広告という実験
2009 年 4 月 2 日
広告とはメッセージを市場に届けることで変化や反応を得るものです。
テレビや新聞、Web、あるいはメールといったものは、広告の媒体として発信者と市場との中間に位置します。
単純化すると、ある一つの広告でどれだけアクセスがあったとか、会員申込や資料請求があったか、あるいはどれだけ売り上げたか、という計測できる数値と、元手の費用、届けられた市場の大きさとの比較で「広告」の評価を行います。
ここでむずかしいのが、市場の反応を計測するのと、媒体の力を計測するのと、広告物(メッセージ)の内容を計測するのと同時に行われることです。
つまり、いっしょくたになってしまうので、注意が必要です。
同じメディアであっても、届けられる時間帯によって反応が違うこともありますし、同じ商品についての広告でも、広告内容で反応が全くと言ってよいほど変わってきます。
市場の層も、性別や年齢だけでなく、趣味・嗜好により大きく性質が変わってきますので、多少のグループ分けをしながら(これをセグメント化といいます)、あるグループに対していい反応が出ることを想定して、広告を流し、その結果を評価します。
さて、20世紀の初頭に行ったラザフォードの実験というものがあります。
これは、薄い金箔に放射線の一種であるアルファ線を照射して、その結果を分析する、というものでした。
アルファ線とは陽子が2個、中性子が2個のプラスに電荷を帯びた粒子であるので、同じくプラスの電気を持つ原子核とは反発します。
さて、この実験の結果はどうだったのでしょうか。
ほとんどのアルファ線はそのまま通過しました。
しかし、一部は散乱し、まれに、正反対に打ち返えされるものも出てきました。
この散乱結果から、実は原子核のサイズを計測することができたのです。
ミクロの世界は見ることができないほど小さいのですが、反応されうる物(粒子や光線)を投げつけ、その反応を調べることで、見えないものがどうなっているか確かめることができたのです。
ミクロだけでなく、マクロも同じように実験で調べることができます。
広告はまさに、マクロに対して投げる光線のようなものです。
ほとんど無反応かも知れませんが、ごく一部帰ってきた反応の中に、市場の強いニーズや期待などが混ざっていることがあるのです。
私たちは20世紀の科学者と同様、しっかりとこのリアクション(反応や変化)をキャッチし、見えないものに代わって教えてくれるものを得なければならないでしょう。
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平均律と純正調
2009 年 3 月 13 日
バッハの「平均律ピアノ曲集」というものがあります。
その言葉でしか一般に知られたり使われることがない「平均律」とは、(「ハ調」から「ヘ調」へなどの)移調ができ、あるいは異なった楽器をどう組み合わせても合奏ができるように、音程を調整した、ユニバーサルな「音階」のことです。
日本には「ロツレチリ・・・」の陰・陽音階がありますが、西洋の音楽では、実は「平均律」とは異なり、「純正調」と呼ばれる音階があります。
この「純正調」は、完全な和音を生み出す音階ですから、一番美しく聞こえます。
たとえば、教会の聖歌隊がアカペラ(無伴奏)で歌うようなときは、楽器がないので平均律で歌う必要はありません。
ですから、完全な和音を作ればいい(純正調で合唱すればいい)わけです。
逆の言い方をすると、平均律の場合は、和音の響きが「ほんの少しだけ不完全である」ということになります(ちょっとだけハモっていない)。
自慢になってしまうかもしれませんが、私は合唱団の指揮者をしていたので、この音の違いもわかりますし、純正調の「ド・ミ・ソ」と平均律の「ド・ミ・ソ」の違いを歌い分けることもできます(純正調のミは音が少し高いです)。
たいていの人には、この微妙な違いはわかりにくいところですし、無視できる程度とも言えますが、この「平均律」を作り、導入したヨハン・セバスチャン・バッハは、今後の音楽界にとって決定的な発明を行ったと言えるでしょう。
これは、科学上の発見や発明ではありませんが、私は、たとえば「ニュートンの万有引力の法則」の発見などに匹敵する偉大な出来事だったと思います。
科学の発見や発明などの背景には、非常に美しい理論や原理が描かれるので、私たちはそれらに魅了されますが、ここでは、「純正調は完璧で平均律は不完全」という、一面的な見方(極論)をすべきでないと思います。
ところで、以前、ここの記事でも書いたと思うのですが、ニュートンが万有引力を発見したころは、イギリスでもペストが大流行の時代でした。
学校(ケンブリッジ大学)も閉鎖され、自宅待機だったようですが、暇をもてあまし、ぼんやり庭を眺めていて、りんごの木からリンゴが落ちるのを見て発見できた、とされています。
