このブログ「熟考伝達」から、「ききまね英語」関連は基本的に分離することにしました。

「ききまね英語Blog」: http://blog.kikimane.com

そのブログのオープニング用に23記事用意しました(一部このブログ記事との重複があります)。このブログのサイドバーに、RSSを使って、ききまね英語Blogの最新記事のタイトルとリンクを表示しています。ご興味のある方は、ぜひ、ご訪問ください。

【リリース記事】

株式会社ベータラボは、「ききまね英語」(商標出願中)という英語学習教材を開発し、1スキット(10分)の無料お試し版のダウンロードを開始しました。その目的と特徴は以下のとおりです。

《目的》
赤ちゃんの言語習得に最も近い自然な方法でありながら短期集中訓練で「話せる英語」の基礎を習得すること

《特徴》
1.パソコンを使ったスライドショー形式の(絵本・紙芝居のような)楽しい視聴覚教材

2.音声言語習得の障壁だった「日本語」も「英文字」も不使用とすることで、より着実に「話すための英語脳」を育てる

3.1スキットわずか10分に凝縮した集中学習により、続けやすくなっている

4.自然な言語習得法である「聞き流し英語」と比較して取り組みやすくしている(対話式、段階的な語彙・速度のアップ、繰り返し練習)

《ききまね英語・リリース記事PDF版》

betalabo_release2009-03-18.pdf

《商品の説明専門サイト》

http://kikimane.com

《無料お試し版の紹介》

https://xn--y5qs97lf9e.com/prod/kikimane_sample/

《ベータラボのメルマガでの紹介内容》

このお知らせができることを、とてもうれしく思います。

全国どこよりも早く、ベータラボメルマガ会員様へのご案内です。

それは「ききまね英語」(商標出願中)です。

今年の春の「話題作」です!

【最新の脳機能科学の成果に基づく言語習得法です】

これまでの苦労は何だったのか、と思われるかも知れません。

日本語なし、英文字なし、「視聴覚刺激」へ反応する”話せる英語”習得法です。

・赤ちゃんの言語習得方法と同じ自然な学び方です

・きれいな画像と英語音声との対話する短いスキット(Windows 1回10分)

・予習要らず、辞書いらず、10分パソコンに集中するだけ!

【だれにも役立つ方法】

初めて英語を学ぶ人も、もう一度基礎からやり直したい人もOKです。

お子様からお年寄りまで、お忙しいお勤めの方でも。

【聞き流し英語とどこが違うのか】

・対話者になるので主体的に話の中に入っていきます。

・自分が話す「間」がある

・段階的にステップアップできる

・リピート、言い換え、ロールプレイなどの練習で実力強化できる

つまり学びやすい、学習者にやさしい方法なのです。

もちろん、「ききまね」に自然な英語の「聞き流し」をプラスすれば最強かもしれません。

他の教材とどう組み合わせても何ら問題はありません。

【すぐに無料ダウンロードとお試しできます】

語りつくせません。でも、使えばすぐにわかります!

イントロ1分、スキット10分だけ。

Windowsスライドショーです。

・・・

(以上本文のみ)

1つ前の記事で「平均律と純正調」の話をしたので、もうひとつ、関連する話を思い出しました。

これは、コンピュータの世界の話です。

コンピュータは第二次世界大戦後に作られ発展してきたものですが、ハードウェアだけでなく、ソフトウェア、とくにOSと呼ばれ、莫大な開発コストがかかる基本ソフトウェアを開発しながら発展してきました。

1970年代から80年代にかけて、アメリカを中心に資本が投下され、開発競争がさかんになってきました。

そのころから、多くの端末からの要求をセンターで処理する、中央集中型のコンピュータの利用法が、重要なやり方だと思われていました。

もちろん、現在もその流れは半分正しいのですが、半分は、分散的な処理によって、ホストのトラブルのリスクを回避するような方向で発展しています。

詳しい話はここではできないので、少しスキップします。

その当時、完全無欠、膨大で絶大な基本ソフトウェアを作ろうとしていましたが、結果は失敗しました。

それに対して、ひとつひとつ小さいものを組み合わせて、大きい仕事ができるような仕組みを考え出し、アメリカの大学(教育機関)を中心に利用が広がり、それが後に大成功を収めました。

それがUNIXと呼ばれる基本ソフトです。

現在もインターネットのホストコンピュータのほとんどで使われているOSです。

何がどう違うのかを一言でいえば、京セラ・稲盛氏の「アメーバ-経営的」といったらわかりやすいかも知れません。

分けても分けても終わりがない・・・とまでは言いませんが、本当に小さな小さなコマンド(命令)の集まりを組み合わせて壮大なものを作り上げているのです。

膨大なコストがかかるようなときは、このような最初の基本設計、スケッチ、あるいはフレームワークがとても大切です。

何でもできる(マルチ)に対抗して単一(ユニ)という意味からUNIXという名前が付けられたそうです。

さて、Financial Timesの記事に、リーマンショック以降の出来事を、「金融メルトダウン」と表現されていました。

今こそ、「絶対」とか「強力」「完全」などに引き付けられることなく、「シンプル」「普遍」「汎用」な価値観を大切にしていくべきでないかと思いました。

恐竜のように、大きな変動が起こると、適応できないものが滅びるのが世の常ですから。

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平均律と純正調

2009 年 3 月 13 日

バッハの「平均律ピアノ曲集」というものがあります。

その言葉でしか一般に知られたり使われることがない「平均律」とは、(「ハ調」から「ヘ調」へなどの)移調ができ、あるいは異なった楽器をどう組み合わせても合奏ができるように、音程を調整した、ユニバーサルな「音階」のことです。

日本には「ロツレチリ・・・」の陰・陽音階がありますが、西洋の音楽では、実は「平均律」とは異なり、「純正調」と呼ばれる音階があります。

この「純正調」は、完全な和音を生み出す音階ですから、一番美しく聞こえます。

たとえば、教会の聖歌隊がアカペラ(無伴奏)で歌うようなときは、楽器がないので平均律で歌う必要はありません。

ですから、完全な和音を作ればいい(純正調で合唱すればいい)わけです。

逆の言い方をすると、平均律の場合は、和音の響きが「ほんの少しだけ不完全である」ということになります(ちょっとだけハモっていない)。

自慢になってしまうかもしれませんが、私は合唱団の指揮者をしていたので、この音の違いもわかりますし、純正調の「ド・ミ・ソ」と平均律の「ド・ミ・ソ」の違いを歌い分けることもできます(純正調のミは音が少し高いです)。

たいていの人には、この微妙な違いはわかりにくいところですし、無視できる程度とも言えますが、この「平均律」を作り、導入したヨハン・セバスチャン・バッハは、今後の音楽界にとって決定的な発明を行ったと言えるでしょう。

これは、科学上の発見や発明ではありませんが、私は、たとえば「ニュートンの万有引力の法則」の発見などに匹敵する偉大な出来事だったと思います。

科学の発見や発明などの背景には、非常に美しい理論や原理が描かれるので、私たちはそれらに魅了されますが、ここでは、「純正調は完璧で平均律は不完全」という、一面的な見方(極論)をすべきでないと思います。

ところで、以前、ここの記事でも書いたと思うのですが、ニュートンが万有引力を発見したころは、イギリスでもペストが大流行の時代でした。

学校(ケンブリッジ大学)も閉鎖され、自宅待機だったようですが、暇をもてあまし、ぼんやり庭を眺めていて、りんごの木からリンゴが落ちるのを見て発見できた、とされています。

おそらく、これは実話ではなく、ニュートン流のジョーク(「ひまだったからですよ」というメッセージ)だと思っています。

いずれにしても、「真理」と感じさせる理論の美しさから、私たち科学を学ぶものは、万有引力のように引き付けられ、感動を受けます。

アインシュタインにしても、徹底して思考実験を行い、真理に近づきました。

突き詰めれば突き詰めるだけ、本質があぶりだされ、複雑に扱われていたものが、単純化されていきます。たとえば1つの方程式がこれまでわかっていた2つの方程式を表わし得たりするのです(実際、アインシュタインの2つの方程式がマックスウェルの4つの方程式を表します)。

一般に、科学の分野では、価値の高いもの、理論だとか原理などは、よりピュアなものである場合が多く、シンプルになります。

クォーク理論の論文はわずか2ページで書かれています。もちろん、論文ですから、本論以外の部分も含まれていて、たった2ページなわけです。社会科学系の研究者からすると信じられないことだと思います。

湯川秀樹博士の中間子理論にしても、私が計算しても、わずか4行程度の表現で、原子核内の世界を説明します。

このようなもの、たとえば理論物理に触れていると、雑然とした日常や世界とは異なって、見事に統合された世界や原理があるのではないか、と考えさせられ、美術的な感性に刺激を受けてしまいます。

さて、お話を戻したいと思います。

科学的な大発見などは、このようにピュア、そしてシンプルであるという特質があるのが普通ですが、それとはある意味対極にあるようなもの、つまり対称性の破れや不完全性、あるいは妥協などについて扱うものもあり、これもまた、とても大切ではないかと最近思うようになりました(社会の中での「中庸」もまた、同じです)。

「平均律」は完全に現実的な妥協です。しかし、非常に美しい妥協です。

この平均律のおかげで、さまざまなアンサンブルやオーケストラなどの器楽音楽が発達しました。

ジャズやロック、ポップもすべて「平均律」の恩恵を受けているとも言えます。

当然、「平均律」が最終形である、という保証はありません。

たとえばコンピュータを使った演奏の場合、楽器の制約がないので、楽器のための音階制約すらはずせるからです。

「非平均律」の方向に進むかどうかは不明ですが、このバッハの平均律の威力は、コンピュータによる演奏が出現するまで、何百年かは絶大だったといえますし、大きな影響を与えてくれました。

このように、私たちに役立つもの(ご利益?)を与えてくれるものこそが、たたえるべき偉大な発見、発明、そして業績だと言えるでしょう。

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これだけ早いテンポで国際化や情報化が進むと、ローカルな価値観の保持がなかなか困難になってきています。グローバルな価値観が強い勢いで広がっているからです。

一般的にはこのような状況下、「ローカルを大切にしよう」という意見が言われることが多いと思いますが、逆に、グローバルを早く取り入れないとトラブルを生じかねない、という懸念もあると思います。

高校での英語授業を英語で行うようになるという話は、小学校への英語授業の導入以上に、私にはとても重く感じられます。

上辺だけ英語になるのではなく、文化的な影響もあるからです。

2~3人で談笑していたときにどなたかがその部屋に入って来られたします。

グローバルなマナーだと、(入って来られた方へ敬意を表すべき場合は)みな、話をストップして立ち上がり、握手をしてあいさつする、といったマナーは日本人にも受け入れられつつあるマナーではないでしょうか?

