部の言語(チトゥンブーカ)では、Yes は「エー」。No は「イヤイー」と言います。
響きが日本語に似ていて、気持ちまで伝わる感じがすると思います。
少し脱線して、チトゥンブーカの言葉をご紹介します。
水はミシ(ひょっとしてマジだったかも知れません)。
トウガラシはピリピリ。
たくさんはチョメーネ。
ちょっとはパチョーコ。
ちょっとずつはパチョコパチョーコ。
語感が日本語に似ていたのは本当に不思議でした。
トウガラシはいっぱいかけないで、というのに
ピリピリ・チョメーネ・イヤイー
と言えばいいのです。
コカコーラありますか、を
コカコーラ・アリコ?
のようにしゃべっていたのを聞いて、日本語しゃべったと思ってドキっとしたのを覚えています。もちろん、現地語です。
私はほとんど英語を使った生活だったのですが、たとえば、タンザニアへ行った協力隊隊員たちは、(英語以上に)スワヒリ語をペラペラ話せるようになっていました。
脱線を戻しまして、「Yes」と「No」の件。
問題は、Noと言える精神的な強さを持っているかどうかなのではなく、 話している言語の文化的背景がどうか、をちゃんと考えていればいいのではないかと思うのです。
No と言っても問題ない文化的な背景がある言語の場合、平気で No と言えばいいのです。
でも、そうではない場合、相手の意図を考慮しなければコミュニケーションをうまく取れないことになってしまいます。
「日本人よ、No と言えるようになろう!」
というのは文化や文脈を無視したスローガンです。
「No と言って良いか悪いかどうか、言語や文化、状況で判断しよう!」
が本来の考え方ではないでしょうか。
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「完璧なまでに自由」の強さ
2009 年 3 月 30 日
筑波の科学万博で展示されたトマトの話をご存じでしょうか?
水耕栽培で、たった1株のトマトから1万2000個の果実を実らせた話です。
どのようにしてそんなすごいことができたのでしょうか?
それは、徹底してトマトの立場になり、何が成長、そして果実を実らせることを阻害しているかを探し出して、それを排除することで得られた成功なのです。
「しっかり土に根を張って」と私たちがいつも言うように、自然界では「太陽」と並び「土」こそが一番大切なもののように言われます。土は植物を育てる必須の要素だと思われています。
しかし、決してそうではないそうなのです。
実は、多くのバクテリアを含む土こそが、植物の成長を制約する一番の要因であることが分かったそうです。
植物たちは日々、土の中のバクテリアと戦い、疲れ果てているそうなのです。
だから、水耕栽培にし、たゆまず栄養溶液が流れる中でトマトをスクスク育てたら、たった1株から1万2000個の果実を実らせることに成功したのです。
この話をして下さったのは、私が勤めていた研究所群(複数の研究所の集まり)の中の1つの会社の社長でした。
「私の仕事は、皆さん(研究員)のじゃまをしないこと、のびのびと成果を出せる環境を整えることです」
と社長は言い切られました。
このように、命令や制約などを全く排した、いわば「完璧なまでに自由」の中であれば、とてつもない成長が可能だそうです。
社長の言葉を聞いて、うれしく思いましたが、もちろん、それをプレッシャーに感じる方もいるでしょう。
「完璧なまでに自由」とは、実は難しいものです。
(実は、苫米地英人氏らが財団を作り、進めている運動の思想は、この「完璧なまでに自由」の考えです)
もちろん、成長することを待てなかったり、一定量の成果を約束させたいがため、通常、私たちの社会では、(最低限保証や罰則などの)制約をかけますし、少なくとも精神的なストレスをかけていきます。
よく、「自由と義務は表裏だ」などと言います。
ところが、「完璧なまでに自由」な世界では、決して義務を課さないのです。それでは自由にはなりません。「自由との引き換え」といったケチな話では決してありません。
もちろん、結果をありのままに受け入れることは必要なことでありますが、「義務」を与えられているわけではありません!
普通、「そんなことできるのだろうか?」と思われるでしょう。
「最低限の成果の保証はないと」と言われるでしょう。
自分が会社の社長をしていても、自分に対してゴールを定め、最低限の想定をし、それをいつも考慮しながら事業展開するのが普通ではないでしょうか。
テレビや新聞など、マスコミ報道を見ていると、どのように感じられますか?
今回のWBCと北京五輪。同じ日本の野球に対するものです。
結果が違うから? ですか。
そんなに結果が大切ですか?
人には結果を求め、自分の結果にストレスをいだく社会を皆で営々と作っていると思いませんか?
大人しいはずの日本人。中国人や韓国人も同様ではありますが、すごく順位を大切にします。気にします。
英語教材を販売しようとマーケットを調べてみるとどれほど、「TOIC」「英検」・・・などを銘打ったものが多いのに驚かされます(TOICの得点など)。
ランキングが大好きです。勝つか負けるかをすごく気にします。(それはいいとしても)それをプレッシャーにします。
・・・いつも不思議なのはインド人です。どうもオリンピックも金メダルもまったく興味がない様子。すごく私はこの国民性が気になります・・・
さて、昨日の浅田真央ちゃんの試合の結果。
私は若い女の子に対してあまりにも酷なプレッシャーを与えていると思います。
私たちはマスコミを武器にして、アスリートたちに称賛か批難を与えます。天国か地獄を与えます。
浅田真央ちゃんが3位以内に入れない演技は大々的に「失敗」とされます。ブログを炎上させることを非難するメディア、一般紙も、社会から、よってたかって「どうして」「なぜ」と一斉にプレッシャーをかけます。
名誉毀損は罪になりますが、集団暴行に近い、このようにストレスをかけることはなんら問題ないことだと思われますか?
社会からだけでなく、本人からも相当なストレスをかけていることでしょう。
このような状態が一番生き物を伸び伸びと成長させない要因となります。
ストレスとは、アレルギーのように、自分自身が体内に向けて放つ毒素です。
体も、精神も疲れ、若さを次第に失うことになるでしょう。
そうでなくとも、年とともに、ウキウキするような気持ちやチャンスは少なくなり、逆に、いやなことなどが増えてくるものです。
決して、自分に対して追い詰めるようなことはやってはならないでしょう。
もちろん、他人に対してもマナーとして失敗したアスリートたちにプレッシャーをかけたりしないようにしたいものです。
伸びる芽を皆でむしり取っているようなものですから。
・・・私も若いころは、このストレスは「肥やし」だと思っていましたが、最近、考えが変わってきました。経験は必要だし役に立ちますが、何度もある必要はなく、そのストレスは自分自身を弱らせ、老化させ、酸化させる要因だと思うようになりました・・・
完全な自由など難しいことはわかっています。
でも、だからこそ、考えてみるべき、問うてみるべきことではないでしょうか。
最低限、もう少し社会のマナーは改善したいと思うのですが、いかがでしょうか?