おそらく、これは実話ではなく、ニュートン流のジョーク(「ひまだったからですよ」というメッセージ)だと思っています。
いずれにしても、「真理」と感じさせる理論の美しさから、私たち科学を学ぶものは、万有引力のように引き付けられ、感動を受けます。
アインシュタインにしても、徹底して思考実験を行い、真理に近づきました。
突き詰めれば突き詰めるだけ、本質があぶりだされ、複雑に扱われていたものが、単純化されていきます。たとえば1つの方程式がこれまでわかっていた2つの方程式を表わし得たりするのです(実際、アインシュタインの2つの方程式がマックスウェルの4つの方程式を表します)。
一般に、科学の分野では、価値の高いもの、理論だとか原理などは、よりピュアなものである場合が多く、シンプルになります。
クォーク理論の論文はわずか2ページで書かれています。もちろん、論文ですから、本論以外の部分も含まれていて、たった2ページなわけです。社会科学系の研究者からすると信じられないことだと思います。
湯川秀樹博士の中間子理論にしても、私が計算しても、わずか4行程度の表現で、原子核内の世界を説明します。
このようなもの、たとえば理論物理に触れていると、雑然とした日常や世界とは異なって、見事に統合された世界や原理があるのではないか、と考えさせられ、美術的な感性に刺激を受けてしまいます。
さて、お話を戻したいと思います。
科学的な大発見などは、このようにピュア、そしてシンプルであるという特質があるのが普通ですが、それとはある意味対極にあるようなもの、つまり対称性の破れや不完全性、あるいは妥協などについて扱うものもあり、これもまた、とても大切ではないかと最近思うようになりました(社会の中での「中庸」もまた、同じです)。
「平均律」は完全に現実的な妥協です。しかし、非常に美しい妥協です。
この平均律のおかげで、さまざまなアンサンブルやオーケストラなどの器楽音楽が発達しました。
ジャズやロック、ポップもすべて「平均律」の恩恵を受けているとも言えます。
当然、「平均律」が最終形である、という保証はありません。
たとえばコンピュータを使った演奏の場合、楽器の制約がないので、楽器のための音階制約すらはずせるからです。
「非平均律」の方向に進むかどうかは不明ですが、このバッハの平均律の威力は、コンピュータによる演奏が出現するまで、何百年かは絶大だったといえますし、大きな影響を与えてくれました。
このように、私たちに役立つもの(ご利益?)を与えてくれるものこそが、たたえるべき偉大な発見、発明、そして業績だと言えるでしょう。
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ニールス・ボーア研究所と仁科芳雄博士
2008 年 12 月 10 日
2、3日前の朝日新聞に特集記事に大きく、これまでの日本のノーベル物理学賞受賞者の研究の系譜が書かれていました。
源(みなもと)は仁科芳雄博士(理化学研究所の創始者で日本理論物理学の父とされる)から、湯川秀樹、朝永信一郎の各博士、そして今回の受賞の先生方までの流れが説明されていました。
仁科芳雄先生は、東京帝国大学で電気を学び、ヨーロッパへ留学されていて、当時、量子力学の発見が相次いだ最中、まさにそのメッカであるニールス・ボーア研究所に滞在して研究をされていました。
この研究所の自由さには、かなり感銘を受けられ、日本に戻ってから財閥にかけあって資金を出してもらい、初めて、理化学研究所という基礎的な研究の組織を作られました。
仁科先生は、1931年(昭和6年)わずか1か月間京都大学で量子力学の講義をされたのですが、そのとき学んだ人たちが湯川さん、朝永さんたちです。この1か月の滞在がなかかったら、ひょっとして、日本の物理学は・・・と考えてしまいます。
このときのいきさつは、国立科学博物館の記事に書かれています。
仁科さんは、ニールス・ボーア研究所にいらっしゃったときには、すでに30歳を過ぎ、この分野では高齢(失礼?)でいらして、研究成果を得るのに、とてもプレッシャーがあったのではないか、と思われます(これ以降は私の大学時代に西岡先生からうかがった話です)。
ニールス・ボーア研究所は、いわば量子力学を確立した研究所です。20歳そこそこの若者たちが1年くらい滞在して、成果を出して、自分の国に帰っていく、すごいところでした。仁科さんは、電気といってもエレクトロニクスではなく、大電力の方を学ばれ、年齢も高くなっています。
でも、唯一の日本人として、朝から晩まで研究に格闘されました。
完全自由放任といってもいいかもしれませんが、ニールス・ボーアは本当に研究者を育てる天才のような方でした。
仁科さんはクラインという人と研究を行っていました。朝、研究所に来たときにクラインと顔を合わせて、帰る時に、計算結果を突き合わせる、ということを続けていたそうです。なかなか、二人の計算が合いませんが、ついに二人の計算がぴったり一致するときがきました。