思いめぐらせてみると、テーブルや車のシートの着席などなど、きりがないくらい、マナーの問題があります。

マナーは、敬意や謝意、思いやりなどが凝縮したものです。

言葉づかいすらマナーではないかとも思いますし、儒教的には、それは「礼」でしょう(服装ももちろん「礼」です)。

儒教だから、欧米マナーだから、あるいは日本マナーだから、という個別の文化に属したものではなく、もともと、もっとグローバルに、「人が人に気遣いをし、そのことを言外に伝える」という効果を持ってマナーは実行されるものだと思います。

日本の学校(小・中・高校)では、たとえば教師が教室へ入ったとき、どのようにするのが一般的でしょうか?

私が子供の時分は、クラスの誰かが号令をかけるまで、静かにするように気をつけることはあっても、自主的に起立することはなかったと思います。

どうでしょうか。

日本では、誰かが「起立」と言い、そして「礼」といって指示を受けるまで、待機するのがマナーであるようです。

しかし、グロバールマナーでは、その逆です。

敬意を払うべき人がいらっしゃったら、人から言われるのではなく、自ら起立して敬意を示します。

言い変えると、自主的に起立しない(=待っている)日本式は、グローバルでは非礼に当たるのです。

オバマ大統領の演説を見ていてかっこよく見えるのは、権威ぶっていないところからくると思います。

完全にフレンドリーなのに、堂々と意見を伝えるところが欧米式、グローバルな(民主主義的?)スタイルです。

これもマナーだと言っていいでしょう。

いまや、このような西欧合理主義・民主主義的、グローバルな価値観では、「同等」「対等」を示すことはマナーとなりつつあります。

アメリカ人、あるいはイギリス人でもそうですが、親子であっても「You」と「I」。父親の名前を呼び捨てるのがかれらのマナーです。それは上下関係を作らないからです。

もちろん、「Mama」とか「Daddy」などと呼んだりしますが、そう呼ぶ段階はまだ「子供」だと本人も親も認めているわけで、お父さんをたとえば「John」と呼べるようになったとき、まだ6歳でも、その子自身大人になったような自覚を持つことになります。

日本の「お父さん」「お母さん」は廃止して名前を呼び捨てよう、と申しているのではありませんが、これほどの違いが存在するのです。

英語の授業を英語でする、これはとてもいいことですが、実は非常に深い意味を持っていると思います。

グローバルマナーも入ってくるからです。

これまでの高校の英語の先生は、英語について教える先生でよかったのですが、この移行により、グローバルマナーも伝えられないことには、あるいはちゃんと意識して扱えないことには、(単にこれまでの日本語でしていた授業を英語に翻訳しただけの)ちんぷんかんの英語授業になってしまいそうで心配です。

心配ばかりしていても仕方ないので、教育指導要領が出たそうなのでダウンロードしてざっと目を通してみました。

うーん。抽象論しか書いていません。ポイントがほとんどつかめません。

教育する方々への要領(ガイドライン)ですから、もっと明確にあるものかと思っていたいのですが・・・。

他にも補助的なものがあるかも知れないので気をつけておこうと思います。

いずれにしてももちろん、基本は思いやりです。

コミュニケーションも、文化理解も。

グローバルに思いやりが伝えられるかどうかがとても重要になるわけです。

その意味でも、私たちが学校、とくに義務教育で学んでいるものは、ほとんど「社会科」であるとも言えるのではないかと考えています。

英語は社会科です。

道徳も社会科です。

算数も・・・社会科です(?)。

教育とは、人が社会的な存在として生きていくために必要な資源や技術を養成するわけですから、当然と言えば当然ですが。

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物騒な話ですが、話題になっている北朝鮮のミサイル発射についてのことです。

ニュースで報道されているとおり、北朝鮮は、核放棄にいったん合意していながら、その履行については引き延ばしをしながら、今回報道があるように、ミサイルの発射を準備しているようです。

ミサイル発射については、以前にもあったのでさほど大きなニュースとしてとらえられていませんが、今回は、日本がそのミサイルを迎撃することを検討していることから、話がエスカレートしてきています。

北朝鮮は、もし、日本が発射したミサイルを迎撃したことが判明したら、すぐに報復を行うとのコメントを出しています。

遠方へ遠征して、攻撃をするようなものでない、このような防衛行動については、これまでの政府見解でも憲法違反ではないとの判断があるため、日本による「迎撃」を「憲法違反だ」とする考えは少ないだろうと考えられます。

問題は、このような重大な問題についてすら、きちんと対応ができない日本の仕組みについて懸念されることです。

みなさんは、どんなご意見でしょうか?

そもそも、武力の行使は憲法違反なので、どんな国から何が飛んでこようと、何もすべきでないのでしょうか?

反対に、防衛は当然のことであり、ミサイルに対する迎撃発射を行うべきであり、核弾頭付きであれ核弾頭がないミサイルであれ、発射することあるいは攻撃することの無意味さを伝えるべきなのでしょうか?

日本が迎撃するようなそぶりを見せたからこのような反応をおびき寄せたのであり、見て見ぬふりをすべきなのでしょうか?

私の意見は、防衛という非常に大事な事項について、きちんと定義し、管理できていないことが最大の問題だと思っています。

以前の航空幕僚長の発言についての対処も、対処できないまま過ぎていくことに虚しさを感じます。

北朝鮮の考えや行動は、明らかに国家として病んだ状態のように私たちには見えます。

しかしそれは、戦闘状態であるからなのです。

日本が戦闘状態であったときとどれほど違うでしょうか?

日本が平和であることを感謝しつつ、平和であっても、このような重大問題を解決するための段取りをひとつも進められない政治状況を非常に残念に思います。

これは、私の個人的な考えかも知れませんが、男性の何割かの人は同様の思いを持っているのではないかと思ってお伝えします。

たとえば選挙。

だれに投票するか、を考えたとき、自分が交通事故か何かで不慮の事故で死ぬような場合、誰に家族たちを任せたらいいか、と考えて私は投票するようにしています。

誰だったら任せられるだろう、としっかり考えてから投票します。

なかなか、すばらしい方だと実感できることは少なくても、実は、そのような人かも知れない、と考えることすら非常に少なくなってしまっているのは、見抜くだけの自分の力量不足もあるのではないか、と考えます。

この北朝鮮のミサイル問題についても、各政党や、政治家たちの考えを知るためのチャンスであるので、意見を知りたいと思います。

もちろん、争いをせず、融和策を徹底して進める力が最も望まれるのではありますけれども。

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今日、ご紹介するお話は、何度か聞いたお話です。たまたままた、お聞きしたので、記事としてご紹介することにしました。

このお話は、病弱の娘様を亡くしたご夫婦が、亡くなって一周忌の日に、連れていくいことができなかったディスニーランドに、供養のために夫婦で訪れた時のお話です。

・・・

ガイドブックを見て、かわいいお子様ランチがあることを知りました。二人は、亡くなった娘さんにも楽しませてあげたいと思ってそのレストランへ行ったのですが、8歳以下の子供しか頼めない規則だったようです。

あきらめかけたとき、お店の人(ディスニーランドのキャスト)にオーダーできるかどうか尋ねてみたそうです。すると、

「三名様、こちらへどうぞ」

とご案内いただき、4人掛けのテーブルになんと子供用に高い椅子まで持ってきてくれ、

「本日はよく来てくださいました。どうぞご家族で楽しいでいってください」

と、まるで亡くなった娘さんがその場にいるかのようなもてなしをしてくれたそうです。

奥様も、ご主人さまも涙があふれる感動をいただいたそうです。

・・・

このディスニーランドの「お子様ランチ」お話は、いろいろな方から教えていただきました。

内容を知っていても、また涙が出てきてしまうのは、どうしてでしょうか?

接客の心がけの観点で伝えられることもあります。

また、「共感」の大切さを知るお話でもあると思います。

かけがいのない、大切な命を失ったご夫婦の思いももちろん伝わりますが、そのお気持ちを一人の従業員がその場で理解し、対応している様を想像することに、心が動かされてしまわないでしょうか。

私たち人類は、人の痛みも理解できます。

人の痛みが別の人に伝わることにも、感動してしまいます。

これは、きっと私たちの本性であり、この本性を大切にしたいものだと思います。

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人が人を選ぶこと

2009 年 3 月 1 日

人が人を選ぶこと。

選挙、結婚、就職、昇進、入試・・・。

私たちの社会の構成や私たち個人個人の人生を決定的にするシーンで、人が人を選んでいます。これがとりわけ重大な意味を持つ場面がとても多いです。

ときどき、「間違った」と思って解消したり、変更したりすることもありますが、なかなかやり直しができないことが多いのも事実です。

たとえば入試。

某私立高校の入試問題に、とても短時間で解けるような問題ではない、「え?」と思うような奇問がありました。大量に東大合格者を出している東京の私立高校です。

評価点をいかにばらつかせるか、という「評価の都合」と、合理的かつ効率的に点数を与える、という「採点の都合」とで問題が作られるからです。

きっと、過去に類似の問題が出されてあって、その問題の正当率が高い人たちの入試合格の割合が高かったのかも知れません。そのような難問、問題が再度形を変えて出されることがよくあります。

高校は、高校の評価点が高まるように(たとえば東大合格者数が最大になるように)、高校の入試問題を作成します。そして選抜します。結果的に、選抜者(高校)の評価を高くしてもらうために、合格者を決定します。

このようにして、1つの選抜のやり方やその内容が、高校の入試、中学の入試・・・などへと伝搬して伝えられます。

果たして、日本で必要な人材は、そのような問題を解ける人たちなのでしょうか?

さて、たとえば総理大臣。

1年程度でバトンタッチ。

何度でも、勝てそうにない総理・総裁であれば交代させればいいという論理が通用する理由は、現在の選び方(システム)によって定まっているからそのような繰り返しとなります。

もし、1度だけなら総辞職できるけれども、2度目は必ず解散しなければならない、と仕組みが変わったならば、選ばれ方が変わり、トップの人の要件すら変わり、選抜方法も変わらざるを得ないでしょう。

このようなシステム(仕組み)の欠点は、欠点が現れるまで見えません。

でも、欠点が見えても変更しようとしなければ、そのやり方で維持されていきます。

そして、変えませんし、変えるためにエネルギーを使うことをほとんどの人がしないのが日本の特質ではないでしょうか?。

「・・・では戦えない」という言葉も、本来は、政党の立場に立った発言であり、本来国民に向けて言ってはならない、ひんしゅくの発言でしょうが、それを日本国民は許す寛容さを持ち合わせています。

「これは選ぶ仕組みの問題」と騒ぐ人もいません。

真剣に、「選抜という仕組み自体に問題がある、だから・・・のように変えよう」という議論をしません。戦後できあがった、このようなにわか作りの政府・政権の作り方も、リーダーの選び方もまったく改善がなされないまま継続されます。

私たちは、人の問題や政党の問題ではなく、選ぶシステムの問題だとなぜ気づかないのでしょうか? あるいは気づいていて指摘しないのでしょうか? あるいは思っていること、指摘していることについて、力を合わせて変更しようとしないのでしょうか? (とくに、メディアは半分指摘しますが、世論の関心を引くことだけがテーマであり、良くしていくことに興味がないのではないか、と思われることも多くあります)

アメリカは、オバマ大統領を20099年に選ぶまで、2004年から数年がかりで時間をかけ、労力をかけてきました。

重大だから時間をかけています。

重要だからしっかり労力、エネルギーを費やします。

「選挙をしろ、選挙をしろ」の圧力がかかってきていますが、どう人が人を選ぶのか、そのことについて、真剣に考え、真剣に対策を立てているでしょうか? 世論形成、合意のプロセス作りについて、真剣に考えているのでしょうか?