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言葉の構文と意味
2009 年 3 月 27 日
(1) 私は明日彼と会う約束をした。
という文と
(2) 私は昨日彼と会う約束をした。
という文は言葉の並びは全く同じ。違いは「明日」という語が2番目の文では「昨日」になっていることです。
私たち日本人には、(1)では「会うのは明日の予定」であり、(2)では「約束をしたのは昨日」だということが間髪を入れずわかります。
どうして、そのような解釈がすぐにできるのでしょうか。
おそらく、(1)では「明日」と「した」とでは意味的な整合性が取れないので、この解釈は除外しているのでしょう。でも、(2)では「昨日」と「した」とは構文的にも意味的にも整合性が取れるので、「約束をしたのは昨日」という解釈をするのだと考えられます。
語句の並びが同じでも、構文(構造)が異なっている例です。
ところで、日本語と英語はある意味、正反対の言語です。
人類がアフリカで誕生したとして、西のはずれのヒトの言葉(英語)と東のはずれのヒトの言葉(日本語)です。
日本語は原則、重要な言葉が文末に置かれます。
英語は主語の次に来る語が一番大切な語である動詞です。
俳句や和歌など、コンパクトな表現にギュっと圧縮可能な不思議な言語の日本語。
それに対して、主語と動詞を言ってしまったら、単語の説明や節をぞくぞくと付加していける、いわば永遠の世界へ広げられる言語の英語。
極をなす両言語同士で翻訳できることの方が不思議なのではないでしょうか。
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ききまね英語Blogが分離独立しました
2009 年 3 月 25 日
このブログ「熟考伝達」から、「ききまね英語」関連は基本的に分離することにしました。
「ききまね英語Blog」: http://blog.kikimane.com
そのブログのオープニング用に23記事用意しました(一部このブログ記事との重複があります)。このブログのサイドバーに、RSSを使って、ききまね英語Blogの最新記事のタイトルとリンクを表示しています。ご興味のある方は、ぜひ、ご訪問ください。
平均律と純正調
2009 年 3 月 13 日
バッハの「平均律ピアノ曲集」というものがあります。
その言葉でしか一般に知られたり使われることがない「平均律」とは、(「ハ調」から「ヘ調」へなどの)移調ができ、あるいは異なった楽器をどう組み合わせても合奏ができるように、音程を調整した、ユニバーサルな「音階」のことです。
日本には「ロツレチリ・・・」の陰・陽音階がありますが、西洋の音楽では、実は「平均律」とは異なり、「純正調」と呼ばれる音階があります。
この「純正調」は、完全な和音を生み出す音階ですから、一番美しく聞こえます。
たとえば、教会の聖歌隊がアカペラ(無伴奏)で歌うようなときは、楽器がないので平均律で歌う必要はありません。
ですから、完全な和音を作ればいい(純正調で合唱すればいい)わけです。
逆の言い方をすると、平均律の場合は、和音の響きが「ほんの少しだけ不完全である」ということになります(ちょっとだけハモっていない)。
自慢になってしまうかもしれませんが、私は合唱団の指揮者をしていたので、この音の違いもわかりますし、純正調の「ド・ミ・ソ」と平均律の「ド・ミ・ソ」の違いを歌い分けることもできます(純正調のミは音が少し高いです)。
たいていの人には、この微妙な違いはわかりにくいところですし、無視できる程度とも言えますが、この「平均律」を作り、導入したヨハン・セバスチャン・バッハは、今後の音楽界にとって決定的な発明を行ったと言えるでしょう。
これは、科学上の発見や発明ではありませんが、私は、たとえば「ニュートンの万有引力の法則」の発見などに匹敵する偉大な出来事だったと思います。
科学の発見や発明などの背景には、非常に美しい理論や原理が描かれるので、私たちはそれらに魅了されますが、ここでは、「純正調は完璧で平均律は不完全」という、一面的な見方(極論)をすべきでないと思います。
ところで、以前、ここの記事でも書いたと思うのですが、ニュートンが万有引力を発見したころは、イギリスでもペストが大流行の時代でした。
学校(ケンブリッジ大学)も閉鎖され、自宅待機だったようですが、暇をもてあまし、ぼんやり庭を眺めていて、りんごの木からリンゴが落ちるのを見て発見できた、とされています。
おそらく、これは実話ではなく、ニュートン流のジョーク(「ひまだったからですよ」というメッセージ)だと思っています。
いずれにしても、「真理」と感じさせる理論の美しさから、私たち科学を学ぶものは、万有引力のように引き付けられ、感動を受けます。
アインシュタインにしても、徹底して思考実験を行い、真理に近づきました。
突き詰めれば突き詰めるだけ、本質があぶりだされ、複雑に扱われていたものが、単純化されていきます。たとえば1つの方程式がこれまでわかっていた2つの方程式を表わし得たりするのです(実際、アインシュタインの2つの方程式がマックスウェルの4つの方程式を表します)。
一般に、科学の分野では、価値の高いもの、理論だとか原理などは、よりピュアなものである場合が多く、シンプルになります。
クォーク理論の論文はわずか2ページで書かれています。もちろん、論文ですから、本論以外の部分も含まれていて、たった2ページなわけです。社会科学系の研究者からすると信じられないことだと思います。
湯川秀樹博士の中間子理論にしても、私が計算しても、わずか4行程度の表現で、原子核内の世界を説明します。
このようなもの、たとえば理論物理に触れていると、雑然とした日常や世界とは異なって、見事に統合された世界や原理があるのではないか、と考えさせられ、美術的な感性に刺激を受けてしまいます。
さて、お話を戻したいと思います。
科学的な大発見などは、このようにピュア、そしてシンプルであるという特質があるのが普通ですが、それとはある意味対極にあるようなもの、つまり対称性の破れや不完全性、あるいは妥協などについて扱うものもあり、これもまた、とても大切ではないかと最近思うようになりました(社会の中での「中庸」もまた、同じです)。
「平均律」は完全に現実的な妥協です。しかし、非常に美しい妥協です。
この平均律のおかげで、さまざまなアンサンブルやオーケストラなどの器楽音楽が発達しました。
ジャズやロック、ポップもすべて「平均律」の恩恵を受けているとも言えます。
当然、「平均律」が最終形である、という保証はありません。
たとえばコンピュータを使った演奏の場合、楽器の制約がないので、楽器のための音階制約すらはずせるからです。
「非平均律」の方向に進むかどうかは不明ですが、このバッハの平均律の威力は、コンピュータによる演奏が出現するまで、何百年かは絶大だったといえますし、大きな影響を与えてくれました。
このように、私たちに役立つもの(ご利益?)を与えてくれるものこそが、たたえるべき偉大な発見、発明、そして業績だと言えるでしょう。
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グローバルマナーとローカルマナー
2009 年 3 月 11 日
これだけ早いテンポで国際化や情報化が進むと、ローカルな価値観の保持がなかなか困難になってきています。グローバルな価値観が強い勢いで広がっているからです。
一般的にはこのような状況下、「ローカルを大切にしよう」という意見が言われることが多いと思いますが、逆に、グローバルを早く取り入れないとトラブルを生じかねない、という懸念もあると思います。
高校での英語授業を英語で行うようになるという話は、小学校への英語授業の導入以上に、私にはとても重く感じられます。
上辺だけ英語になるのではなく、文化的な影響もあるからです。
2~3人で談笑していたときにどなたかがその部屋に入って来られたします。
グローバルなマナーだと、(入って来られた方へ敬意を表すべき場合は)みな、話をストップして立ち上がり、握手をしてあいさつする、といったマナーは日本人にも受け入れられつつあるマナーではないでしょうか?
思いめぐらせてみると、テーブルや車のシートの着席などなど、きりがないくらい、マナーの問題があります。
マナーは、敬意や謝意、思いやりなどが凝縮したものです。
言葉づかいすらマナーではないかとも思いますし、儒教的には、それは「礼」でしょう(服装ももちろん「礼」です)。
儒教だから、欧米マナーだから、あるいは日本マナーだから、という個別の文化に属したものではなく、もともと、もっとグローバルに、「人が人に気遣いをし、そのことを言外に伝える」という効果を持ってマナーは実行されるものだと思います。
日本の学校(小・中・高校)では、たとえば教師が教室へ入ったとき、どのようにするのが一般的でしょうか?