これが、クライン・仁科の式というものです。
これで、仁科さんも日本へ帰ることができたのですが、日本にはこのような自由な研究所はありません。そこで、財閥に頼んで回って、ついに理化学研究所を設立できた、という経緯だったそうです。
その仁科先生ががっくり肩を落とし、英文雑誌の表紙(タイムだったか)を飾ったそうです。
それは、終戦により、日本が行っていた原子物理の実験施設を進駐軍が取り押さえ、核武装できないよう東京湾に沈めていたときのシーンなのです。
このような物理学者たちの裏話を、よく学生時代、西岡先生からうかがいました。
日本の物理学者だけでなく、交通事故にあい、(ソ連の)クレムリンからの連絡で一大脳外科チームが結成されモスクワへ送られることになったランダウ博士の話、女性をめぐる決闘の前日、友人に自分の理論(5次以上の方程式には解の公式は存在しないことを証明するなどの群論のもと)を手紙で書いて送ったが、その決闘のため20歳の若さで亡くなったガロアの話などきりがありません。
私が2年間の青年海外協力隊活動を終えたとき、アフリカからデンマーク経由で帰ることにしました。そのため、公用旅券を一般旅券にするためケニア・ナイロビの日本大使館へ立ち寄ることにしました。理由はもちろん、物理を学んだものとして、ぜひ、一度、ニールス・ボーア研究所を見てきたかったからです。
茶色い建物は、外観だけ眺めるだけでした。そのあたりでは何の変哲もない建物ですが、物理を学ぶ、学んだ者にとっては、自由の城」です。この感触は、お参りしたかった神社かお寺に来たようなものかも知れません。
このように、私たちは、物理も、歴史も、地理も、知ったり、見たり、触れたり、そして思いめぐらしたりできるのです。
今日は、ノーベル賞授賞式の日です。
あらためまして、南部陽一郎先生、益川敏英先生、小林誠先生、下村脩先生、おめでとうございます!!!!
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生命誕生の謎を日本の研究機関が発見か
2008 年 12 月 9 日
物質・材料研究機構と東北大学のグループが生命誕生の謎を実験で発見したとのニュースが、昨日ありました。
これまで、ミラーという米国人が、アンモニアやメタン、水蒸気という原始大気と当時思われた組成のもの(最近ではこのような組成ではなかったと考えられています)に放電を行ってアミノ酸など有機物の生成を示し(1952年)、このような化学反応が生命誕生の起源だったのではないか、とされてきました。
今回の実験で、最近わかってきた原始大気組成(二酸化炭素と窒素、水蒸気)のままでも、隕石の落下により、アミノ酸の一種のグリシンや、脂肪酸、アミンといった、生物の体を構成する基本分子などが生成されることが実験的に示されました。
NK細胞のニュースと並ぶ、画期的な科学的な発見だと思います。
実は、私の出身高校の1学年後輩にこの研究機構の研究センター長がいますので、「物質・材料研究機構」と聞いてびっくりしました。
すばらしい! おめでとうございます!
関連ページのリンク(YOMIURI ONLINE「生命の源・アミノ酸、隕石衝突で簡単に合成」)
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湯川秀樹博士が幼少のころ、正座をしておじい様から教えを受けた「論語」は、今から2500年以上前に、人々が書き記したものです。
「論語」とは、孔子が亡くなってから、「どう言った、どうだった」などと思い出しながら、弟子たちが激論の末にまとめたものだそうです。だから「論」「語」だそうです。
もちろん、孔子の教えも、論語もすばらしいのですが、実は、一番私が言いたいのは、少しポイントがずれたものです。
つまり、2500年前、すでに、このような教えとか考えを大切なものだと考えた人たちがいた、という事実なのです。
2500年前、仁とか礼とかの話をしてわかる弟子たち、人々がいたことが、考えるべきこと、学ぶべきことだと思っています。
孔子が出現したから「仁」という概念が出てきたのでしょうか? 孔子の教えを聞いたから「礼」が大切になったのでしょうか?
そんなことは決してないと思います。
書名は覚えていないのですが、太古の昔、日本がまだ日本でなかったころ(おそらく魏志倭人伝より古かったと思いますが)、日本のことを記述した中国の書籍があって、「日本人たちが、道端で、貴い人の周囲でしきりに拍手をしている」という記述がありました。とてもリアルに感じました。道端の日本人たちは貴い人へ感謝か感激を伝えていたのでしょう。非常にあたたかな交流の場を想像できます。
2500年前の日本はいつの時代でしょうか?
なんと、神武天皇より、天照大神(最近、「あまてらすおおみかみ」がヒミコのことだ、という説がかなり有力になりつつあります)よりも数百年も前のことです!