にわかな選挙をし、にわかな体制をつくり、また同じことを繰り返す。

どうして、仕組みにタッチしないのでしょうか?

そのことを言い出したら大変だから、でしょう。そして、エネルギーを使いたくないから。

大切なものほど、しっかりと考慮し、しっかりと選び、しっかりと守っていく仕組みを作りたいと思いませんか? そして、そのことに対してエネルギーを使いたいと思いませんか?

そうしないと、「銭失い」であり「時間失い」になるだけだと私は思うのですが・・・。

いずれにしても、人を選ぶ問題は、非常に大切で奥が深い問題だと思います。

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「まじっすか」

2009 年 2 月 26 日

今朝、会社へ向かって足早に歩いていて聞こえた人声。

「まじっすか」

ビジネススーツを着た若者が、もう一人の若者(おそらく会社の先輩)に話した言葉です。

年齢の高い人たちには、話し言葉として納得できない向きも多いでしょう。

しかし、若者同士の会話としては決してブロークンでないことをお伝えしたいと思ってこの記事を書いています。

常識的には、目上の人にこのような言葉づかいはよくないということは、若者もわかっているはずです。

しかし、日本語のむずかしいところは、あまりかたくるしく話したくない間柄がある、ということです。

「そうなんですか」

というと、ちょっと堅苦しくなるから、「まじっすか」になったのだと考えられます。

とくに、東京の言葉の場合、硬い敬語かブロークンな俗語か、二択になってしまうことが多くて悩ましいシーンがあります。

(これが、日本語の一番難しいところです。英語では「I」と「you」だけ!動詞や助動詞を使い分ける必要がないのですごく楽です)

その点、近畿の言葉の場合、やわかい尊敬(・・・してはる、とか)があると、表現にバリエーションが出るのでとても便利です。博多弁の「・・・しとらす」もこれにすごく似ていますが、東京弁・標準語にはそのような表現がないのです。

さて、じつはこの記事で書きたかったのは、もう一つあります。

それは、日本語の「す」についてです。

日本語は重要な言葉を最後にもってくる言語です。

・・・が・・・を・・・しなかった

のように、一番最後に過去を表わす「た」、否定を表わす「ない」そして、「する」があります(末尾から文頭へ)。

対話では、「です」「ます」をつけますが、「です」は「であります」が略されていると考えられます。

この最後の「す」はもともと現代語の「する」と同じ「す」です。

ここで、ちょっと分析的に言葉をみてみましょう。この私のブログの記事、最初からここまで、ほとんど終わりは「す」です。

まだ、日本語がよくわからない人にとっては、対話している日本人は

・・・す
・・・す
・・・す
・・・か
・・・う
・・・す
・・・す

という具合に、「す」の連発、オンパレードです。

たとえば、私はほとんど韓国語を知りませんが、

・・・か
・・・よ
・・・だ

などのように、(文法だけでなく)日本語と非常に似た末尾の助詞が並んでいることに気がづきます。

私たち日本人は韓国語を聞いただけではほとんど意味がわかりませんが、言語学者によると、同一言語の方言程度の違いだ、という方もいらっしゃるくらいです。

さて、日本語の文末の「す」。何も分からない外国人が聞いたなら、「す」が文末(ピリオド)を表わすのではないか、という仮説を立てる人も出てくるかもしれません。

「です」はたいてい英語の「be」に相当し、「ます」は「do」に相当することが多いので、それをさらに分解した末尾の「す」は、英語の「be」も「do」も包含した事象を表わす概念、または伝達を表わすものではないかと考えられます。

たとえば「まじっすか」。

これは、「まじ」「です」「か」を短く言ったものです。

「です」の「で」が「っ」になっても、「す」は消えません。

日本語がどんどんブロークンになっている、という方もいらっしゃいますが、私流に言いますと、少なくとも二千年くらいは、骨格は壊されていないのではないかと思います。きっと、もっと古いのだと思います。

すごく強力な語だと思いませんか?

さて、この「ませんか?」の中に「す」があります。どこでしょうか?

はい。

「ます」「えん(ぬ)」「か」

をつないで話しているだけですから、「せ」の中にいました!

見つけましたね!

こんなことを考えていると日本語もとても楽しいですよ。

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ドクター苫米地によると、動物の器官はそれぞれ遺伝的に決まっている、機能が成長してとまる年齢というものがあって、脳の言語機能については、8歳から13歳だそうです。

これは、小学生高学年くらいまで海外で過ごした人たちはバイリンガルになっても、大人になってから海外留学した日本人がバイリンガルになるのが難しいことを意味しています。

生物の進化と密接な関係がある、このクリティカルエイジというものは、環境に対する最適化を行い、それを維持するようにした仕組みだそうです。そのため、8歳から13歳までに自身の脳が定めた言語を、自分の言語として固定してしまうのだそうです。

では、クリティカルエイジを克服して新しい言語を身につけることはできないのでしょうか?

ご存じの通り、10歳くらいまでに学んだ方法で学べたらいいのですが、苦労を伴うことはありますが、不可能ではありません。

ドクター苫米地は、「新たな言語機能を脳に作ればいい」との意見をお持ちで、彼はそれを「英語脳」と呼び、この言葉は広く使われるようになりました。

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時間をかけたのになぜ、英語が話せない?

日本人はなぜ、何年も英語を学んでも、聞いたり話したりすることが苦手なのでしょうか?

原因として指摘されているものには諸説あります。

「学校の授業が文法や英文解釈中心だから」ということ、つまり「オーラル(ヒアリングとスピーキング)のウエートが低いことが原因」という意見を多く聞きます。それは事実ですし、解決の鍵がそこにあることは確かです。

では、ウエートを逆転すれば話せるようになるのでしょうか? 重きをヒアリングとスピーキングの時間にかければスラスラ話せるようになるのでしょうか?

あるいはまた、考え方が異なる別の意見として、「日本人ははずかしがりやだから」とか、「正しさを求める完璧主義だからなかなか話さない、だから話せない」という意見もあります。それも原因の一端を伝えています。

名詞の単複や動詞の時制など、文法的なことは無視して、ブロークンで話せる人の方が、間違いを気にして話せない人より外国人とコミュニケ―トできることも事実です。そして、軽く言葉が出る人の方が、口が重い人より早く言葉を習得していきます。

しかし、よくしゃべっているのと、うまく伝わっているのは違うことです。

外国人の日本語を聞くときに、分かりやすい人と分かりにくい人がいませんか? 多少のなまりや癖はあっても、聞きとりやすい日本語を話す外国人と、何を言っているのか分からない外国人の日本語がありますよね?

「私のブロークンはよく伝わる」と自慢する人もいますが、実は、聞く方が「外国人」を気遣ってくれて、意識を集中してエネルギーを費やして聞いてくれていることを知っておかなければなりません。

ですから、学ぶときに間違いを恐れないことは大切ですが、国民性が問題で話せないというのは、ポイントがずれていないでしょうか。

日本にいて、英語をしっかり身につけられた方の多くは、長文(文字)を読み、辞書を引き、日本語と英語とを行ったり来たりして、大変な労力、ストレスを脳にかけて勉強されてきています。さらに、英字新聞や英文雑誌を読んだり、映画を観賞したりと、膨大なエネルギーを注いで取り組み、身につけられたことでしょう。そのような方には、本当に頭が下がります。

言葉は、簡単に身に付けられないことは事実ですが、ある程度時間をかければ誰でも身に付けられるのも事実です。つまり、英米人、オーストラリア、ニュージーランド人たちは育ちながら英語を学んだのであって、母国語環境であれば多大な苦労をせずに英語を操ることができるようになる、ということです。もちろん、逆の言い方をすれば、英語を母国語とする人たちは、誰もが完璧で高度な英語を読み書きできているわけではない、ことも真実です。

ここで問題としていることは、私たち日本人が中学校、高校、大学と、かけた時間や労力ほど言語理解と伝達能力が身についていないという事実です。

この、即応できる言語能力を得られていないことが一番問題なのです。

たとえば、端的に言いますと、「非常に平易に話されているオバマ大統領の演説の英語を聞いてわかり、その程度の英語を話せるレベル程度まで、どのようにすればできるか」という問題です。シェークスピアレベルの英語を味わったり表現力を付けようとしているのではなく、普段の会話やスピーチ程度の語学力をどうつけるか、ということです。

これまでの英語学習の中で、スキル習得に役立たなかったり、逆に阻害しているものはなかったのでしょうか?

言葉を音ではなく文字(記号)として扱ってきたことの問題点

漢文手法で中国語を読んで理解してきたように、英語も同じように扱ってきました。日本人にとっては、文字を見て声を出す、あるいは、声を出しているときに文字を見る、というようにしてきていないでしょうか? 英文を声を出して読み、人が読んでいるときに文字を見る、ということです。

ちょうど携帯に依存する人が携帯の画面に釘付けのように、授業中、英文字に依存して発音を聞いたり、英文字を見ながら発音したりしていることです。「顔を見て話そうよ!」とテキストを置いて授業ができていない、という問題を述べているのです。

それこそ、「文字を離れて話すと文法ミスをしそうで心配だ」という方がいらっしゃるかも知れません。このことは、先に指摘した性格の問題にも関わりますが、たとえば、自転車に乗れるようになりたいときに、補助輪は必要ですが、ずっと補助輪を付けつづけても乗れるようになりません。辞書や文字にぴったりくっついていたら、逆にこぎ出すこと、離陸が難しくなるのです。

また、日本の教育課程では、テストで「英文を訳せ」「和文を訳せ」「文法の誤りは何か」「正しいものはどれか」といった問いに答えられること、つまり、設問に答えられるようになることがあたかも教育の目的のような結果を生む仕組みになっています。

すると学ぶ側の心理としては、言葉を習得したいという長期目標は持っていたとしても、得点を取るという短期目標に負けて、訳すテクニックを身につけることになります。

そうです。漢文式の「音声認識」ならぬ「文字(記号)認識」です。それを日本語での思考を使って行うのが最も速く効率的なやり方です。文法問題も、はたまた、発音問題までもパターン化して覚えようとします。教師の側も正当数や正当率で「英語」の力を測っていると思っていますが、実は、「英語」に関わるパターン蓄積と正解解答能力を計測しているだけなのです。

このように、記号、文字に対する反応能力を要請しているわけですから、音に対する能力はなかなか育てられていないのです。実は、このような教育の問題は、英語だけでなく、すべての教科、すべての学問についても言えることなのですが、ここでは、話は広げないことにします。

私たちはこのように、日本語を使って授業を受け、文字を見て理解しようとし、問題を解こうとすることを長年続けていきます。外に出たとき、補助輪(文字)が外されます。それを頼りに学んできたのに、それをはずされたらたまったものではありません。

このような苦労を何年やっても話せるようにはならないのは非常にもったいない、残念なことではないでしょうか?