私が子供の時分は、クラスの誰かが号令をかけるまで、静かにするように気をつけることはあっても、自主的に起立することはなかったと思います。
どうでしょうか。
日本では、誰かが「起立」と言い、そして「礼」といって指示を受けるまで、待機するのがマナーであるようです。
しかし、グロバールマナーでは、その逆です。
敬意を払うべき人がいらっしゃったら、人から言われるのではなく、自ら起立して敬意を示します。
言い変えると、自主的に起立しない(=待っている)日本式は、グローバルでは非礼に当たるのです。
オバマ大統領の演説を見ていてかっこよく見えるのは、権威ぶっていないところからくると思います。
完全にフレンドリーなのに、堂々と意見を伝えるところが欧米式、グローバルな(民主主義的?)スタイルです。
これもマナーだと言っていいでしょう。
いまや、このような西欧合理主義・民主主義的、グローバルな価値観では、「同等」「対等」を示すことはマナーとなりつつあります。
アメリカ人、あるいはイギリス人でもそうですが、親子であっても「You」と「I」。父親の名前を呼び捨てるのがかれらのマナーです。それは上下関係を作らないからです。
もちろん、「Mama」とか「Daddy」などと呼んだりしますが、そう呼ぶ段階はまだ「子供」だと本人も親も認めているわけで、お父さんをたとえば「John」と呼べるようになったとき、まだ6歳でも、その子自身大人になったような自覚を持つことになります。
日本の「お父さん」「お母さん」は廃止して名前を呼び捨てよう、と申しているのではありませんが、これほどの違いが存在するのです。
英語の授業を英語でする、これはとてもいいことですが、実は非常に深い意味を持っていると思います。
グローバルマナーも入ってくるからです。
これまでの高校の英語の先生は、英語について教える先生でよかったのですが、この移行により、グローバルマナーも伝えられないことには、あるいはちゃんと意識して扱えないことには、(単にこれまでの日本語でしていた授業を英語に翻訳しただけの)ちんぷんかんの英語授業になってしまいそうで心配です。
心配ばかりしていても仕方ないので、教育指導要領が出たそうなのでダウンロードしてざっと目を通してみました。
うーん。抽象論しか書いていません。ポイントがほとんどつかめません。
教育する方々への要領(ガイドライン)ですから、もっと明確にあるものかと思っていたいのですが・・・。
他にも補助的なものがあるかも知れないので気をつけておこうと思います。
いずれにしてももちろん、基本は思いやりです。
コミュニケーションも、文化理解も。
グローバルに思いやりが伝えられるかどうかがとても重要になるわけです。
その意味でも、私たちが学校、とくに義務教育で学んでいるものは、ほとんど「社会科」であるとも言えるのではないかと考えています。
英語は社会科です。
道徳も社会科です。
算数も・・・社会科です(?)。
教育とは、人が社会的な存在として生きていくために必要な資源や技術を養成するわけですから、当然と言えば当然ですが。
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ディスニーランドでのお話
2009 年 3 月 8 日
今日、ご紹介するお話は、何度か聞いたお話です。たまたままた、お聞きしたので、記事としてご紹介することにしました。
このお話は、病弱の娘様を亡くしたご夫婦が、亡くなって一周忌の日に、連れていくいことができなかったディスニーランドに、供養のために夫婦で訪れた時のお話です。
・・・
ガイドブックを見て、かわいいお子様ランチがあることを知りました。二人は、亡くなった娘さんにも楽しませてあげたいと思ってそのレストランへ行ったのですが、8歳以下の子供しか頼めない規則だったようです。
あきらめかけたとき、お店の人(ディスニーランドのキャスト)にオーダーできるかどうか尋ねてみたそうです。すると、
「三名様、こちらへどうぞ」
とご案内いただき、4人掛けのテーブルになんと子供用に高い椅子まで持ってきてくれ、
「本日はよく来てくださいました。どうぞご家族で楽しいでいってください」
と、まるで亡くなった娘さんがその場にいるかのようなもてなしをしてくれたそうです。
奥様も、ご主人さまも涙があふれる感動をいただいたそうです。
・・・
このディスニーランドの「お子様ランチ」お話は、いろいろな方から教えていただきました。
内容を知っていても、また涙が出てきてしまうのは、どうしてでしょうか?
接客の心がけの観点で伝えられることもあります。
また、「共感」の大切さを知るお話でもあると思います。
かけがいのない、大切な命を失ったご夫婦の思いももちろん伝わりますが、そのお気持ちを一人の従業員がその場で理解し、対応している様を想像することに、心が動かされてしまわないでしょうか。
私たち人類は、人の痛みも理解できます。
人の痛みが別の人に伝わることにも、感動してしまいます。
これは、きっと私たちの本性であり、この本性を大切にしたいものだと思います。
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「まじっすか」
2009 年 2 月 26 日
今朝、会社へ向かって足早に歩いていて聞こえた人声。
「まじっすか」
ビジネススーツを着た若者が、もう一人の若者(おそらく会社の先輩)に話した言葉です。
年齢の高い人たちには、話し言葉として納得できない向きも多いでしょう。
しかし、若者同士の会話としては決してブロークンでないことをお伝えしたいと思ってこの記事を書いています。
常識的には、目上の人にこのような言葉づかいはよくないということは、若者もわかっているはずです。
しかし、日本語のむずかしいところは、あまりかたくるしく話したくない間柄がある、ということです。
「そうなんですか」
というと、ちょっと堅苦しくなるから、「まじっすか」になったのだと考えられます。
とくに、東京の言葉の場合、硬い敬語かブロークンな俗語か、二択になってしまうことが多くて悩ましいシーンがあります。
(これが、日本語の一番難しいところです。英語では「I」と「you」だけ!動詞や助動詞を使い分ける必要がないのですごく楽です)
その点、近畿の言葉の場合、やわかい尊敬(・・・してはる、とか)があると、表現にバリエーションが出るのでとても便利です。博多弁の「・・・しとらす」もこれにすごく似ていますが、東京弁・標準語にはそのような表現がないのです。
さて、じつはこの記事で書きたかったのは、もう一つあります。
それは、日本語の「す」についてです。
日本語は重要な言葉を最後にもってくる言語です。
・・・が・・・を・・・しなかった
のように、一番最後に過去を表わす「た」、否定を表わす「ない」そして、「する」があります(末尾から文頭へ)。
対話では、「です」「ます」をつけますが、「です」は「であります」が略されていると考えられます。
この最後の「す」はもともと現代語の「する」と同じ「す」です。
ここで、ちょっと分析的に言葉をみてみましょう。この私のブログの記事、最初からここまで、ほとんど終わりは「す」です。
まだ、日本語がよくわからない人にとっては、対話している日本人は
・・・す
・・・す
・・・す
・・・か
・・・う
・・・す
・・・す
という具合に、「す」の連発、オンパレードです。
たとえば、私はほとんど韓国語を知りませんが、
・・・か
・・・よ
・・・だ
などのように、(文法だけでなく)日本語と非常に似た末尾の助詞が並んでいることに気がづきます。
私たち日本人は韓国語を聞いただけではほとんど意味がわかりませんが、言語学者によると、同一言語の方言程度の違いだ、という方もいらっしゃるくらいです。
さて、日本語の文末の「す」。何も分からない外国人が聞いたなら、「す」が文末(ピリオド)を表わすのではないか、という仮説を立てる人も出てくるかもしれません。
「です」はたいてい英語の「be」に相当し、「ます」は「do」に相当することが多いので、それをさらに分解した末尾の「す」は、英語の「be」も「do」も包含した事象を表わす概念、または伝達を表わすものではないかと考えられます。
たとえば「まじっすか」。
これは、「まじ」「です」「か」を短く言ったものです。
「です」の「で」が「っ」になっても、「す」は消えません。
日本語がどんどんブロークンになっている、という方もいらっしゃいますが、私流に言いますと、少なくとも二千年くらいは、骨格は壊されていないのではないかと思います。きっと、もっと古いのだと思います。
すごく強力な語だと思いませんか?
さて、この「ませんか?」の中に「す」があります。どこでしょうか?
はい。
「ます」「えん(ぬ)」「か」
をつないで話しているだけですから、「せ」の中にいました!
見つけましたね!
こんなことを考えていると日本語もとても楽しいですよ。
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クリティカルエイジと英語脳
2009 年 2 月 25 日
ドクター苫米地によると、動物の器官はそれぞれ遺伝的に決まっている、機能が成長してとまる年齢というものがあって、脳の言語機能については、8歳から13歳だそうです。
これは、小学生高学年くらいまで海外で過ごした人たちはバイリンガルになっても、大人になってから海外留学した日本人がバイリンガルになるのが難しいことを意味しています。
生物の進化と密接な関係がある、このクリティカルエイジというものは、環境に対する最適化を行い、それを維持するようにした仕組みだそうです。そのため、8歳から13歳までに自身の脳が定めた言語を、自分の言語として固定してしまうのだそうです。
では、クリティカルエイジを克服して新しい言語を身につけることはできないのでしょうか?
ご存じの通り、10歳くらいまでに学んだ方法で学べたらいいのですが、苦労を伴うことはありますが、不可能ではありません。
ドクター苫米地は、「新たな言語機能を脳に作ればいい」との意見をお持ちで、彼はそれを「英語脳」と呼び、この言葉は広く使われるようになりました。
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日本人の英語学習法の何が問題だったのか?
2009 年 2 月 19 日
時間をかけたのになぜ、英語が話せない?