子供のころ、縄文土器や竪穴式住居などをみて、非常に未開な時代だったという印象をもっていましたが、ちょっと状況は違ったかも知れません。
何十万年も前のネアンデルタール人の骨が出てきたとき、その周囲に、大量の花粉が出てきて「これはたくさんの花で埋葬された後だ」との説明を聞いたときに、非常に強いショックを受けた覚えがあります。彼らの悲しみも死者への愛情も伝わってきました。
孔子に指摘されて「仁義礼智信」が生まれたわけではありません。周囲の人が初めて知ったわけではありません。その言葉を言われて理解できる、弟子たち、人たちがいたという事実が分かります。
ただ、よく分からなかったり、ちゃんと整理できていないから、このような教えを乞うわけです。知ろうとするということは、半分分かっていることであり、知りたいという欲求があるという証しです。
民主主義も、ギリシャ、ローマの時代からありました。
教会絶対の中世を経て、芸術などが復興しました。そして生命のエネルギー(本性)を表現することが容認されるようになりましたが、古代ローマ遺跡で最近見つかるすばらしい芸術作品をみるにつけ、なぜ、この時代のことをルネサンス(文芸復興)と呼んだのか分かりました。私には、ローマ時代とルネサンスとの区別すら、むずかしいぐらい、すばらしい作品群でした。
さて、私がアフリカにいたとき、アフリカの人々から、「礼」も「智」も「信」も感じました。
(日本人はほとんどしないですが)韓国の人であれば、人にものを渡すとき、必ず片手ではなく、もう一つの手を添えて渡すでしょう。マラウイの人も全く同じ仕草をします。
私がアフリカの職員室に一人でいたとき、「職員室の中に入ってよいでしょうか。実は、・・・先生からチョークを取りに行くように言われたので来ました」と説明にひざまずいて尋ねた少年たちは、このような行動をキリスト教で教えられたのでも、仏教で教えられたのでも、儒教で教えられたのでもありません。もちろん、親から教えられたのかも知れませんし、見て聞いて覚えたかも知れません。しかし、理解し、実践するための素地である「心」を持っていたことは確かです。
よく、敬いや思いやりは、何らかの思想とか教育とかが必要だとされていますが、本性として持っている部分がかなりあるように思います。生まれながら持っているのか、育つ中ではぐくまれるのか、おそらくその両方でしょう。この調和と繁栄のための基礎を持っているのです。少なくとも2500年以上前の中国ではそうでしたし、4大文明のような大きな社会システムがあったこと自体、思いやりや尊敬などの基盤があったことを示唆していないでしょうか。
たとえば「十戒」ができたため、初めて人を治める概念ができたわけでも、それを人々が知ったわけでもないでしょう。
メッセージは、受け取る側に、分かる素地、受け取るニーズ、気持がないことには、決して伝わりません。
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心の中心にある本能、欲について
2008 年 12 月 7 日
物事の源泉でありながら、悪者扱いされやすいものが「本能」あるいは「欲」といったものでしょう。これらを突き詰めて考えても、中々区別が難しいと感じています。やや広い意味合いで「本性」という言葉を使う場合もあります。
コマーシャル、販売、営業でも、購入者の欲を刺激します。
また、身勝手な反社会的な行為も、欲が原因であることも多々あるでしょう。
誰もが本質的に持っているものです。
「煩悩」だ「宿罪」だと、ほとんどすべての宗教で、非難される、あるいは持っていること自体を恥に、罪に思わせるところがあります。
世の中は本能、欲があるから問題なのでしょうか?
私はそうでないと思います。
地球温暖化の太陽と二酸化炭素のようなものではないか、と考えています。
中庸なりバランスが問題なのです。
生きるため、生き残るため、さまざまな力を受けて私たちはこの世界に誕生します。
大人に自分の存在、あるいは何らかの不快を伝えるため「オギャー」と泣くことも、備わった本能でしょう。
病気のため、あるいは周囲との関係に疲れ、強く心が傷ついたとき、コントロールがうまくできなかったり、弱くなったりします。
しかし、「仁」という徳と同じく、本能、欲こそが、生命として生まれ、育ち、協調して生き続けていくための源泉だと、私は思います。
欲を消した段階で、生命体としての存在は消えてしまうでしょう。
協調して生き続けていくための源泉だと申し上げましたが、競争原理に基礎を置くダーウィンとは異なり、今西錦司先生の棲み分け理論も、生命が社会性、協調性を本性として持っていることを示していないでしょうか?