しかし、海外(英語圏)に身を置き、自由に話せるようになった方々は現在、非常に多くいらっしゃいます。どこが日本での学習と違ったのでしょうか?

当然、日本語がない環境であることが一番大きなポイントです。つまり、日本語を思い浮かべる間を持てない状態にいることです。

辞書をよく引いたから言葉を学んだのでしょうか? そういう方もいらっしゃるかも知れませんが、たいていはその逆だと考えます。音を聞き判断しなければならない状態になっている、ということです。日本語や英単語が入り込まない状態に置かれている、ということが最大の要因でしょう。

もっと自然な学び方がありそうです。そうです。赤ちゃんの言葉の習得方法からおのずと、答えが分かるのではないでしょうか。

理想は赤ちゃんの言語習得

赤ちゃんが言葉を学ぶときに、文字が必要だったでしょうか? 早く字を覚えてほしいとして、話す都度文字を見せることをやっていたらどうなるでしょうか? そのようなことをやり続けたいと思いますか? やるべきだとお考えですか?

ひょっとして、あやまった言葉づかいを習得しないよう、幼年期あるいは学童期に、辞書を引くことをさせ続けるとどのようになるでしょうか? 実際にそのような小学校があることをご存じの方もいらっしゃるでしょうが、私は賛成しません。辞書依存症に育ててしまうことは、誰しもが想像できることです。山のような付箋をつけた辞書を持ち歩く子供たちから、辞書という「補助輪」を取り上げるときのことを考えると、私は心が痛んでしまいます。

私たち日本人が英語という教科を学ぶにあたり、文字に依存した学習を行ってきたことがお分かりいただけたでしょうか? また、母国語でない外国語を学ばせるときには、どれだけ不自然な方法を行っているかおわかりいただけいただけたでしょうか?

では、母国語でない言葉を学ぶには、わかるようになるまで、ただ聞き続けさえすればいいのでしょうか?

理解でき、話せるようになるまで、わからない言葉を聞き続けることが唯一の学習方法でしょうか?

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パワーポイントを使ったプレゼンは、ビジネス分野でも、また、学界でも最もポピュラーなデンタツの方法です。

アメリカでは、大学・大学院の講義もパワーポイントを使うのが一般化しているようです。

この方式のいいところは、解説という音声に、スライドという準動画を備えたものである点です。

動画のほうが、まさっているのではないか、と思われがちなので、この記事を作成してみました。

確かに動画は魅力的です。総合芸術である映画はまさに動画(もちろん音声付)です。

しかし、ちゃんとした動画を作るためには、かなりの労力、コスト、そして人的なリソースを要します。

言い方を変えると、ちゃんと労力、コスト、人的リソースをかけないといい品質のものはできない、という特徴をもったメディアである、ということです。

いま、まさに私が書いているブログのようなメディアはそれとは反対に、労力、コスト、人的リソースをかけなくてそこそこのものを生産することができます。IT時代のすぐれものだと言えます。

利用していながら、ほとんど意識されていないかたも多いと思いますが、ブログの特徴は、次のようなものです。

1.CMSであること

コンテンツ・マネージメント・システムといって、記事内容さえ登録すれば、自動的にHTMLを生成する、というシステムです。汎用のCMSもぞくぞくと出てきていますが、なかなか一般にははやりません。それは、深くなればなるだけ、機能が増え、直感的に操作することが難しくなるからです。

その点、ブログは、非常に簡単なCMSであり、更新、変更、コメント、そしてトラックバックなどをかけることが可能です。

言い変えると、コラボレーションが可能なメディアである、ということです。

2.RSS配信できる

変更内容をXMLという書式でサーバサイドに置いておくだけで、フィードと呼ばれる更新データを保持し、それを外部の登録した人・パソコンから更新内容のチェックを受ける、という仕組みで最新情報を知りたい人に届けることができます。

3.PINGで通知できる

PINGサーバと呼ばれる、ブログなどの変更情報を保持するところに対して、ブログを更新したときに、「更新しました」という通知を行います。RSS(フィード)の登録は、一般の人が行うものですが、PINGは専門のサーバです。特にランキングサイトのようなところが、このPINGを受けることで、更新されたことをタイムリーに把握するようになっています。

このように、ブログは非常に優れたメディアではありますが、最高のデンタツ力をもっているか、というと多少の難点があります。

書物と同じく、読む側の読む意思と力が必要だからです。

更新したこと、更新内容を通知することはできるものの、読む側、見る側が楽に情報をゲットするまでには至りません。

そこで期待されるのが、動画やスライドプレゼンまたはスライドショーの役割です。

いずれも、扱うデータ量が大きいため、なかなか普及していないのが現状です。

これまで、写真などの画像データすら、遠慮がちにWebに掲載したものでした。しかし、動画やスライドショーになると、10倍あるいは100倍程度のデータ量になってしまいます。

これは、自然に動いているように見せるため、テレビと同じ多くの画像(=フレーム)を表示するためです。11秒間に数十枚の絵を見せているのです。

YouTubeの流行りのように、動画の地位は次第に高くなってくるでしょう。

しかし、先ほど述べたように、動画の制作には多大なコストがかかるため、市場にながれる動画は何らかのコピーでない限り、おそらく、さほど質の高くないものになるのは、ある意味いたしかたない面もあります。

そこで、注目されるのがスライドショー(スライドプレゼン)方式です。

企業内で、企業間で、研究室内で、学術発表の場で、行われるスライドプレゼンは、実は、紙芝居と同じです。絵本の読み聞かせと同じです。

これは、根源的に人を引き付ける力があると思います。

もちろん、上手にスライドプレゼンできる人、できない人の差はありますが、内容さえ魅力的で、読み人の気持ちが入っていれば、魅力あるプレゼンが可能です。

そして、ないよりも、個人または少人数で作成することができるのです。

自動プレゼン(=スライドショー)であっても、絵を作る、ナレーションを入れる、必要により音楽などのBGMを入れる、といったことは、実はたった一人でもできます。

動画は無理です。

画像だけをとってみても、映写する人、照明を適切にする人、1カメだけであれば迫力に欠けます。複数台のカメラにすると、カメラマンだけでなくスイッチャー、映像ディレクターが必要になります。音を収録する人、ミキシングする人、編集する人・・・。

どうしても、コスト、手間、人的リソースを要してしまうのです。

しかも、しっかりしたディレクターや演出家がいないことには、すばらしい作品を作り上げることなどほぼ不可能です。

IT、インターネットの時代とは、コストや労力を押さえながら、いいものが流通する時代だと思います。

その点で、スライドプレゼンの時代が来るのではないか、と私は考えているのです。

駆け出しのミュージシャンたちにとって、プロモーションビデオは高嶺の花です。

しかし、録音といくつかの写真を合わせればプロモーションスライドは簡単に作れるのです。

会社の紹介、商品の紹介、求人、地域の紹介、タレント(人材)の紹介、などなど、コストを極力抑えながら、アピール力あるプレゼンができるのがスライドショーです。さらに、学習教材でも、スライドショーが威力を発揮することになります。

膨大なコストをかけて動画を作成することができない人々、会社が増えながらも、宣伝・広告・PRのニーズは高いままなのです。

私は現在、「ききまね英語」のスライドショーを作成しているのですが、この教材に限らず、私の作成した無料・有料のレポートはすべてスライドプレゼン方式のレポートとなっていることにお気づきになられたことだと思います。

そうです。すべて絵本化しているわけです。

これが、読む側、見る側が一番楽で、情報提供する側としてもコスト最小、効果最大に提供できるメディアだと思っているのです。

近い将来、スライドプレゼンのスキルを競って人々が集うようなサイトを作りたいと考えています。

そのサイトができるまでは、いくつも、ある程度の品質のスライドショーを作っていきたいと考えています。

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1つ前の記事でも基本的なオーラルの英語力をつける方法についてご説明しました。

同様の意見を言われている方も多くいます。

代表的な方は、「英語は逆から学べ!」の苫米地秀人(とまべち・ひでと)さんです。

ドクター苫米地は、私と同年の生まれですが、実は、私は入れ違いで彼と同じ研究所にいました(私が彼の使っていた机を使ったので覚えています)。彼は覚えていらっしゃらないかもしれませんが、学会などでいっしょだったこともあります。

脳機能学者・計算言語学者で、エール大学、カーネギーメロン大学(博士)、徳島大学、ジャストシステムの研究所長などを務め、オウム真理教信者の脱洗脳や国松長官狙撃犯の記憶回復を手掛けたりと、本当にいろいろなことに関わり、また、脳機能や学習法などでベストセラー、ミリオンセラーを売りまくる彼が提唱したのが、「文字を見ない」英語脳の育て方です。

実にそのとおりだと思います。

ドクター苫米地は、「ホームドラマなどを聞き流せ」と言っていますが、基礎の基礎部分は、最初は難しいのではないかと思います。

そこで、英語脳の基礎部分を育てるための教材を作ってみようか、と考えました。

現在進行中のプロジェクトを少し早いのですが予告編として公開することにします。

キーワードは「ききまね」「ききまね英語」です。

専用のサイト(http://kikimane.com)を立ち上げる予定です。

今回の記事は、その12カ条からなるキャッチコピーです。

【1】ききまね英語は、聞いて真似するだけの簡単な方法ですが、野球がうまくなるために、キャッチボールや素振りをするようなものです。基礎練習せずにすばらしいプレイをする選手がいるでしょうか?