日本人はなぜ、何年も英語を学んでも、聞いたり話したりすることが苦手なのでしょうか?
原因として指摘されているものには諸説あります。
「学校の授業が文法や英文解釈中心だから」ということ、つまり「オーラル(ヒアリングとスピーキング)のウエートが低いことが原因」という意見を多く聞きます。それは事実ですし、解決の鍵がそこにあることは確かです。
では、ウエートを逆転すれば話せるようになるのでしょうか? 重きをヒアリングとスピーキングの時間にかければスラスラ話せるようになるのでしょうか?
あるいはまた、考え方が異なる別の意見として、「日本人ははずかしがりやだから」とか、「正しさを求める完璧主義だからなかなか話さない、だから話せない」という意見もあります。それも原因の一端を伝えています。
名詞の単複や動詞の時制など、文法的なことは無視して、ブロークンで話せる人の方が、間違いを気にして話せない人より外国人とコミュニケ―トできることも事実です。そして、軽く言葉が出る人の方が、口が重い人より早く言葉を習得していきます。
しかし、よくしゃべっているのと、うまく伝わっているのは違うことです。
外国人の日本語を聞くときに、分かりやすい人と分かりにくい人がいませんか? 多少のなまりや癖はあっても、聞きとりやすい日本語を話す外国人と、何を言っているのか分からない外国人の日本語がありますよね?
「私のブロークンはよく伝わる」と自慢する人もいますが、実は、聞く方が「外国人」を気遣ってくれて、意識を集中してエネルギーを費やして聞いてくれていることを知っておかなければなりません。
ですから、学ぶときに間違いを恐れないことは大切ですが、国民性が問題で話せないというのは、ポイントがずれていないでしょうか。
日本にいて、英語をしっかり身につけられた方の多くは、長文(文字)を読み、辞書を引き、日本語と英語とを行ったり来たりして、大変な労力、ストレスを脳にかけて勉強されてきています。さらに、英字新聞や英文雑誌を読んだり、映画を観賞したりと、膨大なエネルギーを注いで取り組み、身につけられたことでしょう。そのような方には、本当に頭が下がります。
言葉は、簡単に身に付けられないことは事実ですが、ある程度時間をかければ誰でも身に付けられるのも事実です。つまり、英米人、オーストラリア、ニュージーランド人たちは育ちながら英語を学んだのであって、母国語環境であれば多大な苦労をせずに英語を操ることができるようになる、ということです。もちろん、逆の言い方をすれば、英語を母国語とする人たちは、誰もが完璧で高度な英語を読み書きできているわけではない、ことも真実です。
ここで問題としていることは、私たち日本人が中学校、高校、大学と、かけた時間や労力ほど言語理解と伝達能力が身についていないという事実です。
この、即応できる言語能力を得られていないことが一番問題なのです。
たとえば、端的に言いますと、「非常に平易に話されているオバマ大統領の演説の英語を聞いてわかり、その程度の英語を話せるレベル程度まで、どのようにすればできるか」という問題です。シェークスピアレベルの英語を味わったり表現力を付けようとしているのではなく、普段の会話やスピーチ程度の語学力をどうつけるか、ということです。
これまでの英語学習の中で、スキル習得に役立たなかったり、逆に阻害しているものはなかったのでしょうか?
言葉を音ではなく文字(記号)として扱ってきたことの問題点
漢文手法で中国語を読んで理解してきたように、英語も同じように扱ってきました。日本人にとっては、文字を見て声を出す、あるいは、声を出しているときに文字を見る、というようにしてきていないでしょうか? 英文を声を出して読み、人が読んでいるときに文字を見る、ということです。
ちょうど携帯に依存する人が携帯の画面に釘付けのように、授業中、英文字に依存して発音を聞いたり、英文字を見ながら発音したりしていることです。「顔を見て話そうよ!」とテキストを置いて授業ができていない、という問題を述べているのです。
それこそ、「文字を離れて話すと文法ミスをしそうで心配だ」という方がいらっしゃるかも知れません。このことは、先に指摘した性格の問題にも関わりますが、たとえば、自転車に乗れるようになりたいときに、補助輪は必要ですが、ずっと補助輪を付けつづけても乗れるようになりません。辞書や文字にぴったりくっついていたら、逆にこぎ出すこと、離陸が難しくなるのです。
また、日本の教育課程では、テストで「英文を訳せ」「和文を訳せ」「文法の誤りは何か」「正しいものはどれか」といった問いに答えられること、つまり、設問に答えられるようになることがあたかも教育の目的のような結果を生む仕組みになっています。
すると学ぶ側の心理としては、言葉を習得したいという長期目標は持っていたとしても、得点を取るという短期目標に負けて、訳すテクニックを身につけることになります。
そうです。漢文式の「音声認識」ならぬ「文字(記号)認識」です。それを日本語での思考を使って行うのが最も速く効率的なやり方です。文法問題も、はたまた、発音問題までもパターン化して覚えようとします。教師の側も正当数や正当率で「英語」の力を測っていると思っていますが、実は、「英語」に関わるパターン蓄積と正解解答能力を計測しているだけなのです。
このように、記号、文字に対する反応能力を要請しているわけですから、音に対する能力はなかなか育てられていないのです。実は、このような教育の問題は、英語だけでなく、すべての教科、すべての学問についても言えることなのですが、ここでは、話は広げないことにします。
私たちはこのように、日本語を使って授業を受け、文字を見て理解しようとし、問題を解こうとすることを長年続けていきます。外に出たとき、補助輪(文字)が外されます。それを頼りに学んできたのに、それをはずされたらたまったものではありません。
このような苦労を何年やっても話せるようにはならないのは非常にもったいない、残念なことではないでしょうか?
しかし、海外(英語圏)に身を置き、自由に話せるようになった方々は現在、非常に多くいらっしゃいます。どこが日本での学習と違ったのでしょうか?
当然、日本語がない環境であることが一番大きなポイントです。つまり、日本語を思い浮かべる間を持てない状態にいることです。
辞書をよく引いたから言葉を学んだのでしょうか? そういう方もいらっしゃるかも知れませんが、たいていはその逆だと考えます。音を聞き判断しなければならない状態になっている、ということです。日本語や英単語が入り込まない状態に置かれている、ということが最大の要因でしょう。
もっと自然な学び方がありそうです。そうです。赤ちゃんの言葉の習得方法からおのずと、答えが分かるのではないでしょうか。
理想は赤ちゃんの言語習得
赤ちゃんが言葉を学ぶときに、文字が必要だったでしょうか? 早く字を覚えてほしいとして、話す都度文字を見せることをやっていたらどうなるでしょうか? そのようなことをやり続けたいと思いますか? やるべきだとお考えですか?
ひょっとして、あやまった言葉づかいを習得しないよう、幼年期あるいは学童期に、辞書を引くことをさせ続けるとどのようになるでしょうか? 実際にそのような小学校があることをご存じの方もいらっしゃるでしょうが、私は賛成しません。辞書依存症に育ててしまうことは、誰しもが想像できることです。山のような付箋をつけた辞書を持ち歩く子供たちから、辞書という「補助輪」を取り上げるときのことを考えると、私は心が痛んでしまいます。
私たち日本人が英語という教科を学ぶにあたり、文字に依存した学習を行ってきたことがお分かりいただけたでしょうか? また、母国語でない外国語を学ばせるときには、どれだけ不自然な方法を行っているかおわかりいただけいただけたでしょうか?
では、母国語でない言葉を学ぶには、わかるようになるまで、ただ聞き続けさえすればいいのでしょうか?
理解でき、話せるようになるまで、わからない言葉を聞き続けることが唯一の学習方法でしょうか?