宗教はそのほとんどが、死後の世界や神秘性を伝えます。人の弱さ、欲を持つことの過ちや恥を伝えることで、宗教の絶対的な強さと正しさを伝え、人の絶対的な弱さや罪を知らしめます。さらに、信じることにより、救われるというメッセージを伝えます。
私には、弱いものを脅しているように感じてしまいます。
宗教はもちろん、個人の精神的活動そして社会の精神的柱にもなってきました。数々の文化創造の源泉にもなってきた宗教をいちがいに否定する気はありません。しかし、宗教自体が持つ「絶対性」に基づいて宗教対立や宗教戦争を起こしていることも事実なのではないでしょうか?
私自身、儒教に興味を持ったのは、「欲」をどう定義し、どう扱っているか知りたかったのがきっかけでした。このことについては、追ってお伝えすることにします。
儒教は人間関係、社会関係についての提言を行う思想です。神秘性を否定していることも、あるいは孔子個人への礼賛も求めていないさまからも、絶対的な判断や行動を否定していること(中庸)からも、非常に興味を持つことになりました。
しかしながら、「儒教の考え方が最高だ」「孔子は聖人だ」とする「絶対性」の見方は、儒教の考えからすると誤っているのです。
また、今西錦司先生の棲み分け理論(私流に言いかければ「協調的生存本能理論」)の面白さも、お分かりいただけましたでしょうか。
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オブジェクト指向とマッシュアップ
2008 年 11 月 21 日
ソフトウェア工学の中では「オブジェクト指向」という方式や「マッシュアップ」という技術はとても役立つ便利なテクノロジーとなっていて、私たちは皆、その恩恵にあずかっています。
個々の意味合いは違いますが、単純に言えば「共有化テクノロジー」と名前を付けられるのではないでしょうか。
皆さんが今、この記事を読んでいるときに、ブラウザを通して読んでいます。ブラウザはインターネット経由で情報を入手したり、画面に表示したりします。
ブラウザを開発した人は、何を利用して作ったのでしょうか?
そう、部品です。
むずかしい言い方をすると、あらかじめ機能が分かっている部品(これをクラスから生成されたオブジェクトと呼ぶ)を組み合わせて作ったのです。
例えば、「ウインドウ」クラスだとか「アイコン」クラスだとか、いっぱいあるわけですが、作ったものも、クラス化することで、再利用・共有化できます。機能の大部分を継承しながら別の機能を追加して、新たに子供のクラスを作ることができます(ちなみにクラスとは雛型のことで、実際に仕事をするオブジェクトを生成できるものだ、と考えていただいていいと思います)。
マッシュアップ(グーグルマップやこのブログに付けている検索エンジンも)という、他のソフトウェアを組み合わせる技術も現在、活発に使われています。
私たちは、生まれたときから「現代」に生きていることができるのは、過去の遺産があるからです。そしてその遺産は新しい遺産にすることができるのです。
オブジェクト指向がソフトウェア工学の世界にはやり始めたとき(90年代初頭)、ちょうどソフトウェアの研究開発をする研究所にいました。学生時代に量子力学を学んだときと同じくらい軽いショックを受けてしまいました。
もちろん、モジュール化のようなはやりもありましたが、中身を見せない(プライベートな)部分と、外部にデータや機能(振る舞いとも呼ばれています)を明示し提供する(パブリックな)部分の両方があって、上手に利用すると、見事に、周囲とコラボレーションできることを知り、うなりました。
プログラミング言語で言うと、C++(シープラスプラス)とか、Java(ジャバ)といったものが代表的です。
このようなオブジェクト指向のプログラミング言語やマッシュアップ手法などにより、非常に少ない労力で大きい成果が得られるようになっていますし、この流れはさらに加速する勢いです。
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ダーウィンと今西錦司の進化論
2008 年 10 月 15 日
「種の起源」の著書で進化論を提唱したダーウィンはあまりにも有名です。適者生存、あるいは自然淘汰で勝ったものが生き残り、負けたものが絶えていく。そして、何世代もののち、元の種が進化した種になっていると説明するダーウィン式進化論が、ある意味、学校でも教えられ(先進国アメリカなどでもこの思想を排除しているところもあるが)、いわば常識のようになっています。
「そうなのかな」と半信半疑だったり、学校の先生から教えられているからそれが正しいと思った人が大多数でしょう。
日本の霊長類研究の創始者の今西錦司先生(1902~1992)は、ダーウィンとは異なり、オリジナルな進化論を展開したことをご存じの方も割合多くいらっしゃるのではないでしょうか。今西錦司の進化論は「棲み分け理論」と呼ばれています。もともと、京都の加茂川のヒラタカゲロウの生態を調査していて着想を得たものだそうです。