【2】言葉は音です。日本語も英語も音です。自然な英語を繰り返し聞くことで、着実に英語脳を成長させます。

【3】ききまね英語は、聞いて真似するだけですから、聞くことと、真似することに集中できます。状況、雰囲気、発音やアクセントの違いに気をつけて聞きましょう。

【4】ききまね英語は、長年英語を学んでも話せない主原因の「文字依存症」から脱却させ、英語脳をしっかりと育てることが目的です。

【5】音に集中することで、音声認識の精度を上げ、英語脳の成長を促進できます。

【6】音がしっかりと英語脳に定着するまでは、文字、単語、英文は読まないようにしましょう。読むのは、たっぷりききまねした後です。もちろん、洋画の英語字幕も控えましょう。

【7】スペルを覚えるのは、ちゃんとききまねできるようになってからで遅くありません。正しいスペルを書けなくても、英語圏で難なく話して生活している人もいます。

【8】基礎単語1000語くらいは、しっかりききまねしましょう。日常会話の半分以上はカバーします。

【9】間違うことを恐れる必要はありません。ききまね練習が足りないことを心配しましょう。とくに、英語だけで過ごす時間を持てない人は、自分のプライベートで、ききまね時間を作りましょう。

【10】正しく聞き取れていなくても、正しく発声できていなくても、数をこなせば、自然に正確さが増していきます。味見するように、耳をしっかり澄まして聞き分けてみてください。違いがわかれば、今度は真似してみましょう。

【11】ヒアリングは鑑賞です。スピーキングは演奏です。ききまねは、一人で自転車を運転できるようになるように、補助輪付きで走っているようなものです。この、鑑賞と演奏の基礎練習のおかげで、まもなく自分の言葉が口をついて出てくるでしょう。

【12】あれだけ複雑な自転車の運転も、やっているうちに、考えずにできるようになります。英語も考えずに口をついてでてくるまでは、音、アクセント、スピード、ポーズすべてを吸収しながら何度も真似しましょう。できてから、スペルも覚えましょうか。書けた方がいいですから。

具体的なトピックと内容など完全にフィックスしたわけではありませんが、お試し版と初級版を早急にリリースする準備を進めようと思います。

生徒たちだけでなく、中学や高校の英語の先生方にも役に立てばいいと思います。

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2013年から高校の英語の授業が「基本的に英語でされる」ようになる話は、以前お伝えしました。

私はこのプランに大賛成です。

きっと困難や問題は発生するでしょう。けれども、きっと改善努力はなされるでしょうし、それは決して無駄にはならないと思います。そして、多少なりともグローバルな時代の人材育成にプラスになると思います。

それどころか、これまで暗記や穴埋めにかけてきた時間が多少なりとも、思考や伝達の力を高めるために活かされるのではないかと、心から楽しみにしています。

もちろん、心配に思うものもたくさんあります。

ここでは、期待、心配、そしてその対処案も考えていきたいと思います。

【期待1】 英語は書かれた英文を読むものだ、という慣例の打破

私は「書かれた英文を読む」という学習法への偏りにより、本来「人の顔を見て話す」というスキルを育てるのに失敗している、と考えています。

先生が読む、生徒が読む、自分が読む。その間はテキストの字面を目で追いかける。

・・・ これが日本の学校での一般的な英語の接し方です。

音を聞くのは決して問題ではありません。問題は、音を聞いている間、文字を目で追いかけていることです。

その習慣化により、聞いた音を頭で吸収する前に、文字との対応ずけをする思考回路を作り上げていることが問題だと思っています。

発話する人の顔を見ながら、この単語かな、あの単語かな? と考えながら聞く習慣を全く身につけないのです。

本来、言葉は音でしかありません。

記録のために文字というものが発明され、利用されているだけです。相手を見ながら音を聞いて頭で理解する、のが基本です。

スペルを頭で考えている時間はありません。これは別の技術です。この、大人の技術は次の段階で利用するものだと思います。

この基本をやらず、音声・文字対応作業をやってきたため、英語を音として聞き取ることも、音として表現することも、なかなかうまくできないようになってしまったのだと思います。

非常に変わった英語教育を日本では行っていないでしょうか?

「いや、私は、文字を見て、手で書いて、声で出す作業をしてきた」

といわれる方もいるでしょう。たしかに学習効果が高い方法ではあります。

でも、私に言わせていただくと、言葉の習得という本来的な順番は、まったく逆です!

「音を聞いて、音を言ってみて、文字を見せてもらい、文字を書いてみる」

これが言葉を学ぶ自然な流れです。

なぜ、逆の流れをやるのかと言えば、合理性、効率の理由からです。

手渡された教科書や学習資料をもとに、自分で学べるようにすることを求める「日本的合理主義」(要は教える手間を少なくする技術)です。

穴埋め問題をするのも、採点を楽にするためです。

もちろん、漢文として中国語を日本語に置き換える伝統も、このような方式が根付かせた原因だとも思います。

「漢文」の先生は中国語の先生でしょうか?

同様に、これまで教えられてきたのは「英語」ではなく「英文」だったのではないでしょうか?

英語の先生ではなく、「漢文」の先生のように「英文」の先生。

先生も生徒も話せなくて当然なのです。文字として学んでいるのであり、対応付けに終始し、言葉、音として学んでいないからです。

文字と音との関連付け作業をやりすぎたため、英語能力が非常に偏り、音の認識力が極端に低下させているのです。

そのような教育を何十年も行ってきたわけです。

【心配1】 高校では、英語授業がわからない人を増やすのではないか

高校に入って急に英語での授業になったとき、「先生が何を言っているのか分からない」という事態が生じる可能性があります。

とくに中学時代に英語を聞く、真似る時間をしっかりかけていないと、このような事態になってしまうでしょう。

まず、中学英語を変えなければなりません!

【対策1】 中学時代にしっかり聞く、真似る時間を

もちろん、最初の最初のころ(中学1年の1学期?)は、音を重視していたはずです。

意味も分からずに、「リピート・アフター・ミー」と言われて、文字もろくすっぽ見ずに後をつけていた頃は、誰もが英語は楽しい教科だったでしょう。

ものまねするだけでいいのですから、楽しかったはずです。

とことん楽しむべきです。とことん真似するべきです。

この楽しさを少なくとも千単語くらい覚えるまでは持続させるべきだと思います。

・・・

同時通訳を目指す人が最初に徹底して行う訓練は何だと思いますか?

ひたすら、聞こえる英語を(多少の時間的な遅れは生じさせながらも)後をつけて発声するのです。

英語と日本語の同時通訳をするために、英語を聞いて同じ英語を話す練習をするのです。

これは、リピートともパロット(オウム返し)とも言いますが、この鍛錬をとにかく続けます。

そして、少しずつ英語の発声を遅らせてきます。(これは脳にためる練習です)

この練習を続けていくことで、最終的には、聞こえた音を日本語表現へと移すことができるようになるのです。

基本は聞くこと、次に真似することです。

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石川遼君の名前を冠した雑誌

「月刊 石川遼」

の第一号が発行されたそうです。

アマゾンのサイト

その中で紹介されていることが、朝のニュースで紹介されていました。

石川遼君のお父さん、お母さんの教育方針が書かれているようです。

「人に好かれるように」というコンセプトがお父様の教育方針、あるいは彼を育てた1つの方針のようです。

これは、簡単そうでむずかしいことですね。

・人のためにつくしなさい。

・人に迷惑のならないようにしなさい。

だと、ちょっと硬いですし、どうしても半分嘘を含んでいるように感じることもあるでしょう。

でも、「人に好かれるように」はストレートでわかりやすく、いやみは少なく、それでいて実現はむずかしい。

目指すコンセプトとして非常にいいものの例だと思います。

お母様の教育コンセプトの方が、少し硬いようですが・・・。

でも、石川遼君は、実に、さわやかで感じのいい青年です。

もちろん、個人の資質が1番でしょうし、教育だけでは説明できないでしょう。

石川遼君もガッツポーズをしますが、不快感は決して与えません。

また、相撲のように、本来禁止されているスポーツと比べられないところだと思います。

今回の朝青龍関のガッツポーズの件で、剣道などでも厳しい採点になったり、負けたりすることを知りました。

規則面でも、従来型日本の武道では「有言実行」あるいは「力の誇示」はダメだったのですね。

嫌みなく、ストレートで表現できることはとてもいいと思いませんか?

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【リリース記事】

ネットビジネス(アフィリエイトなどの副業や情報起業)に役立つ8ファイルを無料でダウンロードできるように用意しました。

メルマガ購読を兼ねた無料レポートの提供ですが、4ファイルは、この分野で著名な方々の無料レポートで、残り4ファイルは、私が作成しました。

  1. アフィリエイトプログラムで稼ぐためにやってはいけない3つの間違い(小川忠洋)
  2. アフィリエイトインタビュー(宮川明、小川忠洋)
  3. 売上を倍増させる7つの顧客心理(ヤニクシルバー)
  4. バカ売れ情報商材を作る4つのポイント(小川忠洋)
  5. 仕事の心がけABC(側嶋康博、pdf文書)
  6. 仕事の心がけABC(側嶋康博、mp3音声)
  7. Office 2007で簡単画像処理(側嶋康博、pdf文書)
  8. Office 2007で簡単画像処理(側嶋康博、mp3音声)

「仕事の心がけABC」は以前、こちらのブログサイトでもダウンロードできましたが、超入門.comだけでダウンロードできるように変更しました。メールアドレスとお名前が必要となります。

また、「Office 2007で簡単画像処理」は、別のサイト(無料レポートのスタンド)で紹介されたのですが、頻繁にダウンロードされているようです。

ご興味のある方は、以下のリンクをクリックしてください。

ネットビジネスに役立つ『無料8ファイル』

オバマ氏のシカゴでの勝利演説の冒頭部分の3点列挙法の3番目について解説します。

It’s the answer that led those who’ve been told for so long by so many to be cynical and fearful and doubtful about what we can achieve to put their hands on the arc of history and bend it once more toward the hope of a better day.

これらの答えのおかげで、あまりに長い間、あまりに多くの人々から、できることでありながら(それをせずに)、冷めた目で(シニカルに)見たり、不安感を持って、あるいは懐疑的にながめるようなものだった「歴史の弧(アーク)」をぐいっと曲げて、良い日の希望へと向けることができたのです。

少し、むずかしい表現です。

しかし、ここで、明確に「希望」を語っています。また、因果(原因と結果)を説明しています。

「長蛇の列を作った人々」(1番目)が答えであり、「さまざまな属性の『合衆国』の構成員たちの実行」(2番目)が答えであり、それらの答えの存在自体が、歴史を正しい方向へと正した(3番目)、とつないでいきます。

1、2、そして3へと因果を説明しながら、音(発声)では、

It’s the answer … を3連発しています。

そして、冷めた見方や不安感や疑念を打ち払ったのは合衆国国民だと断言しています。

この表現の存在のおかげで、後で「your victory」という言葉が出てきたときに、まったく違和感を生じません。そして、結論的な表現である「Yes, we can.」へとつながっていきます。

深い構成です。熟考して作り上げた「詩」です。

・・・

さて、「詩」そして「3番」とくれば歌の話を思い出しました。

歌を歌うときなど、気づかれたことはありますか?

1番、2番、そして3番まであるのが普通です。

その中で、ふつう、3番の歌詞が一番大切です。

極論をすると、3番の詩を印象的に伝えるために、1番と2番がある、と言ってもいいかも知れません。特に演歌は。

たとえば、古賀政男・美空ひばりの「悲しい酒」の3番。

詩の内容を思い出されますか?