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「ききまね」で育てる英語脳
2009 年 2 月 5 日
1つ前の記事でも基本的なオーラルの英語力をつける方法についてご説明しました。
同様の意見を言われている方も多くいます。
代表的な方は、「英語は逆から学べ!」の苫米地秀人(とまべち・ひでと)さんです。
ドクター苫米地は、私と同年の生まれですが、実は、私は入れ違いで彼と同じ研究所にいました(私が彼の使っていた机を使ったので覚えています)。彼は覚えていらっしゃらないかもしれませんが、学会などでいっしょだったこともあります。
脳機能学者・計算言語学者で、エール大学、カーネギーメロン大学(博士)、徳島大学、ジャストシステムの研究所長などを務め、オウム真理教信者の脱洗脳や国松長官狙撃犯の記憶回復を手掛けたりと、本当にいろいろなことに関わり、また、脳機能や学習法などでベストセラー、ミリオンセラーを売りまくる彼が提唱したのが、「文字を見ない」英語脳の育て方です。
実にそのとおりだと思います。
ドクター苫米地は、「ホームドラマなどを聞き流せ」と言っていますが、基礎の基礎部分は、最初は難しいのではないかと思います。
そこで、英語脳の基礎部分を育てるための教材を作ってみようか、と考えました。
現在進行中のプロジェクトを少し早いのですが予告編として公開することにします。
キーワードは「ききまね」「ききまね英語」です。
専用のサイト(http://kikimane.com)を立ち上げる予定です。
今回の記事は、その12カ条からなるキャッチコピーです。
【1】ききまね英語は、聞いて真似するだけの簡単な方法ですが、野球がうまくなるために、キャッチボールや素振りをするようなものです。基礎練習せずにすばらしいプレイをする選手がいるでしょうか?
【2】言葉は音です。日本語も英語も音です。自然な英語を繰り返し聞くことで、着実に英語脳を成長させます。
【3】ききまね英語は、聞いて真似するだけですから、聞くことと、真似することに集中できます。状況、雰囲気、発音やアクセントの違いに気をつけて聞きましょう。
【4】ききまね英語は、長年英語を学んでも話せない主原因の「文字依存症」から脱却させ、英語脳をしっかりと育てることが目的です。
【5】音に集中することで、音声認識の精度を上げ、英語脳の成長を促進できます。
【6】音がしっかりと英語脳に定着するまでは、文字、単語、英文は読まないようにしましょう。読むのは、たっぷりききまねした後です。もちろん、洋画の英語字幕も控えましょう。
【7】スペルを覚えるのは、ちゃんとききまねできるようになってからで遅くありません。正しいスペルを書けなくても、英語圏で難なく話して生活している人もいます。
【8】基礎単語1000語くらいは、しっかりききまねしましょう。日常会話の半分以上はカバーします。
【9】間違うことを恐れる必要はありません。ききまね練習が足りないことを心配しましょう。とくに、英語だけで過ごす時間を持てない人は、自分のプライベートで、ききまね時間を作りましょう。
【10】正しく聞き取れていなくても、正しく発声できていなくても、数をこなせば、自然に正確さが増していきます。味見するように、耳をしっかり澄まして聞き分けてみてください。違いがわかれば、今度は真似してみましょう。
【11】ヒアリングは鑑賞です。スピーキングは演奏です。ききまねは、一人で自転車を運転できるようになるように、補助輪付きで走っているようなものです。この、鑑賞と演奏の基礎練習のおかげで、まもなく自分の言葉が口をついて出てくるでしょう。
【12】あれだけ複雑な自転車の運転も、やっているうちに、考えずにできるようになります。英語も考えずに口をついてでてくるまでは、音、アクセント、スピード、ポーズすべてを吸収しながら何度も真似しましょう。できてから、スペルも覚えましょうか。書けた方がいいですから。
具体的なトピックと内容など完全にフィックスしたわけではありませんが、お試し版と初級版を早急にリリースする準備を進めようと思います。
生徒たちだけでなく、中学や高校の英語の先生方にも役に立てばいいと思います。
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高校英語授業への期待・心配・対策(1)
2009 年 2 月 2 日
2013年から高校の英語の授業が「基本的に英語でされる」ようになる話は、以前お伝えしました。
私はこのプランに大賛成です。
きっと困難や問題は発生するでしょう。けれども、きっと改善努力はなされるでしょうし、それは決して無駄にはならないと思います。そして、多少なりともグローバルな時代の人材育成にプラスになると思います。
それどころか、これまで暗記や穴埋めにかけてきた時間が多少なりとも、思考や伝達の力を高めるために活かされるのではないかと、心から楽しみにしています。
もちろん、心配に思うものもたくさんあります。
ここでは、期待、心配、そしてその対処案も考えていきたいと思います。
【期待1】 英語は書かれた英文を読むものだ、という慣例の打破
私は「書かれた英文を読む」という学習法への偏りにより、本来「人の顔を見て話す」というスキルを育てるのに失敗している、と考えています。
先生が読む、生徒が読む、自分が読む。その間はテキストの字面を目で追いかける。
・・・ これが日本の学校での一般的な英語の接し方です。
音を聞くのは決して問題ではありません。問題は、音を聞いている間、文字を目で追いかけていることです。
その習慣化により、聞いた音を頭で吸収する前に、文字との対応ずけをする思考回路を作り上げていることが問題だと思っています。
発話する人の顔を見ながら、この単語かな、あの単語かな? と考えながら聞く習慣を全く身につけないのです。
本来、言葉は音でしかありません。
記録のために文字というものが発明され、利用されているだけです。相手を見ながら音を聞いて頭で理解する、のが基本です。
スペルを頭で考えている時間はありません。これは別の技術です。この、大人の技術は次の段階で利用するものだと思います。
この基本をやらず、音声・文字対応作業をやってきたため、英語を音として聞き取ることも、音として表現することも、なかなかうまくできないようになってしまったのだと思います。
非常に変わった英語教育を日本では行っていないでしょうか?
「いや、私は、文字を見て、手で書いて、声で出す作業をしてきた」
といわれる方もいるでしょう。たしかに学習効果が高い方法ではあります。
でも、私に言わせていただくと、言葉の習得という本来的な順番は、まったく逆です!
「音を聞いて、音を言ってみて、文字を見せてもらい、文字を書いてみる」
これが言葉を学ぶ自然な流れです。
なぜ、逆の流れをやるのかと言えば、合理性、効率の理由からです。
手渡された教科書や学習資料をもとに、自分で学べるようにすることを求める「日本的合理主義」(要は教える手間を少なくする技術)です。
穴埋め問題をするのも、採点を楽にするためです。
もちろん、漢文として中国語を日本語に置き換える伝統も、このような方式が根付かせた原因だとも思います。
「漢文」の先生は中国語の先生でしょうか?
同様に、これまで教えられてきたのは「英語」ではなく「英文」だったのではないでしょうか?
英語の先生ではなく、「漢文」の先生のように「英文」の先生。
先生も生徒も話せなくて当然なのです。文字として学んでいるのであり、対応付けに終始し、言葉、音として学んでいないからです。
文字と音との関連付け作業をやりすぎたため、英語能力が非常に偏り、音の認識力が極端に低下させているのです。
そのような教育を何十年も行ってきたわけです。
【心配1】 高校では、英語授業がわからない人を増やすのではないか
高校に入って急に英語での授業になったとき、「先生が何を言っているのか分からない」という事態が生じる可能性があります。
とくに中学時代に英語を聞く、真似る時間をしっかりかけていないと、このような事態になってしまうでしょう。
まず、中学英語を変えなければなりません!
【対策1】 中学時代にしっかり聞く、真似る時間を
もちろん、最初の最初のころ(中学1年の1学期?)は、音を重視していたはずです。
意味も分からずに、「リピート・アフター・ミー」と言われて、文字もろくすっぽ見ずに後をつけていた頃は、誰もが英語は楽しい教科だったでしょう。
ものまねするだけでいいのですから、楽しかったはずです。
とことん楽しむべきです。とことん真似するべきです。
この楽しさを少なくとも千単語くらい覚えるまでは持続させるべきだと思います。
・・・
同時通訳を目指す人が最初に徹底して行う訓練は何だと思いますか?