進化の原因を個体同士の生存競争に求めるのでなく、単純に言うと、競争を避けて自分の持ち場(環境)に適応していくことでなされている、と見る味方です。極端な言い方をすると、水辺や地面近くの低い場所はこわい動物がいっぱいいるのなら、木の上など、他の動物が来ないところに逃げて、環境適応できたものが、進化していく、といった考え方です。
少し厳密な言い方をしてみましょう。
ダーウィンは、個体同士の関係を進化の最も重要な問題と考えましたが、今西錦司は、個体(実際には大きな役割はその群)とその環境との関係を進化を起こす重要な問題と考えました。つまり、競争原理ではなく共存原理です。生存競争ではなく環境適応です。個と個ではなく、個&群と環境です。今西流にいえば、個体Aと個体Bとの生存競争も、いわば個体Aの環境問題の1つと位置づけられるわけです。
この考えを知ったとき、私自身うなりました。「すごい、これだ」と。戦わずして逃げたものは、敗者であり、敗れたはずです。ダーウィン流には、本来淘汰されたはずですが、今西流にいえば、別の場所で適応しているのです。環境適応の方が進化の重要な因子だと指摘しているのです。
生物学にノーベル賞があるのなら、ぜひ今西先生に受けていただきたいと考えますが、ここで、西欧流儀について、述べておきたいと思います。
西欧文明の特徴は、徹底した分析です。分けて、分けて、分けて、突き詰めていきます。2分法的な分析手法は、YesかNoかを突き付けます。この方法は、明らかに科学技術の進展に力を発揮します。西欧文明は、軍隊を世界に派遣し、教会を建て、学校を建ていき、自らの文明の正しさ、合理性を強くアピールし、制圧します。
東洋文化の考えでは、徹底して分析しないことがよくあります。たとえば、漢方。「陰と陽」の説明もありますが、非常にアバウトです。しかし、ある人が病気でAという状態だったとき、Bという漢方を処方すればCという望ましい状態になる、などの数千年の知識があるわけです。インプットとアウトプットの間の状態や作用については、あえて問わずとも「体質改善」という言葉だけで、経験に裏打ちされた処方がなされたりするわけです。西欧文明的には非科学ともされうるものもあります(現在、統合医療という分野があって、あまりにも全体を見ず、分析的な手法に頼る西欧式の医療とは異なったアプローチもされています)。
私には、ダーウィンの説明より、今西錦司の説明の方が、より包括的で科学的な説明になっていると思いますし、今西説がアバウトだとは決して思いません。ただ、いずれも西欧式、(全体をそのままとらえようとする)東洋式の特徴があることをお伝えしたかったから、ここで書かせていただきました。
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世界観変遷(4) 南部、小林、益川各氏の「対称性の破れ」
2008 年 10 月 14 日
今年の一番明るい話題は、日本人が4人もノーベル賞を受賞したことでしょう。
ノーベル物理学賞を受賞する、南部、小林、益川各氏の研究は「対称性の破れ」というものです。この現象は、決して最近発見されたものでもなく、今や常識になっている発見ですが、とかく絶対主義的な考えに傾きがちな権威が、あまり認めたくない(どちらかと言うと美しくない)「対称性の破れ」について、自然界を支配する法則として認めたことは、大きなパラダイムシフトであると思います。
そうです。天動説から地動説へ、絶対系から相対系へ、絶対の存在から確率的存在へと進む、物理学のパラダイムの変遷です。
南部先生をはじめ、小林、益川両先生もとても優秀な先生方だと思いますが、「対称性の破れ」を認めうる「日本人」としての特質もあったのではないか、と思っています。先生方の考えを受け入れなければならない、とは思いつつ、その考えを素直に受け入れたくない絶対的な考えを柱にしている文明が数多くあるのです。
私は常々、日本人の柔軟な思考、先入観のない推察について感心しています。理論物理などをやる場合には、当然、先入観などは排除した方がいいわけですが、一神教文化的には、「対称性が破れている」などとは、宇宙の法則として仮定したくないことなのです(一神教文化はすべてそうだ、と言うものでありませんが、「唯一絶対」を柱とする考えの中に、本質的に不確定だとか、ほころびがあるなどのアイデアは入れにくい、という意味です)。本質を見抜く洞察力を鈍らせるもの、それは先入観でしょう。しかし、ゆるぎない安心を与えるような基盤を否定するようなものすら、仮定できるということは、本当に自由な発想を行っていると考えることができます。
欧米のアカデミックな世界は、もうすでに、パラダイム変更を受け入れている、と感じられる、ノーベル物理学賞受賞を大変うれしく思います。このことをお知らせしたくて、ニュートンの話と世界観変遷4つの記事となりました。ご了承ください。