あの、どうしようもないつらさ、悲しさを伝えるために、この詩が作られています。3番を伝えるために、イントロがあり、1番があり、2番があるのです。

・・・

3点列挙法を見事に駆使するバラク・フセイン・オバマ氏は今日20日、大統領に就任します。

就任の式典は日本時間の明日未明ですが、アメリカだけでなく世界中を引き付けるものがあります。

イントロだけでなく、すばらしい1番、2番、そして3番を演奏してほしいと思います。

振り返って、日本の事情はどうでしょうか?

「あなたとは違うんです」と言って辞めた前首相。

「言明できない」とか「いかがなものか」、あるいは「悪いのはそちらのほうなのを忘れないでほしい」と質問者へ返す現首相の答弁。

何が問題なのでしょうか。

人の「共感」を得て、人の「同意」を得て、「希望」を持って政治を行わなければならない、それによって、初めて成功する、という認識が欠如していないでしょうか。

まず、痛みが分かる(共感できる)必要があります。

これがエンパシー(共感)です。

そして希望です。

それらを共有しなければなりません。

オバマ氏は、リンカーンやキング牧師、ケネディーたちを引き合いに出すことで、心の中に存在する希望の振動を呼び起こしています。

批判にカチンときても、「あなたとは違うんです」とは決して言ってはいけないのです。

多くの人と仕事を行う場合、共感と希望を持っていることをしっかりと認識したうえで、課題に取り組まなければなりません。

まず、問題の所在をつかみます。取り組むべき課題をあげます。その課題をシェアします。課題や取り組む内容について情報を共有し、その上で仕事を分担します。さらに、時折、チェックをして評価をし、フィードバックをかけます。

オバマ氏は生きているアメリカ大統領を全員呼び出しました。そして、独立宣言を出したフィラデルフィアからワシントンに入りました。

「歴史的な事実」も共感・共有しうる財産として「再利用」しています。国民の共感を引き出す方策を知っているのです。

彼は政治家ですが、詩人であり、演出家でもあります。

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オバマ氏の演説の本が売れています。

A.なぜ、ここまで人を引きつけるのか、少なくともテクニックの面で知りたい人たちがいます。

B.一般の人に感動を与える、思想的なものは何なのか知りたい人たちがいます。

C.あるいは、人が感じている感動を自分も味わいたい人たちがいます。

以前に、「エンパシー(empathy: 共感)」にポイントを置いて、思想的、論理構成的なデンタツについてお伝えしました。これは、Bに関連するものです。

今回は、一般に伝えられている、いくつかのテクニックについてお伝えします。日本のマスコミでは、「オバマ氏の演説は上手」と伝え、また、「どこが上手なのか」知りたい人たちが多くいますので、その点について少し議論したいと思います。

そのうちの一つは、「3点列挙法」と呼ばれるものです。

頭の中に残っている余韻に共鳴させる方法です。

これはベートーベンの運命のテーマである「ジャ・ジャ・ジャ・ジャーン」と同じです。

強いインパクトをもったフレーズを繰り返すのです。

そして、それが真実のもの、現実のものである迫力を作りだします。

私は「オバマ氏は単にテクニックのレベルが高い」ということをここでお伝えしたいのではありません。この説明をとおして、オバマ氏は、テクニックを最大限活かすように、考え抜いていることがわかることをお伝えしたいのです。

営業のトークでも、政治家の演説でも、宣教師の説教でも、一番大切なものは、人の心にどれだけ響かせられるか、ということです。

すごい、ということを伝えるのに、「すごい」と最初から連呼する方法もあるでしょう。でも、すごいとは思っていない人にはあまり通用しません。響きません。

さて、シカゴでのオバマ氏の勝利演説の最初は、ネガティブとポジティブの混合した表現から入ります。

Hello, Chicago!

If there is anyone out there who still doubts that America is a place where all things are possible; who still wonders if the dream of our Founders is alive in our time; who still questions the power of our democracy, tonight is your answer.

シカゴの皆さん!

もし、(今ここに)まだアメリカがなんでもできる、ということをまだ疑っている人がいるならば・・・、また、私たちの建国者たちの夢が生き続けていることを疑っている人がいるならば・・・、そして私たちの民主主義について疑問を挟んでいる人がいるならば・・・今夜がその答えです。

最初から、このように3回も疑いについて繰り返しています(彼の疑いへの疑いです!)。

そして「my answer」ではなく「your answer」なのがポイントです。しばらく後でそれが分かります。

注:doubt(ダウト:うそだろうと思って疑う)、question(クエスチョン:本当かどうか信じられず疑う)

最初の部分を打ち砕くために、それから後の3点列挙法を使用します。

It’s the answer told by …

It’s the answer spoken by …

It’s the answer that led those who’ve been told for  …

「なぜならば」と畳み込むように「It’s the answer」を連発します。まず、最初の「It’s the answer」フレーズを見てみましょう。

It’s the answer told by lines that streched around schools and churches in numbers this nation has never seen; by people who waited three hours and four hours, many for the first time in their lives, because they believied that this time must be different; that their voices could be that difference.

学校、教会の周囲にどれなに長い列ができましたか?こんなことこれまであったでしょうか?ほとんどの人にとって、3時間も4時間も投票のために待ち続たことなど初めてだったのではないでしょうか。どうして、こんなことが起こったのでしょうか。今度は違う。今度は自分たちの声が届くと考えたからではないですか?そう、これが1つの答えなのです!

(順番を変えて意訳してみました。)

このようにアメリカの可能性について疑いを持っていることに対する否定を、オバマ氏ではなく、彼の可能性にかけ、熱狂的に支持する人たちの行動という事実を伝えることによって行います。

勝利演説でありながら、「私たちは勝った」とか「自分は勝った」とは言わず、間接的に投票者を称えることで、否定的な意見に対し強烈な攻撃を行います。

しかも、それを三連発するわけですか、ひとたまりもありません。

上のフレーズはその三連発のうちの一発です。

次のフレーズに入ってみましょう。

It’s the answer spken by young and old, rich and poor, Democrat and Republican, black, white, Hispanic, Asian, Native American, gay, straight, disabled and not disabled — Americans who sent a message to the world that we have never been just a collection of individuals or a collection of red states and blue states. We are, and always will be, the United States of America.

若者も老人も、金持ちも貧乏人も、民主党支持者も共和党支持者も、黒人も白人もヒスパニックもアジア人もアメリカ先住民も、同性愛者も非同性愛者も障害者も健常者も。皆が、赤い州(共和党)、青い州(民主党)が混ざった個人の集まりというのではなく、「アメリカ人」として、世界へメッセージを伝えたのです。私たちは、現在、そして未来も「アメリカ合衆国」なのです。そう、これも1つの答えなのです!

時代的な広がり、多様性をすべて出し、すべて認め、すべての力を集める主張をすることで、エネルギーを集めてきたオバマ氏の思想を端的に表すフレーズだと思います。

力を集めるために、敵対するのではなく、二分法を提示するのではなく、「加える」のです。

日本では「チェンジ(変革)」ばかりに脚光があたり、「人々は変革を求めた」と伝えられていますが、オバマ氏の手法の特徴は、変化より、過去と現在と未来の統合であり、分離や分割や対立ではないのです。

英語で「chnage」と言うと、私には「着替える」という意味が一番目に上がってきます。

これは自動詞です。自ら行動し、自ら変化するものです。一般的には、他動詞であり、「他を変える」という意味に考えられがちですが、私は「変わろう!」と言っているように感じられます。

リンカーンやケネディーをなぜ持ち出すのでしょうか?

彼が、単に真似したいからではありません。

皆の心にある希望を振動(=共感、共鳴)させているのです。

人にアピールするときは、相手の心の響くところを響かせるのが一番です。

「そうだ」と思ってもらえるのが一番です。

ちょうど、柔道で、相手の力を使って技をかけるのに似ていると思います。

でも、もう一度申し上げます。

オバマ氏は考え抜いてテクニックを駆使して伝えているのです。

決して、ブッシュ大統領の演説のように「我々側か、それともテロリスト側か」のような単純で浅い思考ではないのです。

もちろん、「I」を極力排除する、謙譲の美も強く意識していると思わざるを得ません。

しかし、それでもアメリカ人に強烈にアピールするのです。

いえ、世界中に。

(3点列挙法の3番目については、次の機会とします)

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私が大学生だった頃ですから30年ほど前、英国生まれの詩人ジェームス・カーカップ(James Kirkup)氏が書いた「New Japan Now」という薄い英語の本を、たまたま書店で手にして読むことになりました。

ジェームス・カーカップ氏のホームページ:
http://jameskirkup.com/

英語を専攻しない私が、専門書や実用書でない英語の本を買うことはまれなのですが、なぜ手にするようになったか覚えていません。

でも、読み始めると、ぐいぐいと引き寄せられてしまいました。うーんとうなりました。どうして、日本人でないのにこんなことがわかるのか不思議でした。

彼が詩人だったことはもちろん知りません。また、そのようなことも書かれていなかったのですが、彼の英語の美しさにも引き寄せられ、読み続けさせられたのだと思います。

この本の前に「Japan Now」という書を彼が著わしているのですが、それから10年ほど経過して日本の状況が変わってきたので、新しい日本について書くことにした、とのことでした。

実は、本の半分以上が、ある意味、痛烈な日本批判でした。一方、高度経済成長する日本に対して、「お願いだから日本人は日本の良さを捨てないで!」と嘆いていました。

例えば、選挙宣伝カーの騒音や、電車が来るときに大音響で「電車が来ます!白線の内側に下がってお待ちください!」「ドアが閉まります!」とけたたましい音を流す日本について苦言を述べられています(私が知っている限りイギリスでは、電車のドアが閉まる時に一切アナウンスがない)。

日本人はこれまで、静寂や虫の音、風鈴の音を楽しみ、お茶をいただき、風流を楽しみ、身近な時間と空間を楽しんできたのに、どっぷりと騒音と商業主義につかっていることを悲しんでいました。

彼は日本人以上に古き良き日本を愛し、日本人の生活感覚のすばらしさを訴えていました。特に、がんこな日本の老人をほめていました。

そして贅沢でなくても、今、生きている日常の生活の中に、美意識や楽しみを持つ、まさに、日本人しかわからないような感性、文化の美しさ、すばらしさを驚嘆していました。

彼はそのことを「クオリティー・オブ・ライフ」(Quality of Life)と呼んでいました。これはいわば生活の楽しみであり、「生き方の品格」にすら通じるのではないか、と私は思います。

・・・

これは、欧米の文化とは極をなすものです。

欧米の化粧品の広告を見て、気づく方はいませんか?

化粧品でも、装飾品でも、家具でも何でもいいです。

「優越, Excellent, Super, Victory」がキーワードとなっているものが多いのです。

優越、あるいはナンバーワンが重要です。

たとえば、飛行機に乗って、目の前に高級カタログがあったとします。そこには、必ずや欧米式の「優越する」品々を光沢が飾り立てていませんか?