ひたすら、聞こえる英語を(多少の時間的な遅れは生じさせながらも)後をつけて発声するのです。
英語と日本語の同時通訳をするために、英語を聞いて同じ英語を話す練習をするのです。
これは、リピートともパロット(オウム返し)とも言いますが、この鍛錬をとにかく続けます。
そして、少しずつ英語の発声を遅らせてきます。(これは脳にためる練習です)
この練習を続けていくことで、最終的には、聞こえた音を日本語表現へと移すことができるようになるのです。
基本は聞くこと、次に真似することです。
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オバマ勝利演説分析:3点列挙法
2009 年 1 月 19 日
オバマ氏の演説の本が売れています。
A.なぜ、ここまで人を引きつけるのか、少なくともテクニックの面で知りたい人たちがいます。
B.一般の人に感動を与える、思想的なものは何なのか知りたい人たちがいます。
C.あるいは、人が感じている感動を自分も味わいたい人たちがいます。
以前に、「エンパシー(empathy: 共感)」にポイントを置いて、思想的、論理構成的なデンタツについてお伝えしました。これは、Bに関連するものです。
今回は、一般に伝えられている、いくつかのテクニックについてお伝えします。日本のマスコミでは、「オバマ氏の演説は上手」と伝え、また、「どこが上手なのか」知りたい人たちが多くいますので、その点について少し議論したいと思います。
そのうちの一つは、「3点列挙法」と呼ばれるものです。
頭の中に残っている余韻に共鳴させる方法です。
これはベートーベンの運命のテーマである「ジャ・ジャ・ジャ・ジャーン」と同じです。
強いインパクトをもったフレーズを繰り返すのです。
そして、それが真実のもの、現実のものである迫力を作りだします。
私は「オバマ氏は単にテクニックのレベルが高い」ということをここでお伝えしたいのではありません。この説明をとおして、オバマ氏は、テクニックを最大限活かすように、考え抜いていることがわかることをお伝えしたいのです。
営業のトークでも、政治家の演説でも、宣教師の説教でも、一番大切なものは、人の心にどれだけ響かせられるか、ということです。
すごい、ということを伝えるのに、「すごい」と最初から連呼する方法もあるでしょう。でも、すごいとは思っていない人にはあまり通用しません。響きません。
さて、シカゴでのオバマ氏の勝利演説の最初は、ネガティブとポジティブの混合した表現から入ります。
Hello, Chicago!
If there is anyone out there who still doubts that America is a place where all things are possible; who still wonders if the dream of our Founders is alive in our time; who still questions the power of our democracy, tonight is your answer.
シカゴの皆さん!
もし、(今ここに)まだアメリカがなんでもできる、ということをまだ疑っている人がいるならば・・・、また、私たちの建国者たちの夢が生き続けていることを疑っている人がいるならば・・・、そして私たちの民主主義について疑問を挟んでいる人がいるならば・・・今夜がその答えです。
最初から、このように3回も疑いについて繰り返しています(彼の疑いへの疑いです!)。
そして「my answer」ではなく「your answer」なのがポイントです。しばらく後でそれが分かります。
注:doubt(ダウト:うそだろうと思って疑う)、question(クエスチョン:本当かどうか信じられず疑う)
最初の部分を打ち砕くために、それから後の3点列挙法を使用します。
It’s the answer told by …
It’s the answer spoken by …
It’s the answer that led those who’ve been told for …
「なぜならば」と畳み込むように「It’s the answer」を連発します。まず、最初の「It’s the answer」フレーズを見てみましょう。
It’s the answer told by lines that streched around schools and churches in numbers this nation has never seen; by people who waited three hours and four hours, many for the first time in their lives, because they believied that this time must be different; that their voices could be that difference.
学校、教会の周囲にどれなに長い列ができましたか?こんなことこれまであったでしょうか?ほとんどの人にとって、3時間も4時間も投票のために待ち続たことなど初めてだったのではないでしょうか。どうして、こんなことが起こったのでしょうか。今度は違う。今度は自分たちの声が届くと考えたからではないですか?そう、これが1つの答えなのです!
(順番を変えて意訳してみました。)
このようにアメリカの可能性について疑いを持っていることに対する否定を、オバマ氏ではなく、彼の可能性にかけ、熱狂的に支持する人たちの行動という事実を伝えることによって行います。
勝利演説でありながら、「私たちは勝った」とか「自分は勝った」とは言わず、間接的に投票者を称えることで、否定的な意見に対し強烈な攻撃を行います。
しかも、それを三連発するわけですか、ひとたまりもありません。
上のフレーズはその三連発のうちの一発です。
次のフレーズに入ってみましょう。
It’s the answer spken by young and old, rich and poor, Democrat and Republican, black, white, Hispanic, Asian, Native American, gay, straight, disabled and not disabled — Americans who sent a message to the world that we have never been just a collection of individuals or a collection of red states and blue states. We are, and always will be, the United States of America.
若者も老人も、金持ちも貧乏人も、民主党支持者も共和党支持者も、黒人も白人もヒスパニックもアジア人もアメリカ先住民も、同性愛者も非同性愛者も障害者も健常者も。皆が、赤い州(共和党)、青い州(民主党)が混ざった個人の集まりというのではなく、「アメリカ人」として、世界へメッセージを伝えたのです。私たちは、現在、そして未来も「アメリカ合衆国」なのです。そう、これも1つの答えなのです!
時代的な広がり、多様性をすべて出し、すべて認め、すべての力を集める主張をすることで、エネルギーを集めてきたオバマ氏の思想を端的に表すフレーズだと思います。
力を集めるために、敵対するのではなく、二分法を提示するのではなく、「加える」のです。
日本では「チェンジ(変革)」ばかりに脚光があたり、「人々は変革を求めた」と伝えられていますが、オバマ氏の手法の特徴は、変化より、過去と現在と未来の統合であり、分離や分割や対立ではないのです。
英語で「chnage」と言うと、私には「着替える」という意味が一番目に上がってきます。
これは自動詞です。自ら行動し、自ら変化するものです。一般的には、他動詞であり、「他を変える」という意味に考えられがちですが、私は「変わろう!」と言っているように感じられます。
リンカーンやケネディーをなぜ持ち出すのでしょうか?
彼が、単に真似したいからではありません。
皆の心にある希望を振動(=共感、共鳴)させているのです。
人にアピールするときは、相手の心の響くところを響かせるのが一番です。
「そうだ」と思ってもらえるのが一番です。
ちょうど、柔道で、相手の力を使って技をかけるのに似ていると思います。
でも、もう一度申し上げます。
オバマ氏は考え抜いてテクニックを駆使して伝えているのです。
決して、ブッシュ大統領の演説のように「我々側か、それともテロリスト側か」のような単純で浅い思考ではないのです。
もちろん、「I」を極力排除する、謙譲の美も強く意識していると思わざるを得ません。
しかし、それでもアメリカ人に強烈にアピールするのです。
いえ、世界中に。
(3点列挙法の3番目については、次の機会とします)
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詩人ジェームス・カーカップ氏の「ニュー・ジャパン・ナウ」
2009 年 1 月 14 日
私が大学生だった頃ですから30年ほど前、英国生まれの詩人ジェームス・カーカップ(James Kirkup)氏が書いた「New Japan Now」という薄い英語の本を、たまたま書店で手にして読むことになりました。
ジェームス・カーカップ氏のホームページ:
http://jameskirkup.com/
英語を専攻しない私が、専門書や実用書でない英語の本を買うことはまれなのですが、なぜ手にするようになったか覚えていません。
でも、読み始めると、ぐいぐいと引き寄せられてしまいました。うーんとうなりました。どうして、日本人でないのにこんなことがわかるのか不思議でした。
彼が詩人だったことはもちろん知りません。また、そのようなことも書かれていなかったのですが、彼の英語の美しさにも引き寄せられ、読み続けさせられたのだと思います。
この本の前に「Japan Now」という書を彼が著わしているのですが、それから10年ほど経過して日本の状況が変わってきたので、新しい日本について書くことにした、とのことでした。
実は、本の半分以上が、ある意味、痛烈な日本批判でした。一方、高度経済成長する日本に対して、「お願いだから日本人は日本の良さを捨てないで!」と嘆いていました。
例えば、選挙宣伝カーの騒音や、電車が来るときに大音響で「電車が来ます!白線の内側に下がってお待ちください!」「ドアが閉まります!」とけたたましい音を流す日本について苦言を述べられています(私が知っている限りイギリスでは、電車のドアが閉まる時に一切アナウンスがない)。
日本人はこれまで、静寂や虫の音、風鈴の音を楽しみ、お茶をいただき、風流を楽しみ、身近な時間と空間を楽しんできたのに、どっぷりと騒音と商業主義につかっていることを悲しんでいました。
彼は日本人以上に古き良き日本を愛し、日本人の生活感覚のすばらしさを訴えていました。特に、がんこな日本の老人をほめていました。
そして贅沢でなくても、今、生きている日常の生活の中に、美意識や楽しみを持つ、まさに、日本人しかわからないような感性、文化の美しさ、すばらしさを驚嘆していました。
彼はそのことを「クオリティー・オブ・ライフ」(Quality of Life)と呼んでいました。これはいわば生活の楽しみであり、「生き方の品格」にすら通じるのではないか、と私は思います。
・・・
これは、欧米の文化とは極をなすものです。
欧米の化粧品の広告を見て、気づく方はいませんか?