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日本で最初にノーベル賞を受賞した湯川秀樹博士。日本に勇気と誇りを与えてくださいました。続く、朝永、江崎各氏も、量子力学の研究と応用についてすばらしい実績を残され、ノーベル賞を受賞されました。
湯川(中間子の予言)、朝永(量子電気力学)、江崎(固体のトンネル効果)と、私たちが見ることもできない、ミクロの世界の成り立ちや現象を量子力学という新しいパラダイムで推進されました。
ちなみに、私の大学の研究室の教授は、湯川秀樹先生に京都大学で学んだ弟子だった西岡先生です。西岡先生は、湯川先生にズボンを買うときの保証人にもなっていただいたそうです。私は、湯川先生の中間子予言の論文も読みましたし、自分で実際に博士と同じように計算してみましたが、(失礼ですが学生の私でもできるさほど難しくない数行の)計算よりも、それを見て、「中間子だ!」と見抜く力の素晴らしさを感じました。
アフリカのチャミナデ・セカンダリー・スクールで物理や化学、数学を今から25年ほど前に教えていたのですが、「核」の話のとき、皆さんの先生(すなわち私)の先生の先生は、ノーベル物理学賞の湯川博士ですよ! みんなもしっかり勉強しようね、と話したら、とてもうれしそうにしていました。蛇足でした。
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むずかしいことの代名詞のように言われる「アインシュタイン」と「相対性理論」。私は、高校・大学と、わからないものへの魅力に引き付けられ、大学で理論物理を学ぶことになりました。(ちなみに卒論はクォークの非相対論的な運動についてです)
ガリレオの教会への異論、そして信心深いニュートンの力学の誕生とその全盛ののち、1905年に発表されるアインシュタインの特殊相対性理論、それから約10年後の一般相対性理論および量子力学の誕生により、これまでの宇宙を説明する物理的な法則(力学)を変更せねばならないようになりました。
量子力学の概念も説明する対象も、一般に生活する私たちには、非常にわかりにくいものです。しかし、アインシュタインの相対性理論は、確かに光を伝搬するエーテルという物質によって満たされているとする「絶対系」を規定すること自体無意味であることを示して「絶対系」を否定しましたが、新たな概念である「相対系」を導入することにより、真理の美しさを保存しようとしたように思われます。
その意味で、特殊・一般の相対性理論は古典力学の最後だと位置づけることもできます。ちょうど、ベートーベンが、古典派の最後であり、ロマン派の最初のように・・・。ニュートン力学と並び、アインシュタインの相対性理論もとても美しいパラダイムです。(ニュートンはバッハみたいに数学的に完璧なまで美しい?)
ちなみに、アインシュタインは時々「神」という言葉を使います。たとえば、「神はサイコロを振らない」と、確率的な振る舞いとして素粒子の運動を規定する量子力学に、異を唱えます。アインシュタイン自身、光量子仮説(1905年)を提唱し、量子力学を作り上げていった科学者でありながら。もちろん、この神はキリスト教の神ではないでしょう。絶対的な真理をさしているのかも知れません。絶対性を否定し相対性を導入したアインシュタインですら、アドホックなものに対する違和感を覚え、ある意味絶対的な概念・真理を求めていることがうかがえます。
ガリレオは中世のイタリアの科学者で、キリスト教会の絶対的な世界観(天動説)に異論(地動説)を唱え、「それでも地球は回る」と言ったことであまりにも有名です。ガリレオは、物体の落下する速さが重さによらないことを発見しました。
5グラムの玉でも10グラムの玉でも、自由落下したときに着地するまでの時間は全く同じことを示しました。ちなみに、当時は、重いものは早く落下し、軽いものは遅く落下することが常識でした。言い換えると、地球が軽いものには小さい力で、重いものには大きい力で引っ張っていることを発見したわけです。もちろん、ニュートンの万有引力の法則や運動の法則と全く重複する事象です。追って、ニュートンがこの2つの法則で厳密に物体の落下運動を説明することができました。
自己(地球)中心的であったり、絶対的に考えていた考えが打ち砕かれるとき、私たちは狼狽します。もちろん、地球が永遠に平らであると信じていた人は少なかったことでしょう。ギリシャ時代にエラトステネスという人が、夏至の太陽の高さ(角度)を2点で計測して、2点の距離と角度の違いから、地球のサイズを導き出しているのです。そのサイズとは、円周4万メートル。
すばらしい! ほとんど正確な地球サイズの導出に、ギリシャ時代に成功していたのです。
でも、教会全盛の中世には、再び、自由闊達な宇宙観を形成することができず、絶対的な宇宙、自己中心的な考えを擁護するようになります。
ガリレオは教会に異を唱えたかったからではなく、真剣に科学を探求して得たことを伝えたかったからでしょう。おそらく現在、天動説が正しいと考えている宗派はないと思いますが、「信仰の現場」すら、あるいは「信仰の現場」こそ、このようなパラダイムシフトを受け入れなければならないのです。