もちろん、「きれい!」と日本人は思います。特に女性はそうでしょう。

庶民にとっては、そんな時間の方が特別です。だから、高級そうな香水、バッグなどに目がいってしまいます。

すばらしいものは高いものです。他の人々が買えないものをもっていることが優越です。すばらしい品々とエクセレント、スーパー、そしてナンバーワン。

たとえば、階段を上りながら上から美しい女性が見下ろす「○ッ○○スーパー○ッ○」のテレビコマーシャルは、優越をキーワードとする典型的な欧米型の美の表現です。

このコマーシャルを全世界に流しています。アフリカでも、中国でも、インドでも、そして日本でも。

これが悪い、と言っているのではありません。

しかし、私は、どうしても、一神教的、絶対的、優越的見方、考え方、表現法を感じざるを得ません。

動物文化、あるいは牧畜文化、家畜の群れより優越するリーダー式に感じざるを得ないのです。

動物には、優越する唯一のリーダーで十分です。

これら絶対性・優位性が、ある意味、価値観あるいは文化衝突の根本原因となるものなのです。

日本人でも、優越するものに美しさを感じます。わかります。ほしいと思う人も多くいるでしょう。

でも、とりたてて特別でない、目の前のものにすら愛情を注ぎます。楽しみます。

(※欧米人も小物を楽しんだ入り、心のこもった小さなプレゼントやカードを送りますので、彼らにそのような感覚が分からない、と言っているのでは決してありません)

それをつかって、自分だけでなく、周囲とデンタツします。

絶対的に優越していなければならない必然性はほとんど必要ないのです。

これこそ、ジェームス・カーカップ氏が言った「クオリティー・オブ・ライフ」ではないでしょうか。

こけしや折り紙など典型的な日本らしさのものがありますが、私は、プリクラすら、現代の日本的な美であり遊びであると思います。

そして、漫画・アニメだけでなく、「カワイイ(Kawaii)」は、いまや、新しい価値観として世界へ発信されています(数年前の朝日新聞の元旦の大特集はこのKawaiiについてでした)。

セリ君が驚いた「痛いの痛いの飛んで行け!」も日本文化ではありますが、アフリカ人にもとてもよくわかる表現のようです。

金融という資本主義の屋台骨がけたたましく崩壊しつつある今、身近な美、楽しみを広げていく日本的なクオリティ・オブ・ライフが、今後世界にアピールし、広がっていく底力があるのではないか、と考えています。

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日本は、他のアジアの諸国とも文化をシェア(共有)しながら、独自の文化を形成しています。

日本人は一般的に、

【1】 タブーや扱いたくないことは上手に避けながら、
→ エネルギー損失は最小

【2】 感性・感覚を尊び(楽しみ)、
→ 若さを保ち、人生を謳歌できる

【3】 雑念を生じさせずに「ひたすら」はげむことを美徳とし、
→ 労働の美徳を保持しながら、無駄な思考・フィードバックを回避

【4】 疑わず、無防備で 性善説的な振る舞いをし、
→ 拳銃を下げた、警官の格好をした人を疑わない

【5】 ちゃんと漠然と多方面に感謝をしながら、
→ 「応援ありがとうございます」、のアスリートだけでなく
→ 先祖・周囲すべてに感謝

【6】 厄を払うことや祟りを回避することを強く願い、
→ 過去の日本ではこの重要性が非常に高かった

【7】 ご利益をささやかに求め(祈り)、またありがたく受け、
→ 温泉の効能だけでなく、神社仏閣すら「ご利益」で定義する
→ 米軍に守ってもらえるのも一種のご利益

【8】 不満について漠然と「政府が悪い」とガス抜きをしながら、
→ 革命で政府を壊すエネルギー、経済的な損失を生じない

【9】 杓子定規に法律を適用せずとも柔軟に対処することができる
→ 見事に法律と効率の間を縫って合理的な判断をする

【10】 ただし、問題があったときに、感覚的にざっくり捉え、あまり深く考えたり対処はしない
→ これが前の記事などで問題としているものです。
→ とことん責めること、改革「チェンジ」をしません。

という特徴があるように思います。
(これまでの私の分析的な観察を列挙しただけですから、まだまだあるでしょう)

これらの特性は個人の精神の安定性に役立っているものも多くありますが、社会の安定にも役立っているものが非常に多くあります。

【9】については、私が面白いと感じる事例が山のようにあります。また、【10】 については、これまで、かなり厳しく指摘してきています。壊さない、という保守性のメリットがある反面、改善できないというデメリットがあり、一番気になる特性です。

このように、日本人、日本文化は、対決や解決の分析や作法から程遠いにもかかわらず、実は、無益な争いを上手に回避する、争いを長引かせない技を持っている、とても愛すべき性質を保持していると思います。

私は、このように平和的な特性を持っている日本が大好きです。

外国人は日本人を「チャーミング」だと評しますが、他意がなく、魅力的です。言い過ぎると「イノセント(馬鹿正直のような、子供っぽさを含みます)」です。

やや茶化した表現になっていますが、実は、その生命力の強さと「美」感覚をとても尊敬しています。

私は、リーダーシップといった直接の形ではないにせよ、何らかの形で、このような特性が、必ずや世界の平和と安定に寄与するのではないか、と考えています。

どうしてかというと、世界制覇の野心が全く無く、タブーには触れず上手に、自分にとってご利益となるものは、しっかりと加えていく生き残り術を持ったまま、思いやりを発揮できるという、かなり高度なパワーがあるからです。

千年以上前、仏教を取り入れたときも、これまで保持してきたものをマイナスとはせず、仏教のご利益をプラスとしてきました。

日本の神社仏閣で、特徴、すなわちご利益がないものはほとんどないという事実も、非常に面白いと感じませんか?

日本文化は、本来足せないようなものでも、ちゃんと加え、みごとに融和させるという「生き残りの技術」があります。

牧畜文化は区分します。除きます。選別します。落とします。場合によってはタブーを衝突させます。

一神教文化同士は終わりの無い戦いを行うことがあります。

ダーウィンの思想は単にシンプルだから成立しているのではありません。きっと、「動物=生存競争」というものに根ざした文化があるのではないでしょうか。そのような思考パターンが厳然と存在しています。

私は、願わくば日本の「カワイイ」文化が世界の緊張を和らげ、戦闘地域の戦意を消失させることに役立たないかと祈っています。

「日本人女性は美しい」のようなCMを、イラクやイスラエルで流したいくらいです(もちろん半分冗談ですが、冗談が現実になるのもこの社会だと思います)。戦意喪失のマジックは日本にはたくさんあります。だって、竜宮城ですから!

もちろん、日本文化が完璧だと言っているのではありません。

本当の意味で日本人が合理性も身に付け、タブーにも上手に付き合えるようになれば、鬼に金棒です。怖いものなし!

だから、キーワードはハイブリッドなのです。

元来、チャーミングで、気配り、配慮ができ、他を尊ぶ人々です。世界の人々から好かれるのは当然です。

そのような中にあるからこそ、日本が戦争の負の遺産を清算できていないことを非常に残念に思います。

しっかりした独自の憲法であれ、国会決議であれ、政府見解であれ、自ら進んで出せないのです。作れないのです。変えられないのです。

本来大切な軍隊=自衛隊の掌握とコントロールについてしっかりした柱も作らない、作れないことを非常に残念に思います。

田母神氏の問題を、事実上の解任と「不適切」「残念」だけで放っておけることに、怖さを感じますが、それが日本なのです。

私には、無免許・無資格の軍人トップが(ミサイルや戦車などの)軍隊を運転しているようで怖くてハラハラしてしまいます。

また、何十万、何百万もの拳銃が町中にあっても怖く思わないことを怖く思うのです。

第二次世界大戦の大問題を、きっちりと清算せず(これは、亡くなった方には冥福を祈っていますが、300万人の犠牲者を出し、焼け野原の中で苦しんできた国民に対して明確に政府が謝罪を行っていないことを指しています。対外的には謝罪を行ってきています)、軍隊についての明確なビジョンを構築しないまま、少しずつ状況に合わせて大きくしてきたものについて、マスメディアすら、強い指摘はできません。なぜなら、きっちりした指針を持っていないからです。

だから腫れ物やタブーには触れないのです。

おそらくどの党も、米軍の日本からの撤退をきっちりと進める方策を練ったり、交渉したりすることもやる気はないでしょう。

票に結びつかないものです。そんなエネルギーを使いたくないのです。そもそも、アメリカの軍隊というご利益があるのですから・・・。

しかし、もうそろそろ、アメリカがこれまでのアメリカとして世界の中で位置づけられない時代がやってこようとしています。

北朝鮮の状況によりますが、「韓国から米軍が撤退する」という話が出てくるのではないか、と私は予測するのです。

そのときになって、日本中があわてるでしょう。どう進めていいか、あわてふためくでしょう。

日本が言い出す前に、(経済的・世界戦略的な理由から)「日本からの米軍の撤退」の話があったとき、「そんなこと考えていませんでした。話を聞いて驚きました」と首相や防衛大臣が発言するのでしょうか?

そんなことになったら私はとても情けなく思います。国を構築する基本すら、組み立てていないのです。

第二次世界大戦を清算せずに米国に依存したからです。

ノーベル平和賞をとった佐藤栄作首相の米国による核反撃の話は「けしからん」という意見が多くあることはわかります。でも、「もしも」の言質をとっている、というしっかりした「依存症」の方が、何も考えていないほったらかしより、「政治家」として職務を行っていると思います。

非核三原則のスローガンは、米国との裏取引により成立していたものです。ですから、単にノーベル賞を辞退すればよかっただけです。

このようなことは、平和なときは、誰も考えなくていいことです。軍事の心配も、兵役のことも。

私はつい、日本人が逃げたがる話題について話してしまいます。

それは「知っていながら、感じていながら逃げている、棚上げにしている」ことを知っていただきたいからです。意識からすら外す風潮が最近ないでしょうか?

さて、戦後、技術については、日本人はその特性を活かしてきましたが、残念ながら、科学には十分力を発揮できていませんでした。

しかし、昨今のノーベル物理学賞でもわかるように、民族としての劣勢はまったく無いといっていいでしょう。

ただし、粘り強さ、徹底した疑いと検証、強い目的意識、これらが文化的に不足している部分があることを私は強く感じています。改善のためにかけるエネルギーがどれほど小さく、まとまっていないか、を感じています。

日本人は他意がなく、チャーミングですが、それゆえ、論理的な追求や解決のための手立てをきっちり進めていく「合理性」が欠けている面があるのです。タブーに触れそうになったら、すぐさま外します(だからタブーです)。

何とか、その両面を持てるようにできないでしょうか?