化粧品でも、装飾品でも、家具でも何でもいいです。
「優越, Excellent, Super, Victory」がキーワードとなっているものが多いのです。
優越、あるいはナンバーワンが重要です。
たとえば、飛行機に乗って、目の前に高級カタログがあったとします。そこには、必ずや欧米式の「優越する」品々を光沢が飾り立てていませんか?
もちろん、「きれい!」と日本人は思います。特に女性はそうでしょう。
庶民にとっては、そんな時間の方が特別です。だから、高級そうな香水、バッグなどに目がいってしまいます。
すばらしいものは高いものです。他の人々が買えないものをもっていることが優越です。すばらしい品々とエクセレント、スーパー、そしてナンバーワン。
たとえば、階段を上りながら上から美しい女性が見下ろす「○ッ○○スーパー○ッ○」のテレビコマーシャルは、優越をキーワードとする典型的な欧米型の美の表現です。
このコマーシャルを全世界に流しています。アフリカでも、中国でも、インドでも、そして日本でも。
これが悪い、と言っているのではありません。
しかし、私は、どうしても、一神教的、絶対的、優越的見方、考え方、表現法を感じざるを得ません。
動物文化、あるいは牧畜文化、家畜の群れより優越するリーダー式に感じざるを得ないのです。
動物には、優越する唯一のリーダーで十分です。
これら絶対性・優位性が、ある意味、価値観あるいは文化衝突の根本原因となるものなのです。
日本人でも、優越するものに美しさを感じます。わかります。ほしいと思う人も多くいるでしょう。
でも、とりたてて特別でない、目の前のものにすら愛情を注ぎます。楽しみます。
(※欧米人も小物を楽しんだ入り、心のこもった小さなプレゼントやカードを送りますので、彼らにそのような感覚が分からない、と言っているのでは決してありません)
それをつかって、自分だけでなく、周囲とデンタツします。
絶対的に優越していなければならない必然性はほとんど必要ないのです。
これこそ、ジェームス・カーカップ氏が言った「クオリティー・オブ・ライフ」ではないでしょうか。
こけしや折り紙など典型的な日本らしさのものがありますが、私は、プリクラすら、現代の日本的な美であり遊びであると思います。
そして、漫画・アニメだけでなく、「カワイイ(Kawaii)」は、いまや、新しい価値観として世界へ発信されています(数年前の朝日新聞の元旦の大特集はこのKawaiiについてでした)。
セリ君が驚いた「痛いの痛いの飛んで行け!」も日本文化ではありますが、アフリカ人にもとてもよくわかる表現のようです。
金融という資本主義の屋台骨がけたたましく崩壊しつつある今、身近な美、楽しみを広げていく日本的なクオリティ・オブ・ライフが、今後世界にアピールし、広がっていく底力があるのではないか、と考えています。
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ご利益指向、厄・祟り回避文化の日本
2009 年 1 月 12 日
日本は、他のアジアの諸国とも文化をシェア(共有)しながら、独自の文化を形成しています。
日本人は一般的に、
【1】 タブーや扱いたくないことは上手に避けながら、
→ エネルギー損失は最小
【2】 感性・感覚を尊び(楽しみ)、
→ 若さを保ち、人生を謳歌できる
【3】 雑念を生じさせずに「ひたすら」はげむことを美徳とし、
→ 労働の美徳を保持しながら、無駄な思考・フィードバックを回避
【4】 疑わず、無防備で 性善説的な振る舞いをし、
→ 拳銃を下げた、警官の格好をした人を疑わない
【5】 ちゃんと漠然と多方面に感謝をしながら、
→ 「応援ありがとうございます」、のアスリートだけでなく
→ 先祖・周囲すべてに感謝
【6】 厄を払うことや祟りを回避することを強く願い、
→ 過去の日本ではこの重要性が非常に高かった
【7】 ご利益をささやかに求め(祈り)、またありがたく受け、
→ 温泉の効能だけでなく、神社仏閣すら「ご利益」で定義する
→ 米軍に守ってもらえるのも一種のご利益
【8】 不満について漠然と「政府が悪い」とガス抜きをしながら、
→ 革命で政府を壊すエネルギー、経済的な損失を生じない
【9】 杓子定規に法律を適用せずとも柔軟に対処することができる
→ 見事に法律と効率の間を縫って合理的な判断をする
【10】 ただし、問題があったときに、感覚的にざっくり捉え、あまり深く考えたり対処はしない
→ これが前の記事などで問題としているものです。
→ とことん責めること、改革「チェンジ」をしません。
という特徴があるように思います。
(これまでの私の分析的な観察を列挙しただけですから、まだまだあるでしょう)
これらの特性は個人の精神の安定性に役立っているものも多くありますが、社会の安定にも役立っているものが非常に多くあります。
【9】については、私が面白いと感じる事例が山のようにあります。また、【10】 については、これまで、かなり厳しく指摘してきています。壊さない、という保守性のメリットがある反面、改善できないというデメリットがあり、一番気になる特性です。
このように、日本人、日本文化は、対決や解決の分析や作法から程遠いにもかかわらず、実は、無益な争いを上手に回避する、争いを長引かせない技を持っている、とても愛すべき性質を保持していると思います。
私は、このように平和的な特性を持っている日本が大好きです。
外国人は日本人を「チャーミング」だと評しますが、他意がなく、魅力的です。言い過ぎると「イノセント(馬鹿正直のような、子供っぽさを含みます)」です。
やや茶化した表現になっていますが、実は、その生命力の強さと「美」感覚をとても尊敬しています。
私は、リーダーシップといった直接の形ではないにせよ、何らかの形で、このような特性が、必ずや世界の平和と安定に寄与するのではないか、と考えています。
どうしてかというと、世界制覇の野心が全く無く、タブーには触れず上手に、自分にとってご利益となるものは、しっかりと加えていく生き残り術を持ったまま、思いやりを発揮できるという、かなり高度なパワーがあるからです。
千年以上前、仏教を取り入れたときも、これまで保持してきたものをマイナスとはせず、仏教のご利益をプラスとしてきました。
日本の神社仏閣で、特徴、すなわちご利益がないものはほとんどないという事実も、非常に面白いと感じませんか?
日本文化は、本来足せないようなものでも、ちゃんと加え、みごとに融和させるという「生き残りの技術」があります。
牧畜文化は区分します。除きます。選別します。落とします。場合によってはタブーを衝突させます。
一神教文化同士は終わりの無い戦いを行うことがあります。
ダーウィンの思想は単にシンプルだから成立しているのではありません。きっと、「動物=生存競争」というものに根ざした文化があるのではないでしょうか。そのような思考パターンが厳然と存在しています。
私は、願わくば日本の「カワイイ」文化が世界の緊張を和らげ、戦闘地域の戦意を消失させることに役立たないかと祈っています。
「日本人女性は美しい」のようなCMを、イラクやイスラエルで流したいくらいです(もちろん半分冗談ですが、冗談が現実になるのもこの社会だと思います)。戦意喪失のマジックは日本にはたくさんあります。だって、竜宮城ですから!
もちろん、日本文化が完璧だと言っているのではありません。
本当の意味で日本人が合理性も身に付け、タブーにも上手に付き合えるようになれば、鬼に金棒です。怖いものなし!