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「りんごが落下するのを見て万有引力の法則を発見した」という逸話で有名なアイザック・ニュートンは、物理学を学ぶ者にとってみれば、見事なまでに美しい宇宙の法則を導き出し、物体の「運動」というものをある意味「完全に説き明かした」と感じさせるくらい天才科学者です。
そのニュートンは、敬虔(けいけん)なクリスチャンであったことは、あまり日本人には知られていません。私には、絶対的な神の存在を信じていたから、万有引力の法則、運動の法則を発見したようにも思えます。あるいは、その逆に、宇宙の真理を解けば解くほど、背景の美しさを知り、それを神だと感じていたのかもしれません。彼の確信の強さをうかがい知る話も多く残っています。今回は、ニュートンと彼の自宅に作られた太陽系模型の話です。
ニュートンが、神の存在を信じない友人に「今度、家に遊びにおいでよ」と誘い出し、そこで見せたものは、完璧なまでに見事にできた太陽系の模型でした。太陽を中心にして数々の惑星が回転しています。
友人は、「すごい! こんな精巧な模型があるなんて! 誰がつくったの?」
ニュートン「誰も作っていないよ」
友人「うそだろう! 誰も作らずに、こんなすごいものができるわけがない!」
ニュートン「だって、君が言ったじゃないか。神様は存在しないって。神様が作った宇宙は、この模型よりずっとずっと精巧にできているんだよ。それでも君は創造主の存在を認めないのだろ?」
友人は何も言えなくなったとのこと。
ニュートンの信心深さと一貫した信念は、いわば絶対的宇宙観であり、以降、産業革命や欧米列強の世界的な進出とともに「真理」として広がっていきます。しかし、この世界観(パラダイム)は、突如としてガラッと変更を余儀なくされます。物理学の進展とともに、世界観がどう変わってきたのかについて、お話します。
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宇宙船でひとりぼっち、そこで芽吹いた植物を発見。
2008 年 10 月 10 日
今、あたたは宇宙船に乗っています。残念ながら、仲間は皆死んでしまいました。宇宙葬を終え、生き残る可能性を探す旅を続けていたとします。考えたくない悲しい状況です。
オリンピックの応援などを見てわかるように、類似でも異なる種のものがあったとき、私たちは自分の種を応援します。涙します、感動します。でも、ひとつひとつが悲しいことに亡くなっていったら。日本人が自分一人になったら、きっと他のアジアの人を身寄りの人のように感じるのでないでしょうか。人類が皆消えてしまったら、他の生き物、特に哺乳動物を身近な仲間に感じるのではないでしょうか。
宇宙船でひとりぼっち。星新一のショートショートのようですが、このような状況だったら、きっと芽吹いた植物へすら、愛情、「仁」を感じるのが当然だと私は思います。
地球温暖化が進むいまの状況は、宇宙船で次々と仲間が亡くなっていっている状況のようなものです。XY染色体をもった男性にも、女性と同じXという染色体があります。もちろん、性染色体以外の何十もの染色体はいっしょです。根っこはほかの動物、他の植物とも同じです。
ナショナリズムは善か悪か。その働きの根本は、「芽吹いた植物へも愛情を感じることができるもの」だと思います。排他的、自己中心的な考えに傾く可能性も秘めたものではありますが、広く愛情を注ぐことも可能な実体ではないでしょうか。
先ほどの、宇宙船の状況など現実離れしていますが、頭の中で想像することはできます。これを「思考実験」と呼び、アルバート・アインシュタイン、湯川さん、朝永さんら理論物理学者たちがよく行ってきた手法です。学生時代、南部陽一郎さんの論文もよませていただきました。ぞくぞくとノーベル賞を受賞されている方々に大変うれしく思いますが、もう高齢になられたこのような方々に続く私たちも、先輩たちが行ってきた数々の推察、推論、仮定、思考実験などを繰り返し、本物を見つけるように努力を続けていかなければならないと思いました。
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性犯罪者を強制的に去勢
2008 年 9 月 26 日
ポーランド政府は、性犯罪者を強制的に去勢するように刑法を改正する方向だということがYOMINURI ONLINEで報じられました(2008/09/25)。性犯罪者の再犯率は非常に高く、刑罰自体があまり抑止力として働いていないことはよく知られています。記事によるとイギリスやドイツなどでは、子供を狙った犯罪者に対して、本人の同意が前提で、去勢が行われているらしいのですが、EU内での「強制去勢」に、賛否両論うずまいているようです。「ポーランドの有力紙ジェンニクの世論調査では国民の84%が賛成し、与野党の大半も支持する方針で、刑法改正はほぼ確実な情勢だ」とのこと。皆さんはどう考えられますか?