美的な感覚、楽しみや笑い、ユーモアのセンスを持ち、合理的な分析や判断ができ、人を思いやり、しなやかで、愛されるハイブリッドを目指さないでしょうか?

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社会や問題ある状況を改善するためには、ちゃんと物事や状況を知り、その原因を考え、対策を考え、得られたことがらを共有し、協力して行動をしなければなりません。

たとえば、教員で性的な非行(いわゆる破廉恥行為)で処分を受けた人が年間180名(平成18年度文部科学省調べ)います。

個々の個別的なニュースは流れっぱなしなので、それを知ること、考えることも必要でしょう。

しかし、すぐに個別なことだ、と頭に置き去ってしまいます。

もし、本気でこの問題を解決したいと考えたとします。

何をしなければなりませんか?

どうすればいいですか?

簡単です。

知ること、考えること、行動することです。もちろん、その途中にデンタツが入ります。

どのような問題が発生していますか?

なぜこのような問題が起こったと考えますか?

どうしたら改善できると思いますか?

調べ、考え、行動すること、そしてその考えをまとめ、人に伝え、より客観化して現実性のある策へと変えていきます。

教員採用試験で、職員室の会合で、研究会でこのような話題が話されたことがありますか?

解決のために、必要性を認識し、改善しようとしましたか?

教壇に立っていた人間としてはずかしいです。

改善をしようとしないことがはずかしいです。

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日本全国で、何十万あるいは何百万丁もの拳銃が町中にあふれています。

もちろん、一般の警察官が携帯していることを指しています。

銃社会のアメリカだったら仕方ない面もあるでしょう。

でも英国の警察官は丸腰です。マラウイの警察官も拳銃は携帯しません。

日本の警察官が拳銃を携帯しなければならない事情は、何かあるのでしょうか?

おそらく歴史的な事情があるのだと考えられます。

でも、一般市民、国民がそれについて、問わないことと、全然抵抗感がないことの方が私には不思議です。

ここに2つ日本の特徴があります。

(1. 保守性) 事故や問題が起こっても、旧来のしきたりについては問いただしたり、議論しない

(2. 性善説) 拳銃を携帯する警察官が悪いことをしたり、間違ったりすることは仮定しない

武器を携帯するということは、重大なことです。いつも、気をつけてなければなりません。

町中にいる警察官全員がすべて万全なのでしょうか。かりに、万全でなくても、「これまでそうだったから」ということで、議論すらしないのが日本人の大多数です。マスコミも、余程のことがなければ問題点として指摘しません。

東京駅北口の交番で、警察官が自分の拳銃で自殺をしました。そのとき発射した玉は本人のみ殺傷し、通行人には被害は与えませんでした。また、つい最近、若者とやりあった末、警察官が拳銃を奪われることがありました。

アメリカの銃規制についての話はニュースや番組になりますが、日本の警官の銃規制については、意識すらないようです。

私がマラウイから帰ってきた後、日本のアパートに住んでいて、地域住民の調査か何かで警察官が部屋へやってきました。

コンコン、とノックをして「~署のものです」。

(私)「はい、どうぞ」

入ってきた警察官は、もちろん、腰に拳銃をしていました。ぶっそうなところ(特にタンザニアなどは治安がかなり悪い)から帰ってきた後だったので、一人しかいない部屋に、拳銃をしたままやってくる神経に唖然としました。

もちろん「自分の用事で他人の家や部屋に行くのに、銃を下げてくるとはどういうことか」などとは言いませんでした。でも、本当はそれが「世界の常識」だと思うのです。つまり、一般家庭を訪問するのに、銃を腰に下げる必要はないはずです。

でも、ここは日本です。一般家庭に訪問するのに、拳銃を腰に差したままやってくるのが普通なのです。

私がなぜ、日本を竜宮城だと言うのか、の1つの訳はこのような事実に基づいているのです(まだ「どうして竜宮城?」と言われるかも知れませんが)。

タンザニアで協力隊活動をしていた友人から聞いた話です。

その人はアパートに住んでいて、警備員(警察官などの公務員ではなく、警備会社の人だと思います)が一人、アパートの周囲を、ライフル銃を持って常時監視していました。

治安の悪い首都・ダルエスサラームでは、強盗なども多く、物音がすれば、自己防衛のために銃を発射していいのです。

もちろん、余裕があれば、「誰だ」とか尋ねることもあるでしょう。しかし、せっぱつまった状態では、撃たれる可能性すらあるため、先に撃つのです。

彼が滞在していた1年間の間に、何と二人も射殺されたそうです。誰が射殺されたのか、射殺された人たちが本当に盗人だったのか、どうかはわかりません。

あるいは調べてすらないかも知れません。ゴソゴソしていただけで撃たれるのです。そして、そのことについてのクレームはすることもできません。

怖いことに、その家に住んでいる人が、酒に酔ってフラフラと帰ってきて、自宅の警備員から射殺される、という事態すらありえるのです。

次の話も同じくタンザニアの話です。

近くに住んでいたマラウイの日本人隊員の友人がタンザニアを旅行していたときの話です。

タンザニア人の兵隊の一人がこっそりやってきて、自分の持つ自動小銃を見せ、(2万円程度で)「買ってくれないか」と言ったそうです。

「うん、そうだな。いくらほしくても、持って帰れないから、いらない」と言ったそうですが、腹を空かせた人が兵器を持っていることがどんなに怖いことか想像できますか?

「自分は金がない、でも、この日本人は持っているだろう」と思って近づいてきたのです。もし、買ってくれたらそのお金で逃亡する予定だったのでしょう。もし捕まれば、自分の兵器を売って逃げようとすることは、軍法会議で有罪となり、死刑あるいは重罪となることでしょう。

それをあえて行う人たちがいたのです。そして、このような状態が、ある意味、世界の大勢なのかも知れないのです。

話しかけられた日本人、すなわち私の友人も、撃たれるかも知れないと思いつつ、命がけで買うことを断ったわけなのです。

私自身もタンザニアを旅行したので、大勢のタンザニア人の兵士たちをみて、つくづく、腹を空かせた人に兵器を持たせてはならない、と思いました。上官ですら、撃たれる可能性があります。もちろん、大統領であってもです。

「日本人の警察官は途上国の人たちとは違う」と主張する人がいるでしょう。日本の警察官は腹を空かせていない、と。

自殺、事故、うっかり・・・。いろいろな場面があります。そして大問題を起こす危険性があります。

それでも全国の警察官に常に拳銃を携帯させるべきでしょうか?

・・・

「ピンポーン」とベルの音。

あなたは拳銃を腰に下げた警察官の格好をした人を部屋へ通しますか?

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「過ぎたるは及ばざるがごとし」

は論語の中で中庸について述べられた有名な表現です。

この表現が生まれたのは、弟子の子貢から

「師(弟子の1人、子張)と商(同じく子夏)のどちらが賢なのでしょうか。」

と尋ねられたときに、孔子が

「師は行き過ぎている。商は行き足りない。」

と答えたあと、さらに子貢から

「では、師の方がまさっているのでしょうか」

と尋ねられ

「行き過ぎるのは行き足りないのと同じだ」
(過ぎたるは及ばざるがごとし)

と答えたことに起源があります。

ここまでの話は、よく知られています。

しかし、師(子張)と商(子夏)とが、どのように行き過ぎたのか、行き足りないのかについての話は、あまり聞きません。

論語を読んでいて、以下の節でこの二人の主張を知り、また、その二人を「過ぎたるは及ばざるがごとし」と評した孔子の発言とともに、とても考えさせられましたので、ここにご紹介したいと思います。

これは、20編からなる論語の第19編「子張第十九」に書かれています。また、「過ぎたるは及ばざるがごとし」は第11編「先進第十一」に記述がありますので、離れたところに二人の意見の違いが書かれています。

師(子張)が、商(子夏)の門下の人に、人との交流について、商からどういう教えを受けているかについて質問したときのことです。

(子張)「子夏は何といったのか」

(子夏の門人)「ためになる人と交わり、ためにならない人とは交わるな、と言われました」

(子張)「それは私の学んだことと違っている。君子は賢者を尊ぶとともに衆人を包容し、善人を賞賛するとともに無能の人をあわれむ、と私は聞いている。自分がもし大賢であるなら、誰と交わろうと平気だし、自分がもし賢くなければ、こちらが相手を嫌う前に相手がこちらを嫌うだろう」

という対話がありました。

確かに、商(子夏)は人との交わりを限定的にしていて、反対に、師(子張)は広く考えています。

広い師(子張)の方がいいのではないか、と考えがちですが、孔子は、

「師は行き過ぎている。商は行き足りない。」

と述べているのです。

その詳細についての記述はありませんが、私には

「どんなに理想論を展開しようと、現実問題として対処できなければ、意味をなさない」

と言われているように感じます。

孔子の主張は、このように、単に理論家として概念や行動を規定しているのではなく、現実にどうすれば改善できるか、ということに立脚していることが伝わってきます。

もちろん、冷徹な現実論者という側面だけでなく、孔子の感情は、特に「仁」や「詩」、「楽」などについて述べている箇所を読むと人間的な暖かさや楽しみを愛する心が伝わってきます(そのことに関連するお話はまた、別の機会にお知らせすることとしたいと思います)。

ところで、師(子張)の考えのどこが行き過ぎているのでしょうか?

孔子はどうであれば中庸だと考えるのでしょうか?

現存する文献の量が少ないため、十分理解できないところがありますが、次の一節から、その考え方の一部がうかがえるのではないかと思います。

これは、「君子は和して同ぜず小人は同じて和せず」の話の次の節にあります。

(子貢)「その土地の皆にほめられるような人でございましたら立派な人といえましょうか」

(孔子)「必ずしもそうとはいえまい」

(子貢)「では、土地の皆に憎まれるような人がかえって立派な人でございましょうか」

(孔子)「そうとはいえまい。土地の善人にほめられ、悪人に憎まれるような人が、一番立派な人なのだ」

この節の解釈については、異論もいろいろとあるようです。

しかし、「唯一絶対」的な考え方、あるいは「盲従」に対する警鐘を与えているのではないかと私は考えています。中庸とともに、非常に味わい深い話ではないでしょうか。

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論語に以下の表現があります。

「知之者不如好之者 好之者不如楽之者」
(単に)知る者より、好む者の方がいい。
(しかし)好む者より、楽しむ者の方がいい。

※「不如」は文字通り訳せば「~のようにない/とは違う」

知る、好む、楽しむ対象は、「真理」(英語ではthe truth)というのが一般的な解釈のようです。つまり、

真理を知る者より、真理を好む者の方がいい。
真理を好む者より、真理を楽しむ者の方がいい。

このような解釈もあれば、また、

知識があることを見せびらかすより、好きな思いを持っている方がいい。
好きな思いを持っているだけより、そのことを楽しんでいる方がいい。

と、柔らかな解釈できてしまいます。のびやかなフレーズではないでしょうか。

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