だから、キーワードはハイブリッドなのです。
元来、チャーミングで、気配り、配慮ができ、他を尊ぶ人々です。世界の人々から好かれるのは当然です。
そのような中にあるからこそ、日本が戦争の負の遺産を清算できていないことを非常に残念に思います。
しっかりした独自の憲法であれ、国会決議であれ、政府見解であれ、自ら進んで出せないのです。作れないのです。変えられないのです。
本来大切な軍隊=自衛隊の掌握とコントロールについてしっかりした柱も作らない、作れないことを非常に残念に思います。
田母神氏の問題を、事実上の解任と「不適切」「残念」だけで放っておけることに、怖さを感じますが、それが日本なのです。
私には、無免許・無資格の軍人トップが(ミサイルや戦車などの)軍隊を運転しているようで怖くてハラハラしてしまいます。
また、何十万、何百万もの拳銃が町中にあっても怖く思わないことを怖く思うのです。
第二次世界大戦の大問題を、きっちりと清算せず(これは、亡くなった方には冥福を祈っていますが、300万人の犠牲者を出し、焼け野原の中で苦しんできた国民に対して明確に政府が謝罪を行っていないことを指しています。対外的には謝罪を行ってきています)、軍隊についての明確なビジョンを構築しないまま、少しずつ状況に合わせて大きくしてきたものについて、マスメディアすら、強い指摘はできません。なぜなら、きっちりした指針を持っていないからです。
だから腫れ物やタブーには触れないのです。
おそらくどの党も、米軍の日本からの撤退をきっちりと進める方策を練ったり、交渉したりすることもやる気はないでしょう。
票に結びつかないものです。そんなエネルギーを使いたくないのです。そもそも、アメリカの軍隊というご利益があるのですから・・・。
しかし、もうそろそろ、アメリカがこれまでのアメリカとして世界の中で位置づけられない時代がやってこようとしています。
北朝鮮の状況によりますが、「韓国から米軍が撤退する」という話が出てくるのではないか、と私は予測するのです。
そのときになって、日本中があわてるでしょう。どう進めていいか、あわてふためくでしょう。
日本が言い出す前に、(経済的・世界戦略的な理由から)「日本からの米軍の撤退」の話があったとき、「そんなこと考えていませんでした。話を聞いて驚きました」と首相や防衛大臣が発言するのでしょうか?
そんなことになったら私はとても情けなく思います。国を構築する基本すら、組み立てていないのです。
第二次世界大戦を清算せずに米国に依存したからです。
ノーベル平和賞をとった佐藤栄作首相の米国による核反撃の話は「けしからん」という意見が多くあることはわかります。でも、「もしも」の言質をとっている、というしっかりした「依存症」の方が、何も考えていないほったらかしより、「政治家」として職務を行っていると思います。
非核三原則のスローガンは、米国との裏取引により成立していたものです。ですから、単にノーベル賞を辞退すればよかっただけです。
このようなことは、平和なときは、誰も考えなくていいことです。軍事の心配も、兵役のことも。
私はつい、日本人が逃げたがる話題について話してしまいます。
それは「知っていながら、感じていながら逃げている、棚上げにしている」ことを知っていただきたいからです。意識からすら外す風潮が最近ないでしょうか?
さて、戦後、技術については、日本人はその特性を活かしてきましたが、残念ながら、科学には十分力を発揮できていませんでした。
しかし、昨今のノーベル物理学賞でもわかるように、民族としての劣勢はまったく無いといっていいでしょう。
ただし、粘り強さ、徹底した疑いと検証、強い目的意識、これらが文化的に不足している部分があることを私は強く感じています。改善のためにかけるエネルギーがどれほど小さく、まとまっていないか、を感じています。
日本人は他意がなく、チャーミングですが、それゆえ、論理的な追求や解決のための手立てをきっちり進めていく「合理性」が欠けている面があるのです。タブーに触れそうになったら、すぐさま外します(だからタブーです)。
何とか、その両面を持てるようにできないでしょうか?
美的な感覚、楽しみや笑い、ユーモアのセンスを持ち、合理的な分析や判断ができ、人を思いやり、しなやかで、愛されるハイブリッドを目指さないでしょうか?
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英語の授業を英語ですること
2008 年 12 月 23 日
2013年度から、高校の英語は、英語で授業をすることになったようです。大変いいことだと思います。
大変になるのはどちらかと言うと英語教師の方で、生徒は早く慣れていくのではないでしょうか。
私も英語で授業をすることになったとき、わりと得意で好きな教科でもありましたが、それでもとても大変でした。
中学・高校・大学と10年間も学んできていながら、また、物理を専門で学んでいながら、基本的な図形について、たとえば四角形(quadrilateral)とか対頂角(vertical angle)といった用語をまったくと言ってよいほど知らずに過ごしてきていました。
会話をする、買い物をするなどの生活のための英語ではなく、中高生に授業をしなければならなかったので、適当は許されません。
もちろん、知らない単語は覚えるしかありません。
明治時代以来、教養として外国語を学ぶ方式が定着してきましたので、日本では、辞書を引きながら高度な論評や随筆などを読んだりしているのに、基本的な単語や基本的な言い回しを知らないまま、あるいは話せないまま、大学は卒業できてしまいます。
人と対面して話をするのでなく、単語を多く覚えたり、文法問題を多く解いておいて、紙に書かれた問題を解ければ、試験で高い得点が得られますので、日本では「英語ができる」と評価されます。
英語が公用語の途上国で育った人たちとは、まったく違います。アメリカの大学でも同様です。
本や新聞が読め、資料を調べ、レポートを作成し、プレゼンテーションができて、相手に納得させる力が求められます。早さと量と正確さと内容を求めるのです。
次は簡単な言い回しの問題です。
「高度1000メートルを飛んでいる飛行機」
という表現は英語で何と言うでしょうか。
an airplane flying at a height of 1,000 meters
が答えです。
私たち日本人にとってむずかしいのは、
「高さ」を「at a height of」のように表現するということです。aをつけることを知らなかったり、atという前置詞になることが分からないこともあるでしょう。
また、話していてついうっかりしてしまうのが、
「1000メートル」をちゃんと「One thousand meters」と複数形で言うことです。
また、発音は「メーターズ」ではなく「ミーターズ」です。
(私の場合)英語で話していて、名詞の単複や、動詞の時制(現在・過去・完了)がすごく気になります。
気になりすぎて、力みすぎて
<誤>Did you went there?
(行きましたか?)
のように言ってしまったこともありました(頭の中で「過去形!」「過去形!」と強く思っていたからです)。
たとえば、時制については、主部の動詞と述部の節の中の動詞も一致させなければなりません。
<正>I thought that he would come.(彼は来ると思った)
<誤>I thought that he will come.(同)
このような、日本語にない語法的な制約(一致:agreementといいます)は意識していないと、すぐにくずれてしまいます。くずれたまましゃべるスキルを身につけていく人がいますが、できるだけ気をつけたいものです。(発音だけでなく、文法がブロークンとなるのです)
言葉はもちろんコミュニケーション、伝達の手段でありますが、私は、論理や思考の道具としての側面もすごくあるように思われます。
日本語のように、目上の人かどうか、自分はどのような態度にするか、などにより語尾の口調、言葉づかいがかなり変わってくる言語は、使っていてとても疲れることがあります。
仕事、とくに人間関係に疲れているときなど、英語で話すのは日本語を話すのの数分の一程度の負荷に感じることもありました。
もちろん、日本語には、むずかしい漢字があり、小学校の高学年以上になると、覚えさせるのにとても大変ですが、きっと私たちもかなり苦労して言葉を覚えたはずです。
ですから、そのころ海外で過ごせたらいいだろう、などと思いがちですけれども、海外にいて、あまり漢字や社会科を学ばずに帰国すると、日本のレベルとは大きな開きができているのではないでしょうか。
結論的に言うと、どっちも大変だと思います。
私は日本へ戻ってきて、1週間くらいまで、英語で夢を見ていました。でも、それ以来一度も見なくなりました。
私の周囲にいた人は皆英語を話していたので、夢に登場している友人とも英語で話さざるを得なかったからです。
もちろん、英語はネイティブではないので、慣れてくるまでに時間がかかりますが、ある程度慣れてきたら不思議なことがよく起こりました。
英語で話している相手に日本語で話してしまうのです。
「あ、そう。よかったね」とか。
言われた人はもちろん、びっくり!
意識して英語を話しているときは、そんなことは起こりません。
頭の中はどうなっているのでしょうか。不思議なことです。
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